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齋藤愼爾句集考―「喪郷」の眼差し

斎藤愼次全句集

1 文学的主題確立の軌跡

齋藤愼爾は一九五五年、高校に入学した十六歳のとき、教師だった秋澤猛より俳句を習い、秋元不死男の俳誌「氷海」に投句し始めている。そして二十歳のとき第八回氷海賞を受賞した。
以下に引用する俳句は後年、『夏への扉』という処女句集に収められることになる初期の作品群である。(括弧内が詠まれたときの年齢)。句集では逆年順に編集されているが、ここでは年齢順に辿ってみよう。
 
北斗星枯野に今日のバス終る 
明らかに凧の糸のみ暮れ残る
月白き海より青きもの釣らる    「珠儒の時代」(十六歳) 

習い始めたときから俳句の骨法に精通した、よく目の視える驚くべき十六歳である。
 
火を焚きて漆黒の天驚かす
水母群るる海より重き月上がる
浜寒し焚火激しく海女を待ち
蝶死せり己が翅紋を証として   「燔祭の明日」(十七歳)

文学的表現への意思を獲得し、人の命と場を取り込み始めた十七歳。ちなみに章題の「燔祭」とは、古代ユダヤ教における最も古くかつ重要とされた儀式で、生贄の動物を祭壇上で焼き神に捧げた祭。己の精神でもある言葉は神への捧げものだという、早熟すぎる自意識がここにある。

漁夫の葬寒き沖向く一戸より
灼け岩で蜥蜴息づく敗戦忌
漁夫の婚ひと日雷鳴る裏日本
青桐に大正の蟬生き急ぐ     「夏への扉」(十八歳)

十八歳にして、時間と空間を孕む造型俳句的でテーマ性俳句的な境地に達している。「漁夫の葬と婚」を包み込む「裏日本」という空間軸、「敗戦忌」という時間軸の中、「灼け岩で」息づく過酷な生の現実を、伝統詩歌的な甘い叙情を排して見つめている。
この「夏への扉」の章題は句集全体の題でもある。
「にもかかわらずぼくの胸には冬が住まって、ぼくはひたすら夏への扉を探し求めていたのである。……」
という青春SF小説『夏への扉』の言葉が、この章の扉に置かれているように、ハインラインのこの小説に因んでつけられている。それはこんな物語だ。
主人公「ぼく」が飼っている猫のピートは、冬になると「夏への扉」を探しはじめる。家にたく
さんある扉のどれかが夏に通じていると信じているからだ。(こんな象徴的でロマンチックな表現が読者を今も虜にしているのだ)「ぼく」もまた、ピートと同じように「夏への扉」探していた。最愛の恋人と親友に裏切られ、仕事を失い、大切な発明さえも奪われてしまった「ぼく」の心は、真冬の空のように凍てついている。過去と未来を行き来して「ぼく」が見たものは……。
というようなストーリーで、未来は過去よりよいものになるというメッセージ性を感じる読後感だが、屈折した青春期の多くの読者の心を摑んだのはその主題ではなく、「ぼく」のように真冬の空のように凍てついている心的状況ではなかっただろうか。
 
秋祭生き種子死に種子選りて父 
不和の父子の耳に高潮秋祭
底みせぬ海に咳き込み何か失す
寒き種子分ち農兄弟田に別る
籾降らし降らし晩年泣かぬ父         「恋の都」(十九歳)

孤島の故郷を出て初めて生じる視座がある。故郷での暮らしと習熟した俳句表現の間に、創作の喜びだけがあった時代を卒業した途端、青年は「何か失す」体験をする。それが境涯俳句を突き破る、独自の文学的主題の形成へと向かう過酷な道だった。
 
狂院へぎらりと種子のごとき蟻 
 死語の世に生きをれば緑の繭匂ふ
 流燈に集ふ魚・時・間引かれし胎児
 病む母に見せし誘蛾燈の青地獄
 播かぬ種子光る夕べの老婆の死
 鵙は天に柩は地下へわが領土
 地の涯に囮かけ亡びゆくは誰         「日々の死」(二十歳)
  
