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関根道豊句集『地球の花』鑑賞

地球の花1

句集のあとがき」の冒頭で関根氏は次のように述べている。
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 私の俳句信条は「日々の生活のなかで出会う感動や疑問を五七五の韻文に記録し己と時代を見つめる」ことである。
    ※
 文学と論文の違いはその表現において問うたことに、作者の意見や結論が書き込まれているか否かにある。
関根氏の俳句信条の「疑問」は自己と時代を「見つめる」ことにあり、意見や結論を述べることではない、という意味で文学的表現であるということだ。
 社会詠俳句の中で、意見と結論があるスローガン表現を俳句でしてしまっているものをよく見かける。趣味俳句ならスローガン俳句も許容範囲だろうが、そのような表現に文学的価値はない。
スローガンのように、自己の言いたいことが自明的である、つまり、予め答えの出ていることを表現するのは、指示表出という理屈の作文である。
文学俳句はそんな支持表出ではなく、自己表出であり、問うても結論など出ないことを承知で、それでも問うことを止めない、謎に立ち向かう表現である。
関根氏の俳句信条の「疑問」とはそういう意味である。
「あとがき」には関根氏が師事した大牧広の次の言葉が引かれている。
   ※
「(略)その社会性俳句も観念・形式が優先され、批評のための批評、そうした脆弱な面が露呈して、牢固とした花鳥風月、写生の存在を前に霧散した感がある。/庶民からの生活者からの社会性俳句を再興できないものであろうか」(『大牧広シリーズ自句自解Ⅱベスト100』所収)
  ※
 この引用の後、関根氏はこれが結社「港」の理念である「生きている証し 詠みたい」であると述べている。
 つまり俳句という文学は、その自己表出欲求である「生きている証し 詠みたい」に表現の根拠を持つものである。
そのことを忘れた「社会性俳句」に文学的価値はない。「庶民からの生活者からの社会性俳句」であるから尚の事、その表現がただのスローガンではなく、文学的で、読者の心に届き揺さぶるものでなければ、自己表出欲求の根拠を、たちまち失ってしまうのだ。
 大牧広の言葉の引用箇所をもう一つ紹介しておこう。
   ※
「『風雅の誠を追う』という俳人の姿勢に溺れることなく地球上に何が起きているかを、しなやかな詩精神で詠みつづけることが現代俳人の課題と考える。/地球上の不幸な出来ごと、戦争、テロ、病気これらを直視して俳句と成す。この姿勢こそが俳句に永遠の力を与えるものだと考えている」(『俳句』二〇一七年六月号)
   ※
 句集の鑑賞に入る前に、その「あとがき」から引用したが、これだけでも、関根氏の俳句信条はおおよそ理解できるはずだ。
 戦中派俳人の戦後俳句は、「戦争」を詠んでも、第二次大戦までの視座しかなく、反戦、厭戦気分の表現に留まっているものが少なくない。この引用文の大牧広のような視座を持つ戦後俳人は少数であり、この視線は「今」に向かい合っている。
「戦争」を詠むのなら過去の大戦を念頭においた反戦、厭戦ではなく、ベトナム戦争から中東紛争、世界に溢れる多様な戦争思想、自国第一主義的思想、力の論理の外交観、それに無関心な現代日本人の精神的空洞などにまで視線が届かなければ意味がない。
また水俣病などに代表される「戦後の闇」に視線が届いている俳人は希少である。「水俣の闇」はまっすぐ「福島の闇」に続いていることが、果たして何人の俳人に可視化されているだろう。
そういう意味で多くの俳人は「現代俳人」と呼びうる資格はないと言えるだろう。大牧広は「現代俳人たれ」と説いているのだ。
関根氏はそういう視座を師の大牧広から継承したのだろう。
 句集名を関根氏は最初『韮の花』とすることを考えていたが、師の大牧広に『地球の花』とすることを薦められて、それに従ったとある。
 『韮の花』は関根氏の俳句信条「庶民からの生活者からの社会性俳句」に相応しい句集名である。それに対して、視野を広げた大きな花を咲かせて欲しいと、大牧広が心の花束代わりに贈った言葉が『地球の花』であろう。
このエピソードは微笑ましく、譬えようもなく美しい。
   
