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幻視的文学表現への苦闘 ―林田紀音夫の文学的主題詠

林田紀音夫全句集

林田紀音夫は大正十三(一九二四)年に京城で生まれ、昭和十二年、年齢的には十三歳ごろには俳句を始めたという。父が月並の宗匠俳句に親しんでいた影響もあったという。
昭和十四年には学校の俳句部に入会し、昭和十六年、「山茶花」に投句を開始。
『現代俳句全集六』(立風書房)の「自作ノート」によると「この段階では素逝の甘美な抒情のリズムがもっとも身近であった」と述懐している。
長谷川素逝、草城、秋桜子、誓子、窓秋など新興俳句への傾斜が伺える。
だが新興俳句運動は弾圧され運動として終息した後のことだ。

「私が参加したのは新興俳句弾圧後の形骸でしかなく、その失われた過去の幻影を追うばかりであった」

という通り、終わった新興俳句の影響下で、遅れて来た少年は次のような俳句を詠んでいる。

病葉や尿する馬のさびしい貌
ひとの死のその葉書なりふたつに折る
鶴を折りさむければ指の骨鳴らせり
天あおき日のひぐらしの鳴きをはる
憶ひ出も空蟬ほどの脆さかな
晩涼や壁に影して独り言
夜勤工のひとりや月の踏切に
火蛾狂ふ夜ごと疲れて詩もなし
蟇あるく捨てし燐寸は地に燃えて

この時期、林田紀音夫は軍事工場で働き、過酷な労働体験をしている最中だったようだ。この後も、戦後の混乱期の窮乏生活を体験し続け、複数の職業を転々とした後、昭和二十二年には下村槐太に師事し、槐太の謄写版の印刷の仕事を手伝うことになったという。
テーマ性俳句を詠む俳人の特徴の一つに、独自の偏愛的語彙群を持ち、それを使って自己の文学的主題を変奏曲的に繰り返し表現する傾向がある。
この十七歳からの初期の俳句にすでにその傾向は表れている。
その語彙の使い方や、「憶ひ出も空蟬ほどの脆さかな」の句に見える象徴的な「脆さ」の感覚が、後年、紀音夫独自の文学的主題中核を形成していったことが推察される。
この時代の俳句がやがて、第一句集『風蝕』として結実する。

月光のふたたびおのが手に復る
歳月や傘の雫にとりまかる
風の中唾ためて貨車見すごせる
洟拭きしあと天国を希ひけり
七輪に紙燃やすけふありしかな
月明の汽車が劇しく身ぬち過ぐ
青空のけふあり昨日菊棄てし
目刺焼いて私するに火がのこる
棚へ置く鋏あまりに見えすぎる

実生活の身体性に根差した地平から立ち上げた、偏愛的語彙群による変奏曲的に繰り返される表現。
現実的な物、事の象徴である語彙群を、幻視的表現で囲繞する。
そういう独自の表現方法がすでにここにある。そこから読者が心で感受するしかない文学的主題が立ち上がる可能性が予感されるが、紀音夫自身はまだその自覚がなく模索の中にいる。
その表現方法について紀音夫がどう思っていたかを伺える文がある。

 (略)私の場合、身辺的な素材から離れられずにいるのだが、この極めて現実的な媒体に、在来の視覚からすこしはずれた知覚、想念のもろもろを喚起してみようとする気持があった。(略) (『現代俳句全集六』の「自作ノート」立風書房)

年齢的には二十三歳から二十六歳ごろであり、実生活では苦難の中にあった。
この出発地点からすでに、紀音夫の生涯の俳句表現が、文学的主題詠の可能性と不可能性の間で揺れ続けることになることも、同時に暗示しているかのようだ。
高柳重信は紀音夫の俳句表現について、その可能性と不可能性を巡って次のように述べている。

  (略)意味性にあまり強くこだわるのは  、この俳句形式が持つ特色の中ば以上を、みずから放棄することにもなるであろう。
(略)林田の方法を具体的に見てゆくと、 と、その作品を書くに先立って既に知られているような意味を書くことは可能としても、作品を書くことによって思いもかけぬ新しい意味が発見される可能性は、ほとんど皆無に等しい。(前掲書の「「屈折した思い―林田紀音夫の俳句ー」から)

手厳しい批評だが、この言葉は紀音夫自身の前掲の「自作ノート」でも解る通り、彼自身が自覚している不可能性でもある。
まさに第一義的意味性に拘る表現では、普遍的な主題を打ち立てようする文学的主題詠は困難である。
紀音夫の創作上の内面的な闘いは、まさにこの点にあった。
続く句集『風蝕』(昭和二十四年から二十六年)における表現は次の通り。