造型的俳句手法と、テーマ性俳句が深化して、二十歳にして独自の文学的主題の確立に至っている。時代は一九六〇年。二十一歳のとき安保闘争に遭遇し、しばしば上京してはデモの列に加わるようになり、齋藤愼爾は突然、俳句を止めてしまう。
その若き日の句業の全貌を私たちが目にするには、一九七九年、齋藤愼爾が四十歳になった年に刊行された第一句集『夏への扉』まで待たなければならなかった。
俳句を中断した齋藤愼爾は出版社を起こして世界を「編集」する仕事を始めた。
そして一九八〇年代後半に俳句界に復帰し、一九八九年(五十歳)に『秋庭歌』、一九九二年(五十三歳)に『冬の智慧』、一九九八年(五十九歳)に『春の羇旅』と句集を出し続けることになる。
そして句集名に冠した季節が夏から春へ一巡し、最後の句集名に「羇旅」とあるように、和歌・俳句の部立の一つである「旅情」を詠んだものとしての長い旅が終了した直後の、二〇〇〇年に『齋藤愼爾全句集』が河出書房新社から出版され、齋藤愼爾の句業の全貌が姿を顕した。
そしてその後の十年の成果を纏めた句集『永遠と一日』が二〇一一年に思潮社から上梓される。
 
死螢とぶつかリ行くや螢狩
洗ひ髪水さかしまに炎なす       (炎 ルビ ほむら)
日と月と雁しんがりに幼な吾
夜濯ぎをいまに白鳥座のなかの母
雁のゐぬ空には陰のごとき山      (陰 ルビ ほと)
戸籍燃す火種を狐火より貰ひ
ひそひそと山嚙みあへる紅葉かな
父母を弑す冬の芒に逢ふために
前の世の道に零てる籾一つ
露の身に日は一輪のままに落ち
雛も吾も緋の糸曳きて遠き世へ
餅一個彼岸の草より冷ゆるなり
雛流し雛より遥かなもの思ふ
父死後の寒夕焼を楯とせり
 
表層的な流通言語依存を拒絶し、時事的な用語を徹底的に排除した、魂の原風景ともいうべき螢、雁、蛇、狐火、芒、籾、雛など厳選された語群だけを用い、命を原初的な荒野の直中に置く俳句が展開されている。
象徴性を高めた表現方法によって、独自の文学的主題が重層的に豊穣に表現されている。大衆的広がりを獲得した「生活文芸俳句」が手放した、文学的自立のための、文学的主題詠の可能性を追究する俳句文学派の第一人者としての齋藤愼爾の俳句世界がここにある。

2 「断念の美学」―齋藤愼爾俳句の時代精神

齋藤愼爾氏は「孤島の寺山修司」というふうに、寺山修司と並び称されることが多い。
寺山は一九三五(昭和十)年青森県弘前市生まれで後に青森市に移住、齋藤愼爾は一九三九(昭和十四)年朝鮮京城府(現・韓国ソウル市)生れで一九四六年に山形県の孤島、飛島に移住というように、年齢が四歳違いの同世代で、少年期に過ごしたのが東北であることにもよるが、二人の文学的主題となる原点が共に「望郷」でもあるからだ。
だが二人が共有した時代精神と、その「望郷」の思想性の共通点よりも、その差異を見極めることで、齋藤愼爾俳句の精神的背景が鮮明になる。
齋藤愼爾は山形県酒田市の高校に入るまで、日本海の孤島、飛島で過ごしている。
 
断崖に島極まりて雪霏々と    

冬には本土との船便が何日も欠航が続くような、中央文化の恩恵から遠く閉ざされた辺境であり、月遅れの「少年俱楽郎」や駐在所と郵便局にあった無線ラジオ、年一回やってくる巡回映画が、文化らしきものとの唯一の接点であった。
齋藤愼爾が暮したのはこのような海が隔てる孤島である。第一句集『夏への扉』で齋藤愼爾はこう述べている。

日本海の孤島での少年時代、私はしばしば奇妙な仕種にとりつかれていた。それは水平線と空との区別も判然としない暗鬱な海に向って、視線を灯台の回灯のように左から右へ半回転させるというものである。たあいない児戯といえばそれまでだが、海の彼方には〈日本〉が存在し、私は列島の北から南まで一望のうちに内視しえたと得心しては悦に入っていたのだった。孤島はほんのちょっとした視線の移動で〈日本の総体のヴィジョン〉を把握できうるアルキメデスの支点の位置にあった。あのとき、私は刺客のように押し寄せる冬波に孤りふるえながらも何ものかに敢然と対峙しているといった不敵な情念をたぎらせていたように思う。いや、単に存在それ自体が苦しく発酵し空しく出口を求めていただけかもしれない。


