保里よし枝句集『ひとりの窓』
冠省
このたびは玉句集『ひとりの窓』をご恵送賜り、ありがとうございました。
表紙が素敵ですね。タイトルの「ひとりの窓」の文字に、「窓越しのすべてのあなたへ。」の横文字。
薄空色の地に紺色の版画で、ひとりの少女が石造りらしい建物のアーチ型の窓に立ってピアニカを吹いているデザインの表紙で、少女の髪が風に靡いています。ピアニカのリード音が、架空の街に流れていっている、メルヘンの味わいです。
この句集の内容を暗示させるデザインで、「すべてのあなた」は目の前にはいない、つまり「わたし」にとっては架空の不在の「あなた」かもしれないし、「あなたたち」かもしれません。
句集を手にしてその扉を開こうとしているわたしは、その不在の「あなたたち」の中のひとり、「あなた」である「わたし」となるところです。
ピアニカの独奏のように、それを自分固有の「音」を「ことば」として発する作者は、孤独な「わたし」ですが、今のわたしのようにそのことばを読もうとする者のザイン(固有の存在)によって、ひとりである作者の孤愁が顕在化し始めます。他者と繋がり合えることについての、決して楽韓的とはいえない思いが滲んでいるかのようです。このように、句集がことばの窓であることを、ことばを発するという孤愁漂う営みによって、表明されているように感じました。そういえば、この表紙のデザインの窓には扉がありません。 いつでも開いているよ、という作者の意思表明かもしれません。
古来、歌は喜怒哀楽の共有という切ないまでの願いを込めたものだったでしょう。
わたしの個人的な好みを申し上げると、喜と楽よりも怒と哀の歌の方を偏愛する自覚があります。
ですので、句集全体が持つ明るいトーンと機智に飛んだ句より、孤愁の滲む句を好みますので、秀句揃いの句集の中から、特にその傾向で心に残った句を以下に揚げさせていただきます。
さえずりに宙の扉が動き出す
春紡ぐひとりの窓のメゾフォルテ
かっこうや指が覚えていた和音
神様の使いだと言う天道虫
髪を梳く風鈴殊に鳴る夜は
思い出のどこを残そう鳳仙花
ピアニカのミソドミソドと木の芽風
八月の汚れを裏に鶴を折る
空欄にしておくこおろぎの賞罰
傾いた時計そのまま冬終る
今朝の冬和音になれぬ音符たち
囀りをこぼさないよう瞬きす
いつもならその名あるはず秋蛍
手袋の穴を見つけた日から自由
寒林へ私ひとりの窓開く
奥付を見て驚きましたが、わたしより四つもお年上で、この若々しい詠法。
作者の日々のくらしぶり、姿勢からくる「若さ」でしょうか。
「さえずり」で「宙の扉」開き、mfの響の「ひとりの窓」で「春を紡ぐ」という作者。
郭公の高低差のある鳴き声に、もう一音たりない音を加えた三和音の形で指を動かしてしまう人は、鍵盤楽器に覚えのある人に違いありせん。
ピアニカのミソドミソドと木の芽風
ドミソのハ長調主和音の第二音から展開するミソドは、ドミソの調和からソドと跳ねる明るい響きとなります。その和音を「木の芽風」の中に聴き取っているのでしょうか。
神様の使いだと言う天道虫
演劇「ゴドーを待ちながら」では路上で待ち呆けする二人の前に現れる「ゴドーさんの使い」は人間ですが、この句ではなんと「天道虫」。「ゴドーさんは来られません」ではなく、この天道虫は「神様の使い」とだけ名乗っています。名乗って欲しいのではなく、伝言を聞きたいのに・・・・。
捻りの効いた不条理。捻りだらけの世相が鷲掴みにされているようで秀逸に感じました。
八月の汚れを裏に鶴を折る
戦後日本の八月に刻まれた「汚れ」はけっして落ちることなく、宛先のない手紙のように、わたしたちはまだ「鶴を折り」続けているのかもしれません。
空欄にしておくこおろぎの賞罰
傾いた時計そのまま冬終る
日本近現代史上のわたしたちの数限りない「罪」は、それを償う方法すら見出せぬまま、もう時間を進められもしない時計のように傾いで止まったままのようです。
今朝の冬和音になれぬ音符たち
単音の哀愁の暗喩的表現で、叶わぬかも知れない人との繋がりへの期待と、かすかな失望感を抱かされます。
囀りをこぼさないよう瞬きす
いつもならその名あるはず秋蛍
この周囲への静かで丁寧な眼差しと、だから気が付く何かの喪失感、生きるとは何かを失いゆくこと、という孤愁。
手袋の穴を見つけた日から自由
寒林へ私ひとりの窓開く
自由は他所から付与されるものではなく、自ら「見つける」ものという眼差し。
そして、寒気にも耐えて作者の心の窓は何かに向かって開かれ続けているのでしょうか。
以上、的外れかもしれない、拙い感想を書きつらねました。
保里よし枝さまの意に添う感想になっていましたら幸いです。
保里よし枝さまの益々のご健吟と、ご健康をお祈り申し上げます。
草々 武良竜彦
保里よし枝さま
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