竟にひとり月光胸を刺し通す   ①
葡萄くふ壁の影肺蝕まれ     ②
声の雲雀天に怺へてゐるを知る  ③
猫の仔を愛し屍室に隣りせり   ④
恋さへ憂しさくら花びら創りだす ⑤
雷鳴が渡りさびしき肋せり    ⑥
らんぷ吹き消す月光に溺れむ   ⑦

ここにも苦難の象徴としての現実と、表現主題へ誘う幻視を融合させる表現がある。
このような表現で一義的な意味性からの解放と離脱、より普遍的な主題詠を模索していたのだ。
① 「竟にひとり」という孤独の現実に「月光胸を挿し通す」という幻視表現。現実と幻視は逆と見てもよい。
② 「肺蝕まれ」という現実をわざわざ「葡萄くふ壁の影」と対置する表現。この句は昭和二十四年六月に肺結核で入院し九月に退院したという体験に基づく作だという。
③ 「声の雲雀」が幻視なら、「天に怺へてゐるを知る」が現実の心情表現であり、その逆でもよい。
④ 「猫の仔を愛し」「屍室に隣りせり」これも互換性があり現実と幻視の融合表現だ。
⑤ これは「恋さへ憂し」の方が現実の心情で「さくら花びら創りだす」が幻視的表現だろう。単純にさくらが咲くと言わず、「さくら」で切って、「花びら創り出す」という孤独さの滲む修辞法で表現している。
⑥ 「雷鳴が渡り」「さびしき肋せり」の関係も現実と幻視の融合表現である。
⑦ これは明らかに「月光に溺れむ」が幻視的表現で「らんぷ吹き消す」が表現的効果を計算した現実の偽装表現だろう。
こういう表現で現実の苦難を文学的主題として昇華させ、存在の孤独、寂寥、不条理といった普遍性を獲得しようと苦闘している。
昭和二十五年に日野草城の「青玄」に参加し謄写版のガリ版斬り生活は続く。
昭和二十七年には下村槐太の「金剛」が廃刊。
昭和二十八年には堀葦男、金子明彦とともに「十七音詩」を創刊。同年「青玄」の第四回青玄賞を受賞。
そんな昭和二十七年から三十一年の作品が次である。代表作的名句が登場する。

月になまめき自殺可能のレール走る
鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ
いづれは死の枕妻寝し月明に
柿の色悪しき位牌に見下され
天の雪冥し何物にも触れず
溶接の地にこぼす火は忘れらる
死顔のなほ人に逢ひ葬られず
逃げ場なければ寝顔まで月がさす
受けとめし汝と死期を異にする
煙突にのぞかれて日々死にきれず

もちろんすべてが以上のような緊張感のあ
る言葉の関係が成立しているわけではなく、一義的な意味性に捉われた、単純な心情吐露風の俳句もある。
ここでは言葉の間に緊張感のある俳句を選出した。

鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ

この句は、日常語としての「意味」を振り切って、俳句文学言語として自立した言葉と表現世界が切り開かれている句だと言えばいいだろうか。
通常の日常語的「意味」でこの俳句を「読む」と、鉛筆で書かれようが他の筆記用具で書かれようが、「忘れ易い」という人の記憶の劣化は発生するのだから、文としては論理性に欠けることになる。
これは文学的な自己表出言語による表現だとしたときだけ、日常的な支持表出としての表現の次元を突き抜けることができるのだ。
「鉛筆の遺書」「忘れ易からむ」を「ならば」で繋ぐことで発生する意味上の捻じれから生じる違和感そのものが、読者の心に深い陰翳を発生させる。
そこで言うに言えない文学的主題のステージへと読者は投げ込まれる。
このとき読者は一人の「読み手」という主体となって、自分だけの別次元の「意味」を模索することを強いられるのである。
「鉛筆で遺書を書く」という幻視的状況が表現としての普遍性を獲得し、読者は自分と自分を含む人間としての苦難や存在の不安と不条理のようなものを自分の中に造形する。
これがテーマ性俳句という呼称では零れてしまう、文学的主題表現の俳句というものである。紀音夫それをここで成立させている。
 この時期以後、紀音夫は社会性俳句への傾斜を強めていったという批評文をよく見かける。それは時代的なパラダイムに過ぎず、その概念規定が俳句界も林田紀音夫自身も縛る力として作用した、という方が正確だろう。
 社会性俳句という概念規定の曖昧な呼称は、たとえば句集中の「ドラム缶」や「錨」といった無機質な鋼鉄の素材語が、鉄工関係職場と労働を想起させるためだろう。
だがそれは、そういう「題材」と、俳句の文学的主題を曖昧に結びつけた概念に過ぎない。紀音夫はそれを「題材」として選び、別次元の文学的主題を表現しようと苦闘したのである。
続く昭和三十一年から三十二年の俳句。