このような内省的な直向きさは寺山にはない。上京後の寺山が俳句から短歌へ、更に演劇へと積極的、外向的に展開して行ったのに対して、齋藤愼爾は俳句を中断した時期に俳句世界を外から見つめて、その広い視座の加わった内省的な精神で、自己の俳句世界を深めていった。
齋藤愼爾俳句は、辺境という風土の中の現実体験から立ち上げられている。中学を卒えるまで、イカ漁、サザエ採りなど一家の働き手として沖に出るという体験をしている。その中で舟酔いでもしようものなら、すぐ父の鉄拳が飛んできたという。
 
菜の花や父を弑せし吾の来る 
旧軍港直立の父傾ぐ母 

軍国主義日本の残滓の中で、反射的に直立不動の姿勢をとってしまう父、疲労のあまり真っ直ぐ立っていられない母。

鼠捕りかけきて地獄絵のごとき父
地の涯に囮かけ亡びゆくは誰

西洋型の父性の真似事をして、国土を荒廃の極地に追い込んでしまった日本の父の姿に投網を掛けるように、齋藤愼爾は二十歳のとき「日々の死」の中で冷やかに象徴的にこう詠んでいる。害虫害獣の駆除は第一次産業で暮らす一家の父の役目だ。でもそんな小さな殺戮装置を仕掛けて来ただけで、顔面蒼白になって帰って来る柔なところのある日本の父、それを息子に見られた父の含羞。齋藤愼爾が父母を含む望郷俳句を詠むとき、単にノスタルジックな想いで詠んでいるのではないことは、このような初期の俳句にも表れている。
敗北し荒廃した日本という風土を、大きな文明批評的視座で、反時代的な俳句という伝統的な韻律の枷の中で詠み続けることに、齋藤愼爾の文学的主題表現の方法論がある。
寺山は病に倒れ死を目前にして、最後の表現の場を再び俳句に求めた。同人誌「雷帝」(同人=寺山修司・齋藤愼爾・三橋敏雄・松村禎三・倉橋由美子・宗田安正)の創刊を企画する。だが寺山が急逝、同人たちは寺山の死後十年を期して「雷帝」創刊終刊号を出す。齋藤愼爾はこの「雷帝」に寄せた作品をきっかけに俳句を再開することになった。
この二人の精神史の交叉は、表現論的にも興味深いものがある。寺山は俳句から短歌へ、演劇や映画にと多くのジャンルへ活動を広げていった。それぞれに充実した活動だったのだろうが、どこか拡散してしまう危うさを孕んでいる。一方、俳句に拘り続けて、内面的言葉自身の肉体性、リアリティの獲得として、自己の文学的主題を風土性の中に樹立した齋藤愼爾は、その内視的な表現方法故に、表現を拡散させずに深化させたと言えるだろう。
NHK出版「俳句」の一九九三年四・五・十・十一月号に掲載された「寺山修司歳時記」というエッセイで、齋藤愼爾は寺山の表現方法を語ることで、そのまま自分自身の俳句観を述べている。

いったい風土というものは作家の精神や感情にいかなる影をおとすものなのか。作家は自分を生み育てた風土との出会いを、いつ、どのようなかたちで果たすものなのか。(略)
彼が生涯にわたって展開したドラマツルギーというものは、虚構としての風土=故郷を想定し、それと自分の欠落部分とを対応させて両者の緊張関係を生み出しながら、自己の偶然性を組織していくことにあったと思う。

冒頭からこう問う齋藤愼爾は、寺山の中に自分と同じ文学的主題を見て、「風土」という文学的主題がノスタルジックな望郷の思いではなく、「風土への違和」や「内発性の源泉」となっていることを表明している。その中で抽かれている寺山の次のことばはとても印象的だ。

「中学から高校へかけて、私の自己形成にもっとも大きい比重を占めていたのは俳句であった。この亡びゆく詩形式に、私はひどく魅かれていた。俳句そのものにも、反近代的で悪霊的な魅力はあったが、それにもまして俳句結社のもつ、フリーメイスン的な雰囲気が私をとらえたのだった」(「誰か故郷を想はざる」芳賀書店)

