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ふらここや聞こえぬやうに厭戦歌   春日石疼


  ふらここや聞こえぬやうに厭戦歌   春日石疼「小熊座」より

  小熊座同人に福島で永年に亘って地域医療に取り組んでいる医師にして、とても個性豊かな俳句を発表し続けている俳人がいる。このブログの表題にした、

   ふらここや聞こえぬやうに厭戦歌

という句を詠んだ春日石疼氏である。

「戦争反対」などと声高に叫ぶ社会通念語は命の固有性の敵である。
スローガン的指示表出語は、私たちの生きる時空を息苦しいものにする。それに抗い、石疼氏は耳を澄まさなければ聴き取れない、文学的自己表出語である俳句で、深く胸を刺すように「聞こえぬやうに厭戦歌」を囁くのだ。

   以上の鑑賞文は、この句が「小熊座」に発表されたとき、私が書いた感想文のリライト文である。
  すると、石疼氏から、同じ主旨でかつて書いたという随筆が送られてきた。
  とても面白く且つ深い内容の随筆なので、私一人で感慨にふけるままにするのは惜しいと思い、石疼氏の了解を得て、以下にその全文を再録させていただき、たくさんの人に読んでいただきたいと思った次第である。

        ※              ※

いくさを厭う歌       
  (「福島市医師会報」2018年7月号掲載)

  絶叫型に自説を主張する人はちょっと信用できないなと思う近頃である。反原発デモにしても、国会前の示威的な力の結集はともかく、街を行くデモは皆さんに語りかけるようなものの方がステキだなと思ったりする。僕たちの若いころは反戦歌もずいぶん歌ったし、今でもギター片手に歌うことはある。それでも、あんまり勇ましい自己礼賛的・他者攻撃的な歌は、ちょっと違和感あるなァと思ってしまう。反戦歌の持つ力は認めながらも、戦争を厭う歌、「厭戦歌」のほうが琴線に触れるようになったのは歳をとったせいか。
  僕がそのことをはっきり自覚したのは、森繁久彌が歌う「哀しき軍歌」というCDの中の一曲「可愛いスーちゃん」を聴いて。この曲は太平洋戦争中、下級兵によりこっそり歌われた。歌詞は以下のようなもの。例の「モリシゲ節」でせつせつと歌っている。

1.お国のためとはいいながら 人の嫌がる軍隊に
召されて行く身の哀れさよ 可愛いスーちゃんと泣き別れ
2.朝は早よから起こされて 雑巾がけやら掃き掃除
嫌な上等兵にゃいじめられ 泣く泣く送る日の長さ
3.乾パンかじる暇もなく 消灯ラッパは鳴り響く
  五尺の寝台わら布団 ここが我らの夢の床
4.海山遠く隔てては 面会人とてさらに無く
  着いた手紙の嬉しさよ 可愛いスーちゃんの筆の跡

  どうです? 軟弱でイイですよね。もとより戦意高揚の「軍歌」は(歌詞も音楽性も)我慢できるものではないが、「反戦歌」というのともちょっと違うと思うのは、この軟弱さにある。時代に流されてしまわざるを得なかった庶民の心のもどかしさ、せつなさを歌っているところにある。
  内容は軍隊生活の辛さと惨めさ、そして不如意を語っているわけだが、特に僕が好きなのは4番(3~4の間にもう1聯いれているものもある)の歌詞だ。そんじょそこらの二等兵では書けない言葉の遣い方である。「海山遠く隔てては面会人とてさらになく」の「隔て」「とて」「さらになく」、「筆の跡」などの遣い方は古風で律儀ながら優雅ですらある。作詞者は不詳だが、「作詞・大木かおる」としているものもある。大木かおるは「アカシヤの雨がやむとき」や「くちなしの花」の作詞者だ。しかし僕は、これは作詞作曲不詳であってほしいし、いろんな人たちが口承するあいだに変形し最終形が出来上がっていったものであってほしい。そういう歌の力はそこを通り過ぎて行った人々の心情が強く反映されたものとなるからだ。
  むろん「可愛いスーちゃん」が当時、大手を振って歌われたことはないであろう。兵営の五尺のわら布団のなかで密やかに呟かれたのだろう。このような、忠勇義烈を讃えない「軍歌」、軍隊生活の悲哀を歌った歌は「兵隊節」と呼ばれ、例えばちょっとした身内の慰労会や送別会などで、上官もなかば暗黙の裡に歌われたようだが、さすがに「可愛いスーちゃん」は上官の前で歌われることはなかったのではないだろうか。それほど軟弱で、軟弱ゆえに戦争への痛烈な批判性を持つ曲として、僕は愛するのである。
詠ミ人知ラズで言うならば、戦時に流布したものに「替え歌」がある。「ぜいたくは敵だ」を「ぜいたくは素敵だ」とおちょくったような民衆の批判精神が「替え歌」にもよく現れている。例えば、こんなの。