歩く他なし鉄路無限の操車場
傍観者に貨車の重量次々消ゆ
貨車も仲間暗き風雨を敵として
銃口の深い暗さが僕らの夜空
黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ
画廊まで持込む傘の先鋭し

このような語彙のせいで、これらの俳句に社会性とやらが嗅ぎ取られているのだろうが、それを社会性俳句と規定する時代的パラダイムが、紀音夫の表現世界に縛りをかけるように作用したとも言えるだろう。
昭和三十二年から昭和三十五年の作品。

ラーメン舌に熱し僕がこんなところに
特急に膝まげて風化の時間
愛し傷つき風葬の手足をのばす
流失死体のひとつに僕をかぞえようか
シグナル赤ばかり鉄の軍靴が通る
鳥葬にかなう寝ざまの夜をもつ
死のスピードが描く赤い風紋

紀音夫の文学的主題は、本人がそのことに自覚的であったかどうかは別として、この時期からもっと別次元の表現を目指していた、あるいはその予感に満ちて詠まれていた。
社会性俳句という地平を突き抜けてしまう文学的主題詠の可能性を孕みつつも、紀音夫の心と俳句は揺れに揺れている。
続く第二句集『幻燈』。昭和五十年刊行。昭和三十六年から昭和四十七年までの作品を収める。
昭和三十六年から三十九年までの句。

風の荒れる方向へ歩き出す弔意
この身よりひろがつて海となる流失
青い蟹となるぼくら爪がないために
騎馬の青年帯電して夕空を負う
夕月細るその極限の罪を負う
いつか星ぞら屈葬の他は許されず
滞る血のかなしみを硝子に頒つ

表現技法的には口語自由律的な詠み方への傾斜があるが、表現内容はより観念的になってきている。
「歩き出す弔意」「海となる流失」「青い蟹となる」「帯電して夕空を負う」「極限の罪を負う」「屈葬の他は許されず」「かなしみを硝子に頒つ」という独特の幻視的表現にそれが現れている。
「いつか星ぞら」の句について紀音夫は次のように述べている。

 さまざまの形の死に、あまりに早く、易々と狎れ親しみすぎているのかとも考える。しかし、個と社会の間の往き戻りを重ねつゝ帰りつくところ、この深い闇の中でしかないように思える。更にそれは、ついの安息にも遠く、生きながらえての枷そのまま、永劫の悲しみを負う姿態としてしか幻視できないのであった。(前掲同書から)

もうこれは現実を契機にはしていても、現実にある哀しみや苦しみの次元を超えた表現である。
逆に言えば表現が大袈裟になった分、現実から遊離してゆく。
観念だけになってしまうと俳句が成立しなくなる。その危うさを意図的に孕み込んでまで、紀音夫をその表現へと駆り立てた何か、そこに紀音夫の文学的主題詠への無意識の渇望が垣間見える。
 昭和三十年代後半は戦後の貧困から社会全体が抜け出しつつあった時期であり、紀音夫自身もその社会的動向の中にいた。
社会の豊かさへの加速が、「社会性俳句」の成立基盤を危うくし、次第に下火になっていったのは、俳句の題材に過ぎない職場とか労働というものを「社会性俳句」などと称して、表現する目的にしてきたからである。
後年、多くの社会性俳句派と呼ばれた俳人が失速した事実をわたしたちは知っている。
そのことは、続く昭和三十九年から四十二年の紀音夫の俳句にも表れている。

月夜経て鉄の匂いの乳母車
父の梢に涙のみどりごがそよぐ
ねむる子の手に暗涙の鈴冷える
夕べこどもの声むらさきに走り抜ける
死者の匂いのくらがり水を飲みに立つ
人混みにまぎれ時計の内部見る
屍蛹に近い身を月光に横たえる

現実の幻視的表現による文学的主題詠の表現が後退している。
職場、労働の代わりに家族を景に引き込んだために表現が平易になってきている分、かつて実現していた独自の文学的主題を見失っているように見える。
 昭和四十五年から四十七年はどうか。