当時の文学青年たちには、俳句は「亡びゆく詩形式」と感じられていたようだ。更に俳句結社については「フリーメイスン的な雰囲気」さえ感じ取っていたらしい。そこに自分の精神性の拠って立つ場を、逆説的に見出している当時の青年たちの屈折した思い。この時代の若い俳人たちの息吹が伝わる。
齋藤愼爾は続けてこう述べている。

「のびすぎた僕の身長がシャツのなかへかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした。定型詩はこうして僕のなかのドアをノックしたのである。縄目なしには自由の恩恵はわかりがたいように、定型という枷が僕に言語の自由をもたらした」(『空には本』的場書房刊所収の「僕のノオト」)という寺山修司の内部には、歌わずにはいられない思想や感情が常に奔騰していた。そのほとばしる情念を制禦するためにこそ枷を必要としたのである。惰性で十七文字を量産している俳人は、俳句を愛しているようで、実はただ俳句形式と狎れあっているにすぎないのではないか。俳句を冒瀆し蹂躙しているのはむしろ彼らではないのかーこう考えることを代償に寺山は俳壇からは危険な異端者として黙殺されたのである。

このような二人が当時の俳句界で、いかに異端的であったか解る言葉だ。有季定型の十七音律文芸に賭けた情熱は、伝統俳句派への敬愛からではなく、その「枷」だけが、この不確かさを増してゆく現代社会において、自我の芽生えたばかりの青春前期の若者には必要だった。そういう意味で、二人にとって俳句は、青春の情熱を賭けるに足る文学的表現形式だと思われていたようだ。
だが一人は俳句から離れ、一人は中断している。この時期、二人の「別れ」は一種の俳壇文化への愛想尽かし的思いがあったのだと思われる。現代詩や評論の分野で新時代を切り開く試みが盛んにされた時期でもある。二人の目に俳句が正真正銘、ただの「反近代的」代物にしか見えなくなった時期があったのだろう。
齋藤愼爾が決して短い期間とは言えないほど、俳句から離れた理由の一つは、俳壇に今も充満する、あまりにも非文学的な生活文芸的俳句観故でもあっただろうと思われる。俳句という表現形式が持つ可能性と不可能性という視点で、齋藤愼爾の最初の句集『夏への扉』に「断念の美学」と題して三橋敏雄が、次のような一文を寄稿している。

(略)
もとより俳句表現には、原表現者における全経験の集積を大きく脱落させた上でなければ、成り立たぬ趣がある。が、それに伴う種々の骨法を会得するに従い、あらかじめ個々の表現結果を見定めて、ついにあきたらずとする自己判断に到達することも自然の成り行きだろう。齋藤愼爾は、二十歳にして自己の到達した俳句表現に、如上の意味でのこの形式に拠る可能性の限界を垣間見たのかも知れぬ。
最近になって思いついたわけではないが、現時の俳句流行に乗じて、その作り方を奨めるよりも、自他の場合を通じて、いったん愚かしくもはじめた俳句ならば、そのやめ方を考えることが、むしろ緊急事ではないかと考えている。古くからの幾多の既成表現の骨法に準って、一生間断なくありふれた俳句をつくり続けている人たちよりも、ある時期に集中的に俳句表現への自己の適性を検証してやむ、といった断念の美学を備えた作者をこそ珍重したい。私もまた、何回かの断念を女々しくもこえてきた。が、ここらで後ればせながら、彼齋藤愼爾における、いさぎよかりし俳句表現の断念を遥かに羨まずにはいられない。

これは三橋敏雄という文学派の先輩俳人としての実感であり、俳句に近視眼的惰性的に向き合っているような、現代の俳壇的傾向への批判の述懐であるとともに、一人の優秀な才能を俳壇が喪うことへの、深い愛情の籠もった哀悼の辞であり別れの餞であると言えるだろう。
齋藤愼爾は三橋敏雄から俳句というものを見つめなおすよう、逆説的な宿題を与えられたのだ。
この「断念の美学」が齋藤愼爾俳句の文学的強度を保証する。かつて、一途に俳句という定型文学に情熱を賭けた青春時代のように俳句に向き合うことはもう不可能である。文学としての俳句の自立に向けての闘いを開始する覚悟が迫られる時点に、自分を追い込んだ上での再出発だったのだ。俳句が文学であるためには、このように作者自身が、その表現の可能性と不可能性に自覚的であることを条件とするからだ。