 では以下に、特に印象に残った句を摘録して鑑賞文を添えさせていただくことにする。


「韮の花」の章から

人災の黒い雨降り田螺鳴く

 二〇一一年、東日本大震災が起きた年の句。原発事故を詠んだものだろう。直接的にそれを指す言葉を使わず「黒い雨」という具象的表現を「人災」で形容した表現。原爆の「黒い雨」も喚起される深みと凄みのある表現。下五の「田螺鳴く」の季語の座りの居心地悪さもいい。原発事故の計り知れない怖さが伝わる。

 おわびありつぐなひはなし天道虫

 主語、つまり主体性のない「おわび」だけがあり、主体性なきが故の「つぐなひ」はない。被害に遭ったものだけの深い傷だけが残るやりきれなさが、見事に表現されている。

 福島は仕舞い忘れた案山子かな

 一頃、いや今も福島を「フクシマ」と書くのが流行した。そう表記すれば世界的な視野でも獲得した表現になるという錯誤がそこにある。作者はその不遜を嫌ってあくまで「福島」と表記している。そこに共感する。水俣出身の私は故郷が「ミナマタ」と書かれることに違和感を抱くからだ。「仕舞忘れた案山子」、この表現も前句と同じように主体性の欠如を指弾している。

 産土の蛍そなへて通夜の客

 この謎を含んだような表現が俳句を味わい深くする。答えは読者の心の中に書き込まれる。その土地に根を下ろして生き抜いた人の「通夜」のことだろう。「産土の蛍」という表現がそれを暗示する。故人と親しかった先輩死者たちの魂まで引き連れて弔問に来てくれたように幻視されている。その土地で生きていることの歴史の分厚さを感じさせる句だ。

「年譜編む」の章から

六月の地底の疼き沖縄よ

「六月」「沖縄」の語から「沖縄忌」が念頭に浮かぶ。「沖縄忌」とせず「沖縄よ」と詠嘆強調の「よ」を下五に置き、「六月の地底の疼き」とした所にこの句の命がある。「沖縄忌」は日本政府ではなく、沖縄県が独自に沖縄県慰霊の日とした日のことだ。六月二十三日とするこの日は、沖縄の日本軍が太平洋戦争で壊滅した日。すでに敗北は明らかだったのに、日本の無為のせいで、沖縄の民の、失われずに済んだはずの厖大な命が犠牲になったのである。逃げ込んだ先がガマという「地底」であり、この句はそれを的確に指し示して詠まれている。地鳴りのような「疼き」の音が聞こえる。

戦前がきよるきよると水鶏鳴く

「水鶏」の鳴き声をオノマトペ風に「きよるきよる」と表現し、「来よる来よる」と危機感を戯画的に表現した句。戦争の実態と痛みを知らない世代が支持する政権が、私たちを「戦前」へと誤誘導している。

 原爆の日や失せ物ふたつ見つからず

 あの日から何か大事なものを見失い、それが何かまだ分からないでいる。戦後日本人の心の空洞をよく造形した句だと思う。

 敗戦日わが半生の年譜編む

 世間では「敗戦日」と言わず「終戦」という欺瞞的な言い換えが常態化している。作者は「敗戦日」と呼び、戦後とそっくり重なる自分の半生を、社会の中に位置づけて振り返ろうとしているのだろう。

 玄能の錆びて白露に抱かるる

「玄能」という言葉は昭和の響きがする。平成生まれの者はこの言葉すらもう知らないのではないか。頭の両端にとがった部分のない金槌のことで、石を割ったり、鑿をたたいたりするのに用い、石工用と大工用がある。「玄翁(げんのう)」という和尚が殺生石を砕いたという伝説に由来し、「玄能」はその当て字である。「錆びて」でそんな来歴も忘れられて、野晒の「白露」に「抱か」れている。

 千隻の被曝は消えず秋彼岸

 広島・長崎だけが原爆禍に遭ったのではない。戦後の遠洋漁船が
周知徹底されない洋上の水瀑実験に遭遇して被曝している。その数は正確に把握されず、原爆症で亡くなった漁師も多い。昭和生まれなら「原爆マグロ」などの言葉でそのことを微かに記憶にとどめているはずだ。