   昨日召されたタコ八が 弾丸に当って名誉の戦士
   タコの遺骨はいつ帰る 骨が無いから帰れない
   タコのかあちゃん さみしかろ
           (元歌・高峰三枝子「湖畔の宿」)
   夕焼け小焼けで日が暮れない 山のお寺の鐘鳴らない
   戦争なかなか終わらない カラスもお家へ帰れない
           (元歌・もちろん「夕焼小焼」です)
   ぼくは軍人大きらい (ぼくは軍人大好きよ)
   いまに小さくなったらば (今に大きくなったらば)
   おっかさんに抱かれてチチ飲んで (勲章つけて剣さげて)
   一銭もらってアメ買いに (お馬に乗ってはいどうどう)
           (元歌「僕は軍人大好きよ」・カッコ内は元歌)

  というシュールな替え歌もあり、これは男の子が好んで歌っていて、ちなみに女の子ヴァージョンは「わたしはハイカラ大好きよ/今に大きくなったなら/おしろいつけて紅つけて/ボートに乗ってスイスイスイ」だそうです。(男の子よ。先生にバレずに歌えたかしらね~)
  このように替え歌は、手段を持たない民衆が自分たちの本音を吐露したもので、「夕焼小焼」の替え歌の歌詞「山のお寺の鐘鳴らない」は、1941年の「金属類回収令」でお寺の鐘が供出されたことを歌っている。戦争の行く先が見えず、身内が殺され、ものが無い暮らし。そして人々の自由な言論が抑圧される非人間的な生活へのささやかな抵抗として、替え歌はアンダーグラウンドで流布し、人々の慰めであったと思われる。これらも厭戦歌だ。
さて、厭戦歌の中で今でも最も歌われるものは「戦友」ではないだろうか。この歌は案外古い。日露戦争が終わって間もない明治38年(1905年)に発行された。これは作者がはっきりしている。作詞は京都の師範学校の教員であった真下飛泉、作曲は小学校の音楽教員の三善和気。真下は与謝野鉄幹の「明星」の有力会員で、「石くれをパンとなしたる神の子の力のほしき世の乱れかな」などのキリスト教的人道主義の短歌を詠んでいる。日露戦争前後は軍歌が多く輩出した時代で、明治37年(1904年)には「小国民ヲシテ奮テ義勇奉公ノ壮士ヲ誘興シ敵愾ノ心ヲ喚起セシムル方法」として「高等小学校教科用ニ充ツル」こととなり、教育の場に軍歌が入り込んできた。
  歌詞は皆さんもご存知だろう。長い。14番まである。どれだけ長いかというと、井伏鱒二が「軍歌『戦友』」という作品の中で、宴会中に泥棒に入られた被害者に対して「旅館でも、団体客で被害に遭った組は、たいてい『ここは御国を何百里』を歌っています。」と巡査に言わせているくらい長い。井伏は「すっかり歌ひ終るまでに三十分はかかる」と書いているが、そこまで長くはない。歌詞は満州の戦場で戦友を亡くした際の緊迫感に溢れた前半、生前の友との思い出の振り返り、そして友の親へ送る手紙で終わる。     1番は有名な「此処は御国を何百里/離れて遠き満州の/赤い夕陽に照らされて/友は野末の石の下」だが、「戦友」を「戦友」らしくしているのは、以下のいくつかの歌詞だ。

3.嗚呼戦ひの最中に 隣に居りし我が友の
  俄かにはたと倒れしを 我は思はず駆け寄って
4.軍律厳しい中なれど 是が見捨てて置かれうか
  「確(しっかり)せよ」と抱き起し 仮包帯も弾丸の中
7.戦ひすんで日が暮れて 探しに戻る心では
  どうか生きて居て呉れよ 物など言へと願ふたに
8.空しく冷えて魂は 故郷(おくに)へ帰ったポケットに
  時計ばかりがコチコチと 動いて居るも情なや
12.思ひもよらず我一人 不思議に命永らへて
  赤い夕陽の満州に 友の塚穴掘らうとは