 3 なぜ「望郷」なのか

齋藤愼爾の「望郷」の視座は、故郷喪失に対する単なるノスタルジーではない。
句集『冬の智慧』の「あとがき」に齋藤愼爾が書いている「望郷」の核心部分を次に挙げておこう。
  
私の俳句の根底に、もし人が指摘するような「飛島」体験というものがあるならば、「ひばり」体験というものも確実にその後背地の一部を形成しているとおもうのである。少なくともある時期の私の精神の内面劇はひばりの歌の劇伴なくしては語れないという気がする。そして「飛島」体験がそうであるように、私の「ひばり」体験も二十年代という時間で凍結しているー
  私にとって美空ひばりとは、遠去かりゆく子供の時間の謂である(社会学者ならムラや生活様式の解体後も遺されたアジア的原感情というかもしれない)。従ってひばりを記述することは、遠のきゆく仮説の追求に等しいエネルギーを要するようにおもわれる。(略)

重要なのは括弧にいれられた「ムラや生活様式の解体後も遺されたアジア的原感情」ということばだ。齋藤愼爾にとっては「飛島」という原体験から、思想的に紡ぎたした「遠のきゆく仮説の追求」が、文学的主題の「望郷」の意味である。

悩裏に浮かぶのは涙をこらえ暗い路地を彷徨する少年の姿だ。世界= 秩序に馴染めずはぐれている影の私である。凍えた空、不幸を秘す家、仲間の反目と私刑、そして慢性的飢えの日々――。昨日まで軍人精神を謳歌していた教師は黒板に「児童憲章を守ろう」と大書したが、当時の私たちにとって児童憲章など何の関係もなかった。(略)
私がわずかに持ちえた感情の緩衝地帯が(略)鉱石ラジオから聞こえてくるひばりの歌であった。「丘のホテル」など周囲にあるはずもなく(それがいかなるものかもしらず)想像の彼方のものだったが、ホテルという異国的な響きをもつ言葉に、私は日本的陰湿、暗さを宿した「家」とは別の、山のあなたの空遠くにある幸せの世界を夢想し、心を高ぶらせたのであった。「丘のホテル」はカフカの「城」同様、近づこうにも永劫に近づけぬ何かであった。
(略)人々は生活の疲弊に喘ぎながら、再編されていく秩序の重圧と時代の閉塞を感取、絶望(ホテルの灯も胸のあかりも消えた)を、ひばりと共有したのである。
(略) そして私はといえば、不可視の「丘のホテル」の赤い灯を暗澹たる〈戦後〉の終末の標とも、獲得すべき〈戦後〉の指標ともおもいなし、いまだに失われた路地をはぐれさすらっているにすぎない。

戦後復興という経済成長神話の中をひた走ることになる戦後の未来にも、絵空事のような噓くささを感じて馴染めないでいる。この時代精神を背景に獲得するに至ったのが、非ノスタルジーとしての、「ムラや生活様式の解体後も遺されたアジア的原感情」という「遠のきゆく仮説の追求」齋藤愼爾の文学的主題である。
 
4 どこに立って詠まれているか

 俳句の表現技法に、子規が唱えて、虚子が深めたという伝説が流布されている「写生」というものがある。これは俳句表現を豊かにした俳句界の一大発明・発見的技法と言える。だがそれは俳句が生活文芸的な言葉の芸事に留まる限りの話である。
 ここではその反対の、「写生」の技法自身が、俳句が文学であろうとするとき障害になることもあるということを述べておきたい。
 文学的表現が言葉でなされるとき、俳句では原則として話者は一人称であり、「写生」技法で言えば「私」は「私」の行為も含めて、他人の行為、自分の周りの景と事を「観察者」として表現する。この「写生」における「観察者的視線」の内容が、疑われることはない。つまり作者は自分の視線に含まれる価値観を絶対的なものと思いこみ易く、その「視線」に含まれてしまう人生観などを疑うことはない。そのことが俳句の表現を、限りなく非文学的にしてしまうという違和感が生じる場合があるのだ。
たとえば東日本大震災のような過酷な体験を「写生」で詠むと、傍観者的な非情性を纏ってしまう。その傍観者的視線が邪魔をして、その方法でどんなに豊穣に俳句が詠まれても、東日本大震災の本質に迫る文学にはなり難いという限界が生じる。なぜならその表現は、結果として日本的無常観などに収斂され易く、類型的で伝統的な感慨に堕してしまうからだ。
文学で東日本大震災や、原発事故を表現するには、もっと高度な虚構世界を創造して、その中を生きるような表現を創造し、まったく新しい文学的主題を確立する必要があるのだ。それには齋藤愼爾のように、俳句を自己表現の文学と捉える視座と表現方法論が不可欠である。
この章では齋藤愼爾の文学的主題と表現方法が完成の域に達している句例に添って、そのことを検証しよう。