 ミズーリの全権別荘からす瓜

 この句を読んで、今の若い人がどれだけピンとくるだろうか。詠んでおかれるべき俳句であると思う。おそらく、終戦直後に組閣された東久邇宮稔彦王内閣で、外務大臣に再任され、政府全権として、ミズーリ艦上で降伏文書に調印した重光葵を、彼の「別荘のからす瓜」に象徴させて詠んだものと思われる。
義足の全権大使である。昭和七 (一九三二) 年、駐華公使を務めていた重光は、上海事変において中国側との停戦に尽力、停戦協定調印寸前に爆弾テロにあい右足を失った。だが重光は「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかない羽目に陥る」として、右足切断手術の直前に調印を成立させる。翌年、リットン報告書により日本が国際連盟を脱退した際には、「欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」という手記を残している。
その後も重光は、日中戦争を終結させて孤立する日本を救おうと奔走するが、日本は対米英戦争へと突入する。その果ての敗戦と全面降伏のミズーリ艦上の降伏文書調印である。昭和三一 (一九五六) 年十二月十八日、日本の国連加盟が承認された国連総会でも、全権として出席している。そのとき重光はこう演説した。
「わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分自覚しておるのであります」
 その激動の生涯で彼が何を思ったか、今はもう「別荘のからす瓜」も知らない。

 非正規の女ばかりや一葉忌
 若者を擂り潰し咲く冬銀河

 労働弱者の女性や若者に視線が届いている俳人は希少である。公害問題、労働者の「物扱い」などの戦後の闇に果敢の挑む俳人が少ないということは、そのことが見えていないということだ。
 そこから目を反らさない姿勢に拍手を送っておきたい。

「穭田」の章から

 非正規に春闘といふ蜃気楼
 花筵非正規の身を忘れけり

 労働者の味方のはずの労組も、それを束ねる「連合」でさえも、非正規雇用を、人間を「物」扱いするものとして阻止しようとはしなかった。彼等の生活すらままならない悲惨な現実に目が届いていないのだ。

 万緑や土に還れぬものばかり

 経済効率化による経済発展を目指した結果として、社会も自然も人間の生体と合わない、むしろ加害的なものと化している。それを「土に還れぬ」と象徴的に表現した句だ。

 戦あるな真実は夏草の果て

「夏草の果て」のイメージの提示は凄みがある。戦場に打ち捨てられた兵士たちの骸の上に繁る夏草である。

 新聞少年老いて夜学の眼鏡かな

 この句は最下層の生活をしつつ、それでも勉学をしようとする志を讃えてする句ともとれる。自分で学費を稼いで夜間大学を出た私にはそうは読めない句である。作者は讃えているのではない。視線をそういう境遇の者たちに、俳句で誘っているのだ。
 関根氏の視線は貧困児童にも注がれている。それが次の句だ。

 こども食堂みんな一緒の茸飯

「みんな一緒」に明るい響きを感じる人は、この句の深みを知る者だ。

 晩秋や劣化する人あまたゐて

 昭和平成は日本人の人的品格の劣化の時代だったいえるのではないか。社会全体で生じている「不具合」はそのせいであろう。

 柿熟るる農民の目のうるうるる

 上五と下五の韻律対応が楽しい句。自然とともに生きる人の誠実な歓びが伝わる。

「冷し酒」の章から
 
 少女像に手編みのマフラー捧げたし

 これはとても勇気のある表現だ。「反日」と石の礫が飛んできそうな危険な句でもある。日本人の精神が自己中心的で排他的に独善へと堕している証拠でもある。過去の恥ずべき行為には目をつぶり、居丈高に他を攻撃する。作者は俳句で愛の『マフラー』を差し出している。そこにはどんな礫も届かない。

 料峭や監視カメラの前に立つ

 「料峭」のふと薄ら寒さに気付く感覚と、街角に立って「監視」の視線に気づくときの感覚が見事に造形されている。

 人間の勁さつくづく多喜二の忌

 この句から多喜二の人間的価値を取り出そうとする表現意志と、その反対側にいる「体制的人間」たちの、人間的な醜さまで浮かび上がる。多喜二を拷問死させた男たちは、その時の署長をはじめ、経済的にも恵まれた地位で戦後をのうのうと生き切っている。