   これらの歌詞は聴く者の感情を強く揺るがしたのではないだろうか。「時計ばかりがコチコチと」という歌詞のリアルさなど胸を打つ。僕の亡母が4番の歌詞に「ああ、ここがええとこやな~」と呟いていたのを何回か聞いたことがある。この「ええとこ」が一番問題で、太平洋戦争中は「軍律厳しい中なれど」が「硝煙うず巻く中なれど」に書き換えられた。(この書き換えをしたのが、むかし僕などもラジオのクラシック番組や音楽雑誌でよく目にした堀内敬三だったというから驚いた。)しかしこのような恣意的な操作は僕たちが最も嫌うものだ。「軍律厳しい中」であっても「しっかりせよと抱き起こ」すのは人間の当然の感情で、それを否定する戦争・当局への抵抗、人間性の発露が厭戦歌なのである。
  ところで「戦友」は、真下飛泉が自校の学芸会で生徒らに歌わせた「出征」という曲の続編として作られたものだ。真下自身、「戦友」の序文に「(『出征』などは)『父母に孝に兄弟に友』なる御勅語の精神をこめてみたつもりです。『戦友』は前に続いて『朋友相信じ』の御趣意を以てかいてみました」と記したように、教育勅語の趣旨に沿ったもので、決して厭戦的な意図があったわけではない。何故僕たちは「戦友」を厭戦的な曲として感じるのだろうか。
  僕はこの歌を「厭戦歌」にしたのは歌ってきた民衆の力だと思うのだ。
  実は「戦友」はもともと「ピョンコ節」で書かれている。ピョンコ節というのは「付点八分音符+十六分音符」のくり返しのリズムのことだ。「タ・ラッタ・ラッタ・ラッタ・うさぎのダンス」のような元気のいいリズム。ところが現在歌われる「戦友」は「十六分音符+付点八分音符」の形で歌われることが多い。「逆ピョンコ」とでも言うべきか。これは引き摺るリズムだ。重々しい音楽に適したリズムと言える。楽譜通りの歌い方ではないのだ。
  さらに「戦友」の楽譜には「四分音符=114」と表記がある。これはかなり早い。AllegrettoでもAllegroに近い。しかし例えば森繁久彌の歌う「戦友」はおそらく四分音符=65、You Tubeで見ると島津亜矢という演歌歌手はなんと36くらいで歌っている。遅く演奏すると、当然重々しい感じ、情感のこもった感じが出て来る。「軍歌」として歌われている時は速く演奏されているケースが多いようであるが、それが反戦・厭戦、もしくは心の歌として演奏されるとき、この曲は遅いテンポで演奏される。この歌い方が現代では主流だろう。
   リズム・テンポのこれらの変化は、人々に歌い継がれるうちに生じたものではないかと思う。歌詞が元々戦争賛美ではなく、その悲惨さを写実的に扱っていること、心の葛藤や生の儚さという人間の根源にかかわる真実を示していることにより、人々はこの歌詞に共感をし、その思いのたけを歌として表現する時にリズム・テンポの変更を行ってきたのではないかと思われる。この曲が重く歌われるようになったのは演歌師がその独特の歌いまわしで広めたからという説もあるが、それだけではあるまい。明治・大正・昭和と「戦争はたくさんだ」と思う民衆が歌い継ぐ中で、おのずと形作られたものではないかと考える。少なくともその歌い方を人々は求めたのである。
   さて、厭戦的な内容を持つ曲は上記以外にもたくさんある。その多くは人の心の襞を冷静にそして暖かく衝いたものと言えるだろう。人間として当たり前の感情や振る舞いが、強制的な力で封じ込められたことに対するささやかな抵抗の精神がこれらに現れており、禁じられるゆえに存在するのが厭戦歌とも言える。歌われるにあたって、より心情を表現するに適した歌われ方をするようになっていくのは、厭戦歌に限らず歌すべてに共通はする。しかし厭戦歌には一つ独特の要素があると僕は思うのだ。それは放歌高唱してはいけないこと。ひっそりと歌ってこそ厭戦歌なのである。

<参考文献>
加太こうじ「軍歌と日本人」(徳間書店・1965)/小村公二「徹底検証・日本の軍歌~戦争の時代の音楽」(学習の友社・2011)/井伏鱒二「軍歌『戦友』」(1976)/宮本正章「『真下飛泉伝』の試み」(国文学年次別論文集・1982)/園部三郎「日本民衆歌謡史考」(朝日選書・1980)

