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句集『素足』の精神世界        ――心身の直接性に立脚した不動の存在感

阿部菁女 素足

 二〇一一年の「小熊座」一一月号の「小熊座集」鑑賞の欄で、前半の前置きの文に、次のように書いたことを思い出す。大震災と原発事故の衝撃に、これから俳句をどう詠んでいくべきか、みんなが戸惑っていた時期のことだ。
    ※
私が尊敬する「小熊座」同人の阿部菁女さんの俳句世界に、これからも私たちが為すべきことの一つの方法が、すでに鮮やかに明示されています。

大鱈の総身を雪に横たへる       阿部 菁女
涙目の鱈の頭を洗ひけり        阿部 菁女
若布売る手秤にほぼ狂いなし      阿部 菁女
幾たびも柄を握りみる農具市      阿部 菁女

「大鱈の総身」「涙目の鱈」の圧倒的な具象性。そして「横たへる」「洗ひけり」という人間の黙々とした営為。無言の暮らしの思想の具象化。心身の直接性に立脚した確かな実存的感性と、不動の存在感の表現。
物質的に豊かな都会暮しの人の心身は乖離現象を起こし、生き物としてのリアリティを喪失し、どこか上の空の人生を送っています。しかしこれらの俳句には「手秤に」「狂いな」き確かな生の手触りがあり、心身が「握りみる」如く快く重なり合っている至福感と存在の手応えがあります。
   ※
震災後の世間も俳句界も、言葉が空疎なスローガン用語的になって浮足立っていた。そんな時だからこそ、自己表現としての言葉である俳句に携わる者として、阿部さんのような、自分の命の直截性の把握とその表現を深めることの大切さを、改めて痛感したことを覚えている。
あれから六年が経った。この度阿部さんが上梓された句集『素足』を通読しても、その思いは変わらないどころか、益々重要な重さを持って、心に迫ってくる思いである。

「野葡萄」
  冬眠の大蛇の息が雪降らす
  雪雲の端まで鯛の鱗とぶ
「蝶の道」
  冬蝶の黄をこぼしゆく鬼子母神
  風花を山の寝息と思ひけり
「乳銀杏」
  土塊のひとつぶづつに冬が来る
  捨て網をわがものとして滑莧 
 「祭笛」
  包丁の刃をまだ当てぬ鱈の腹
  むさかりや五万の黒き蝶の翅
「雪解光」
  大鱈の総身を雪に横たへる
  売れ残りたる種芋に日が当たる
「山彦」
  一枚づつ蛇の鱗の動きゐる
  水草生ふ古道はなべていくさみち
  
 句集の「あとがき」に「唯事俳句、報告俳句の轍を踏み続け、四苦八苦の日々でした」と書かれている。「唯事俳句、報告俳句」を突き抜けて、作者自身の紛れもない自己表現に達するには、その表現の奧に、作者独自の「文学的主題」というものが確立されていなければならない。
 阿部さんの俳句には、生き方自身から滲み出る、ものごとに対するぶれない視座がある。心身の直接性に立脚した確かな実存的感性と、不動の存在感に満ちた表現がある。
 特に、農作業か台所仕事に向かっているときの「私」の「行為」を詠んだ句は、静かな充実感に心が満たされる。

「野葡萄」
  蕪洗ふ北上川を目の前に
  裏口は上げ潮の海薺打つ
  北にわが父と母あり粽結ふ
 「蝶の道」
  鍋釜につらなるわれや雁帰る
  根の国の春夕焼けを鋤き返す
  寒林の一倒木として存す
 「乳銀杏」
  牡丹散る母系家族は襤褸に似て
  夏雲の村に住み古り鎌を研ぐ
  雪解田にわれも光の粒となる
「祭笛」
  膝の塵はたいて籠を編み初むる
  寒灯を離れて藁を打つてをり
  吊し雛紅絹きしませて縫ひすすむ
「雪解光」
  手の汚れ雪もて洗ふ農はだて
  若布売る手秤にほぼ狂ひなし
  翅生えしゆゑのをののき天蚕蛾
「山彦」
  種山の薄こそわが旗印
   
あの震災でさえ、この静かな精神の俳人はこう詠む。

  青饅の放つ酢の香や地震のあと
  火のごとく椿が咲いて激震地
  春遅き被災地へ発つ道具箱
  燕来る津波の泥を嘴に

 激震地後に何よりも雄弁に「火のごとく」咲く「椿」を置く。過剰にならない鎮魂の心。被災地に発つ「道具箱」という虚構を排除した省略と抑制の迫真的表現。命の実感に基づく視座を持って生きる俳人は、表層的な悲哀を語らない。安易な励ましや共感を求めない。心豊かに孤高の境地を守って命を慈しみ誠実に生きる。震災前、震災後を、命の根源的表現に徹した俳人の精神の軌跡がここにある。


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