 さくら咲く爆心に向きかたぶきて

 下五の「かたぶきて」が心に沁みる句だ。俳句はそれ以上を言わず、それ以上を表現する器だ。

 書くことはよく生きること敗戦日
 紙に書き紙の本読む文化の日

 文字を手で書かなくなり、指先で「うつ」便利さに狎れたデジタル人間になって、ものごとの捉え方が速いだけで浅くなったのだと思う。俳句はメモ帳に手書きで書き溜め、推敲する。そして句会に提出するために短冊に心を込めて清書する。その時間が人間の感性と思索を深めてゆくのだと、つくづく思う。

 吾もある加害の恥骨敗戦日

 人間の加害性と被害性は等価だと、作家の辺見庸が随筆集で述べている。公害や今回の原発事故に対する人々の言説に、欠落しているのはこの視座だ。わたしたちは能天気に加害企業を被害者面して糾弾する資格はない。自らも加害側の一人であるという自覚が、社会を根底から考える力となる。「加害の恥骨」とはすごい表現だ。

 かまどうま翅なくば声あぐるべし

 どんな境遇に置かれていても、わたしたちには言葉がある。

 霧晴れて基地と原発まのあたり

 人々を盲目にしているのは、常識という「霧」のせいだ。見ようと志せば、戦後の日本の瑕疵がいたるところに見えるはずだ。


 詠むと読む協奏熾る暖炉かな

 俳句は意味あることを言いきったり、スローガン的に思いを直直接的に主張したりしない文芸である。なぜか。俳句が表象の文学だからだ。作者の「言わない」主張は、読者の心に書き込まれる。そのようにして表現するのが俳句である。まさに「詠むと読む協奏」である所以である。

「核あるな」の章から

だんだんに季語の消えゆく青田道

季語は表現上の措辞、記号ではない。もともとは一つひとつに具象である実生活上の具体物があり、その中で、あるはそれを使って生きてきた行為語である。それを失うということは生きていることに実感を喪失してゆくことだ。実体感を喪失した記号のような存在に人間を駆り立てたのが、高度経済成長という戦後の日本だった。

 うなだれし向日葵の勁き体幹

 うなだれることは、失意の姿勢ではなく、勁さの証だというのは発見であり、命の実感を身体に取り戻そうとする作者の意志の表現である。これぞ俳句。

しんじつは火屋に焼べられ敗戦日

為政者側に「不都合」なことを隠蔽し、胡麻化そうとするのは、何も今の政権だけの専売特許ではない。敗戦直後、「しんじつ」を「火屋」に焼べることから、日本人は戦後を始めたのである。そのことに対する反省は、今後も行われることはないだろう。

 祈りなき南瓜のランプそこかしこ

 祈りとは原初、畏れであった。神に祈るのはその荒ぶる、人智を超えた力を鎮める敬虔な行為だった。あらゆる祭の原点はそこにある。その精神を忘れた外国からの渡来のお祭り騒ぎには、何の文化的価値もない。

 徴用工は父かも知れず木の実落つ

 自分の思考を本質にまで届かせるには、物事の主客を逆転して、対立する相手の立場に思いを寄せてみることだ。一兵卒で戦争に駆り出された当時の「父」たちも、一種の「徴用工」だったと言えるだろう。そこを繊細に突く表現がすばらしい。自分のことに引き付けて想像できたら、口先だけの、また賠償金だけの政治的「合意」だけで禊しようとする態度が、いかに非人間的で不遜な態度に感じられるか、隣国の民の真意が分かるというものだ。

 冬茜コスト・カッターの終焉

「コスト・カッター」とはコスト削減を推進する人、辣腕なコストカットの実践者といった意味で用いられる表現である。主に企業の経営者について用いられるが、雇用者がその任を強制されることもある。だが、それは役職名や部署名でも、会社から任命されるような正式な肩書でもない。会社に隷属する精神が自ら進んで人を、産業機械の部品のように「節約」したり、「廃棄」したりする風潮が蔓延している。人を物のように扱う時代精神を生み出したのも、戦後日本の顕著な特徴である。

 意識的に作者の重要課題の一つだけを取り上げて鑑賞してみた。
 それだけでも、戦後日本の精神的荒廃の姿が浮き彫りになる。
そこに作者の一貫した批評精神の存在を感じとることができる句集だった。
 


  

 

 

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