死者もまじえて雨傘の溢れる都市
傘の下から象につながる鎖見る
幽界へ氷片のこすウイスキー
羽化の幼女へ新月鉄の塔に出る
風の中から水子の声そのすべて泣く
副葬の赤鉛筆を遺し寝る

再び主題の観念性が強まり、伝統的境涯詠をかろうじて振り切っている。
この時期、紀音夫は今までの偏愛語彙に、新たな言葉を加えている。
それが「異界」の概念語類である。「幽界」「水子」「鳥居」「副葬」「神隠し」などなど。その多用と変奏によって紀音夫の文学的主題詠が、息を吹き返そうとしているようだ。
『幻燈』以後の俳句を見てみよう。
昭和四十九年。

薄眼に見え幽界の松少しばかり

この句について紀音夫はこう述べている。

 死そのものの確かさではなく、幽明のい
ずれとも、いまださだかではない情緒がこ
のこころの片隅を占めるようになった。現
実べったりでなくて、いわば虚の危うさへ
身を傾けてみたとき、或いは私の俳句に、
いますこし透明度が加わるのではないかと
いった気がした(略)(前掲同書)

竹林の夕べさざめく死霊たち
葱畠過ぎる軍旗のまぼろし追い
雑木林を過ぎる死人の数に入り
幾人か過ぎ傘の骨手に残る
火葬の形に寝て風の声すぎる
風の声してまなうらを死者過ぎる
足音の夜の何処か水子の声
風葬の鍵穴をいつ通り抜ける

彼の幻視的表現の地平は「異界」の相貌を濃くしている。
社会が高度成長の夢を追う中で、紀音夫はその夢を共有することなく、存在の不安と不条理の表現に拘り続けている。
彼は孤立無援の表現による苦闘をしている最中だったのだ。
昭和五十年。

戦死者も玉砂利を踏む音の中
雪中の声を追つての巡礼か
天辺に雪のさざめき樒立つ
尾燈はるか氷のようにレールのび

昭和五十一年。

胸に手を組む先立つ者の昔から
おくれてくる死者にひとつの椅子残す
まつすぐに火種の少女雨をくる
戦死者のひとり訪れ竹騒ぐ
鬼灯に十二神将暗く佇つ

昭和五十二年。

戦争へ揺れる西空のアドバルン
椅子ひとつ空いて身近な死者ひとり
鉄階にマリオネットの雨の糸

この時期、「戦争」や「戦死者」の語彙が多用されるが、それは「題材」であり、表現の目的ではない。
「空いている椅子」という存在の空白と、その分、死者たちが自分という存在に入り込んできているという実感を示そうとする表現に象徴されるように、文学的主題詠への意欲が存続している。
と同時に林田紀音夫俳句の文学的主題詠はここで一応完成し、ここに終る。それ以後はこれ以上の進展を見ることはなかった。
林田紀音夫はこの時期、第三句集の準備をしていたという。だがそれは実現しない。
二冊の句集以降の俳句は、福田基氏の尽力で編まれた全集で、わたしたちはその後の俳句の流れを知ることがきる。
阪神淡路大震災以後、完全に俳句を詠まなくなるまでの俳句は、大半の俳人がそうであるように伝統的な境涯詠へと傾斜してゆく様子が読み取れる。
だが表現方法には伝統俳句的ではない、紀音夫らしさを覗かせながら。
以後の俳句を精選しておこう。まず昭和の終わりの俳句。

  胸の手の未明の鷲か影過ぎる
星醒めて葬戻りの松騒ぐ
  幾人か風の回向の野のひかり
誰彼の歿後を急ぐ青あらし
  ぶらんこの天へ出て行く音しきり
風に向つてあるくいつかは消えるため
海が見えいる八月の風のひとり
 
次が最晩年の平成期の俳句。

手袋の片手落とした夜ひろがる
顔消して来る幾人か秋の暮
眼帯の中の寂しい鳥を飼う
茫々と夜の雨いつか死後の雨
 
平成七年。阪神淡路大震災に被災。

声落とす鴉に瓦礫泥まみれ
残骸としてクレーンの爪傷む

そして平成十年に七十四歳で他界した。
戦中は新興俳句、戦後の無季俳句、昭和二十年代後半から昭和三十年代の社会性俳句の影響下、その波を被りながら、独自の文学的主題詠に挑んだ人生だった。


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