        ※               ※

   いかがだろうか。
   心に沁みる名随筆ではないか。
  ぶれない庶民目線的社会批評眼が感じられる。

   話が少し逸れて遠回りになるが、私たちはなぜ、俳句、短歌、詩、随筆、物語という文学的創作行為に駆りたてられるか、という根源的な問いに、かつて吉本隆明は『言語にとって美とは何か』を始めとする一連の「芸術言語論」の中で、「指示表出」「自己表出」という概念で、それに鮮やかに答えていた。
  先に述べた私の「ふらここや聞こえぬやうに厭戦歌」に対する評文で使用した「指示表出」「自己表出」という言葉は、吉本のこの概念に基づくものである。
    吉本の文章はもって回ったようで解りにくいので、引用はやめて、以下、複数の書から私が読み取ったその主旨を以下に簡潔に述べておこう。

    吉本隆明の芸術言語論に倣うなら、表現における言語は二種類に大別できるという。
   評論文などに代表される論理的な説明的文章。これを吉本は「指示表出言語」と呼ぶ。
   俳句、短歌、詩、随筆、物語などの文学的文章。これを「自己表出言語」と呼ぶ。
   そしてこの「指示表出言語」と「自己表出言語」は互いに相容れず、逆立する関係にあるという。
   社会に溢れる「指示表出言語」に包囲されて暮らす私たちは、当然のようにそんな言語のうちに解消することのできない存在論的な思いを抱えてしまうことになる。
   その思いは「指示表出言語」ではとても表現することはできない。
ここに私たちが「自己表出言語」表現である、俳句、短歌、詩、随筆、小説などの文学的表現に駆り立てられる契機が生じる、ということだ。
抽象論では解りにくいので、「指示表出言語」の最たる例を次に引用する。
         ※
「わが国では約1,000炉・年(各原子炉の運転年数を全原子力発電所について加算した総和)の運転実績があるが、大量の核分裂生成物を放出するような炉心損傷事故は一度も起こしていない。このことは一基(炉)の原子力発電所に換算すると、1,000年間も炉心損傷事故を起こしていないことを意味する」
「炉心損傷事故によって最も高い放射線被ばくをするグループでも、リスクが自動車事故と同程度であるので、事故発生頻度を考えると、原子力発電所の安全性は自動車事故よりも一万倍以上安全であることになる」
(村主進「原子力発電はどれくらい安全か」原子力システム研究懇話会 原子力システムニュースVol.15,No.4) 
※注 この引用文は吉本の著作にはなく、私が引用したものである。
         ※
  これは原発事故以前に村主氏が「原子力システムニュース」というウェブ誌に発表していた論文である。
   計算上、千年無事故であることを以て「安全」と見做し、自動車事故より「一万倍以上安全」だから、原発を造ってそこで人を働かせても良いという「論理」が展開される。
   これが世に溢れている「指示表出言語」の見本のような論文である。
   説明的文章には、読者を論理で説得しようとする機能しかない。
   論理的で客観的であることが必須条件となる。
   客観的で論理的であるから「真実」であると、読者に了解させるためには、際限のない「論証」行為の積み重ねを行わざるを得ない。それだけではまだ論証されていないことがあるのではないか、と疑問を差し挟む余地が無限にあるからだ。
   結論から言えば、読者がそれを「真実」として心から納得することは決してない。
   それは「指示表出言語」の成り立ちからくる宿命だ。
   そしてもっと重要なことは、「指示表出言語」は、論理を展開するとき邪魔になる「現実」を削ぎ落とした記号となることを志向してしまうということだ。
   現実から統計的な「傾向」を量として数値化し、ものごとを論証しようと志向する。
  このことが言語自身の軽量化を招き、限りなく現実から遠ざかってしまう欠点を抱え込むことになる。
   村主氏の、統計的数値に依存して現実を削ぎ落とした文章を読み返えせば明瞭だが、現実というものが視野にないも、人命軽視、産業優先の貧困な発想、存在への畏怖心が欠落した姿勢がよく解る。
   現代社会ではこのような「指示表出言語」が満ち溢れ、魂の座を占領してしまって、人間の身体と精神を蝕んでいる。
   そんな空疎な言語を無自覚に使用し、人間の生き物としての現実感を喪失する方向に、国を上げて疾走してきた。
   その結果、何が起きたか。
   政治言語も文化言語でさえも、表層を上滑りする記号となってしまい、私たちの生存領域を狭める力となって作用し、人間社会を生きづらい場所にしてしまっていた。
東日本大震災は自然災害を契機として、このような「指示表出言語」に依って造られた空疎な思想・制度・設備が破壊された人的大災害であり、そんな言葉に依って築かれてきた日本近・現代史を貫く言語の薄っぺらな歴史が敗北したのだ。
   死者何名、不明者何名と「指示表出」的に繰り返し報じられることに慣れると、人の死から尊厳が剥奪される。
   死は個別的に把握されないと尊厳を失う。

