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鬼瓦版 中嶋鬼谷個人紙 復刊第4号


2024年5月刊

 今回の「断章」の最初は、第58回蛇笏賞発表に因んで、俳句界の権威と化した賞の在り方についての考察である。出来レースのように形骸化していないかと、警鐘を鳴らしている。

 二つ目の話題は曽良の奥の細道『随行日記』のエピソード。磧で転んで衣服を濡らした芭蕉の姿を記録する曽良の、大らかな筆致に共感している。

 三つ目は日本の詩歌文学の歴史における、『古今集』の位置づけの話題。歌人の河野裕子の『うたの歳時記』、藤田真一の同人誌「禾」掲載の「時雨翁賛」を引いて、子規のように『古今集』を「くだらぬ集」と評したのに対して、「四季」を詩歌の「定型」としたのが『古今集』であり、『猿蓑』がこの後継であると評している。
 『古今和歌集』の編者たちが志したのは、漢字の伝来以来、漢詩を上位にみて、日本伝来の口誦詩歌を万葉仮名で記述する「やまとうた」を見下す傾向が貴族たちに強かった。それに対して「やまとうた」の隆盛を願って、「四季」を中心とする歌の日本的定型を示し、貴族だけでなく、広く一般の人々の日常の中で流布されることを願って編集したのである。その歴史的意義を知らず、季語論をうんぬんすることへの、中嶋氏のするどい批判がある。

 四つ目の話題は、アイスランドの文化に触れて、軍隊も原発もなく、病院、学校が無料で、なにより男女平等の文化が根付き、世界初の大統領を生んだ国であることを紹介している。その真逆のような日本の歴史と現状への批判意識が根底にある記事である。

 五つ目の記事は、虚子の句

  酌婦来る火取虫より汚きが   『五百句』

を引いて、ものごとの表面しか見ない浅い視点と、その背後にある男尊女卑的な旧態依然とした迷妄な思考を批判し、〈やはり虚子は「ホトトギス」の王座に君臨したお殿様だった〉論評している。

 六つ目はその「ホトトギス」の「切り取り跡」発見という朝日新聞のかつての記事を引き、戦時下、「日本文学報国会」の俳句部会長だった子規の、ここでもものごとの本質への深い視点を持たない子規の、視野の狭さと、その場しのぎ的態度を批判している。

 七つ目の記事は『林翔全句集』をめぐっての話題で、ここでも、林翔と虚子の句を引いて、林翔への共感と虚子への批判が述べられている。

  一花だに散らざる今の時止まれ       翔
  咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり     虚子
 
 「馬酔木」と「ホトトギス」の違い、織部の茶碗と青磁の違い、と暗喩的に述べて、直接的な批判文を控えた余韻を残す文章である。

 そして今回の中嶋鬼谷氏の俳句集は「絶望の街」と題して、十八句が掲載されている。
 それら秀句の中が、わたしが好きな句を揚げる。

  渦生れ山川(やまかわ)の夏始まりぬ
  親鹿に見つめられたり戻りけり
  老木の寄生木若葉飾なす
  母の忌の身ほとりに落ち沙羅の花
  この星に絶望の街瓦礫灼け


         ※         ※


「鬼瓦版」中嶋鬼谷個人紙 復刊5号  2024.6


 

断章(三)

 堀文子の画文集『季』のことばを紹介している。

 草木のそれぞれの枯姿に、静かな安らぎを見たという一文である。

 

 次は思想家、三木清について。

 「中央公論」に「戦時認識の基調」と題して、空襲禍が起こることを予言し、軍部の怒りを買ったことで、危険人物視され、ついには思想犯として逮捕手投獄され、敗戦後も長く釈放されることなく獄死したことを紹介し、国家権力の本性であると批判している。

 それは現在も変わらないことであり、中嶋氏の危機感に共感する。

 

次は中嶋氏のライフワークの一つである秩父事件と、今年刊行予定の『井上伝蔵の俳句』に纏わる内容である。

NHKの「ラジオ深夜便」に出演し、「おもかげの眼にちらつくやたま祭―秩父事件への思い」と題して話されたこと。

『井上伝蔵の俳句』は北海道に亡命した伝蔵を調査研究した集大成である。

また詩人の荒川洋治が書いた「秩父」というエッセイも紹介している。

 以上、三本立ての「断章」は、毎回、読み応えがある。

 

わたしが好きな句  

 山昇る風筋白き青嵐

 淡々と生きて黒穂を抜いてをり

 苺熟るる生家跡地よ遠き日よ

 シャッターを昼顔と錆びのぼりゆく

 流木に生えしごとをり夏帽子

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