一刷きの滝をあやつる虚空かな     『秋庭歌』

滝の落下の流れをあやつっているのは物理的な重力ではなく「虚空」であること。この句は、齋藤氏がどこに立って俳句を詠んでいるかということを、象徴的に表している。
私たちが日ごろ、漠然と信じている確固たる現実というものなどはない。あらゆる存在と現象を非在化させてしまう不穏な俳句表現の力がここにある。

うすうすと見える幻世立葵      『秋庭歌』

だから、視界がつねに「うすうす」と揺らぎ出すような感覚に読者を導くのだ。

抽斗に螢しまひし夜の火事      『秋庭歌』
 
抽斗に本物の生き物をしまう者はいない。だからこれは喩としての螢である。何の喩か、その答えが下五に示される「夜の火事」である。それも潜在意識をのぞき込むような遠い記憶の中にある火事であり、その懐かしさと共振するが故の、何か不安な思いの表現だ。喪失を喪失としてしっかり受け止めた者だけが感受できる、存在の不安というべきものがここに表現されている。

空蟬や不幸に重さのありとせば    『秋庭歌』
家中の柱が芽吹く朧かな       『秋庭歌』
  
幸福は錯覚された質量感に満ちている。不幸にはそんな偽りの質量さえなく、最初から「空蟬」状態だ。それを自覚したとすれば、と読者を虚構の中だけで摑み得る精神の確かな場所へと誘う。
生命を絶たれた建築物の一部となった柱から芽が出ることはない。だが「朧」であることを条件として生きることを選べば、そこにこそ「芽吹く」ものがあるだ。

まぼろしの断崖が見え白芒      『冬の智慧』
雛壇の奥に前の世うしろの世     『冬の智慧』 

現世の見える世界だけが、私たちの生きる世界ではない。つねに死者の声を聴くかのように、見えないものを見つめる眼差し。

螢火や吾がかつて在りし世を      『冬の智慧』

ではそう言う作者はどこにいるのか。死者のいるあの世に行ってしまったのか。いや、この俳人は前の世も今も後ろの世も併存する虚構の今を生きて、現実の今を問うている。

蝶の意のままに墓石は殖えるかな    『冬の智慧』
そこに見え遠き世にある団扇かな    『冬の智慧』
  
あらゆるものを虚構世界のように幻視する「非在」の精神性。その豊かな精神の普遍性、偏在性の中で捉え返される私たちの「現実」の貧弱さが逆照射される。
「墓石」が増える、つまり死者の数が増えるのは、生物としての人間の死に因るのではなく、精神の死が原因であり、逆に言えば、それを統べている力が幻視の「蝶」を生み出す俳句の力なのだ。喪失を喪失と受け止めた者が持ちうる確かな記憶と、現実世界における精神の枯渇死を直視する者だけが、未来の滅びの予感をその手にして、俳句という文学言語世界を創造することができるのだ。
最後に齋藤愼爾の文学的主題が、どんな語彙で、どのような表現によってなされているか、振り返ってみよう。以下はすべて『冬の智慧』から。