   それに対して、「自己表出言語」である文学は、現実を削ぎ落として数値化と論理化を志向する「指示表出」的思考に鋭く対峙する。
   俳句とは、そもそもそういう言語の仲間なのである。
  今「俳句」という形式で言語活動をしていることは、「自己表出言語」派として、社会に溢れる皮相な「指示表出言語」派に厳しく対峙し続けるということに他ならない。
   質量を失った言語による存在の希薄化が私たちの精神を蝕んでいる現代に、生物としての私たちの身体的存在を防衛し、今を生きる私たちの魂に突き刺さる言葉の可能性を切り拓いてゆくこと。
   そんな「自己表出言語」としての俳句の、創造的継続の現場に「新しい言葉」は生まれ続ける。これからも。
近・現代の歴史に於いて、敗北したのは私たちの「自己表出言語」ではない。
 もう一度、先述の石疼氏の俳句に戻ろう。

  ふらここや聞こえぬやうに厭戦歌

 この句にも、そして冒頭で全文を引用した石疼氏の「いくさを厭う歌」という随筆にも、そんな「自己表出言語」派としての、深い批判の思いが込められているのだ。
彼が普段詠む俳句にもその視座から紡がれた思想性が感じられる。

     脱原発デモ夏蝶が横切りぬ

  今ごろになって「脱原発」を声高に叫ぶ行為に、後出しジャンケンめいた忸怩たる思いを抱かない感性には共感できない作者がここにいる。その誠実な姿勢に共感する。
   その声を今あげている自分に「だったら、なぜ、その前に原発の建設稼働を批判できなかったのか」と厳しく問う内なる声は聞こえないのだろうか。
   原発の何が問題なのかも知らず、徒党を組んで気勢をあげる運動になんの意味があるのだろう。
   原発が問題なのは、万が一事故が起きたときの危険性の甚大さなどはない。
    安定的なエネルギー供給にとっての是非などという問題でもない。
    根源的な問題はその非人道性にある。
    原子炉を稼働させると11か月に1度運転を停止して、施設を総点検することが義務づけられている。高圧、高熱のために配管などの設備が絶えず劣化するためだ。その点検、交感作業を行う者が施設内に充満する放射線に被曝することが前提となっている労働施設なのだ。
    線量計を身につけて、被曝限界量に達するまで、その作業のためだけに臨時に雇用された人たちが働かされ、限界量に達したら、後はなんの保障もなく解約されている非人道的な労働施設なのだ。
   そのことに人々は注視もして来なかったが、原発事故以後、「廃炉作業」労働者たちへの関心が少しだけ高まり、俄かに可視化されることにはなりはした。
    だが原発事故以前からそれはずっと続いていたことなのである。
    原発問題で批判されるべきは、そんな非人道的な労働を、雇われ労働者たちに強いることを、当然のことのように前提とする、産業優先の考え方自身なのだ。
    この問題は水俣病を始めとする、すべての「公害」問題にも通底することだ。
    そういう意味で「公害」など他人事のように呼んでいる場合ではない。
    それは産業優先で突っ走ってきた現代日本人が犯した、非人道的罪過以外の何ものでもない。
    石疼氏の原発事故禍を詠んだ句も紹介しておこう。

    脱原発デモ夏蝶が横切りぬ

原発の本質的な問題の認識もなく、ただ声高に「脱原発」を叫ぶことへの自省を促すかのように、デモ隊の前を命の象徴である「夏蝶」が掠め飛んでいる。

 樹はかつて畏れられたり福島忌
    熔融の春また忘る百年後

   自然の悠久の時間の象徴である大樹に対する、敬虔な畏怖心を喪失した人間の罪業が、静かに批判されている。
   次の句はもっと辛辣だ。

      われわれの旗は白地に後の月

    白地に赤く日の丸染めて、ああ美しい日本の旗よ、と歌にもある「日の丸」信仰とでも呼ぶほかはない、日本人の怪しげな国家信仰的精神に対して、「白地に後の月」と反語的に季語を置く技が冴えている。白地にほぼ円形の白い月。想像するといい。見えるのは欠けている部分の黒い三日月形の模様だけだろう。
    そんな深い思想をもって俳句に挑み続けている春日石疼氏の第一句集が、今年(2019年)3月に刊行の運びとなった。
    題名は『天球儀』だという。
                          2019年1月13日 記

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