鳥よりも人の多くが雲に入る     
 秋風のたてがみ見ゆる白芒      
 天に手の烟りておりぬすすきかな    
 影の世の見えくる芒になりきれば    

ランダムにこう抜き書きしただけですぐ気が付くのは、詠まれているのが「風土」的な景色であるにも拘わらず、すべてが「見えないもの」または作者が「見出そうとしている何か」という、普通なら言葉にならないものだということだ。雲に入る人、秋風のたてがみ、天に烟る手、影の世、という不可視の世界が詠まれている。「風土」に仕掛けられた不可視の魂の手触りがある。
見えないものに目を凝らそうとする作者の情念が、選び抜かれた愼爾語群で、重層的に奏でられてゆく。観念的な世界なのに、手触りのある実体感が伝わってくるのは、その「風土語」とでも呼ぶべき、齋藤愼爾によって厳選された、だれもが「懐かしさ」を感じる語群のせいだ。伝統俳句的な「季語」より強度を持った「幻想の風土語的季語」が創造され、独自の俳句表現として成立している。

雛の間といふすさまじき真闇あり
北帰行深井の闇に水奔り
 現し身は影にすぎざり冬の蝶
 涅槃図に動く朧のものの影
 花衣脱ぎ影の世より還る
 
闇、影という見えないものの中に潜む、歴史的艱難の記憶。非在のものから絶えず滲み出して私たちの日常を揺さぶりやまぬ気配。それが齋藤愼爾流の「風土」である。

あめつちのひかりは甘し牡丹の芽
海山のひかり遍し潮干狩
月光のこゑ一塊を曼珠沙華
螢火に月光という鉄格子

光自体は見えないが、光は照らすという視線的行為によって、ものごとを顕在化させる作用そのものだ。その力が浮かび上がらせているのは、不変の大地ではなく揺らぎの中に明滅する風土という幻想そのものである。山川草木、みな喪失の記憶と未来の滅びの予感に震えるばかりである。

かりがねに山河を接ぐ夢の中
潮干狩山川何を失ひし
海よりも山から薄暮潮干狩
はらからのこゑうすみどり芽吹山
指に似しかの枯枝が悪霊呼ぶ

『冬の智慧』の山・川・海・空・谷は太古の原風景的記憶と、未来の滅亡の予感の間に置かれているかのようだ。ここに齋藤愼爾の俳句の眼差し・立ち位置の独自性がある。伝統俳句も現代俳句も、作者は現在という現実を眺めている位置にいる。齋藤愼爾は常に、過去現在未来を同時に幻視する虚構空間を創出し、その中を「生きて」いる。

秋冷の柱となりて光りけり
柱より誰か消えたり十三夜
たましいのやや腐蝕せる蕗の薹
歳月の継ぎ目は白し去年今年

柱という「家」的現実性の象徴的具象から消えた「誰か」とは誰か。現実性を失って亡霊のように漂う戦後日本人そのものであり、それを自分のこととして生きる齋藤愼爾の精神そのものでもある。
「螢・蟬・蝶・雛」のキーワードを含む俳句は、故郷を喪失した現代人の、亡霊のように空虚な精神の象徴であり、それを体現する作者の孤独な魂の象徴であり、繰り返し変奏される滅びの予感に満ちている。

螢火もて螢の闇を測るかな
死水を欲せりかつての螢の身
空蟬とかりそめの刻を吾も目覚め
空蟬のこだま綴りし少年期
岬への径いま蝶と会はば危ふからむ
雛の間にいま目覚めなば盲いなむ
雛流す千年後も妹は
雛買つてけものみち来るあねいもと  
  
そして繰り返し変奏される滅びの予感。  

鶏頭の枯れの近づく夢のなか
死水を春の流れと思いけり
石蹴りの一抜け二抜け秋の暮
綾取りを忘れし指は枯れていし
白髪やかごめかごめの輪は消えて
顔洗いつつ滅びるわれら百千鳥
死の終に冥し空蟬死に死んで
白萩に一期は昏し旅人よ
前の世は先の世春瀧けむるかな

喪失と滅亡の間に明滅する命。それが齋藤愼爾俳句「望郷」の真髄である。それは命の根源的な本質の表現でもあり、同時に現代日本人の魂が抱える空虚性の象徴でもある。
齋藤愼爾俳句の独創的な文学的主題を一言で言い表すとしたら「喪郷から心的創郷へ」と言えるだろう。「喪郷」とは風土性を喪失した現代日本人の中空構造的精神性のことであり、「心的創郷」とは生きる価値基準を外在的なものに依存せず、一人ひとりが自分の中だけに創造し確立すべき心的風土性のことである。


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