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「俳句に埋め込まれた国粋主義」浅川芳直の俳句時評

 俳句総合誌「俳句」の二〇二二年十一月号に、大牧広の全集のことばを最後に引用して、「俳句に埋め込まれた国粋主義」という論考を、浅川芳直が寄稿していた。
 論考は三章立てになっていて、
●「近代の超克」としての俳句思想史
●俳句のユネスコ無形文化遺産登録運動の加速
●提案と大牧広の類想批判

という内容で、俳句が日本固有のものであることを、殊更に強調したがる気持ちが抱えこむ、近代俳句思想史に刻まれた国粋主義へ傾斜しがちな危うさを批判した論考である。 
 第一章の〈「近代の超克」としての俳句思想史〉で浅川は次のように論述している。
 子規の時代は急速な近代化を支える日本人のアイデンティティ(和魂洋才)が切実だった歴史的経緯があること、それまで単なる慣習であった季の詞の詠み込みを「季語」という概念の導入によって合理化し、俳句を郷土性に根差した文学と論じた、日本派の大須賀乙字は、俳句を「日本特有の詩形」と喝破して近代俳句の理論的枠組を整備した。
 その思想的背景に国粋主義的な考えがあったと指摘している。
 戦後俳句をリードした高浜虚子は「春夏秋冬四季の変化に心を留めて、その中に安住の世界を見出すという事は我が日本人の特に天より授かった幸福ではないでしょうか」という言葉の背景には、敗戦の刻印の反動としての「美しい日本の風土」礼賛に込めた「日本はユニークな国で西洋より優れている」という、子規の時代とはまた違ったアイデンティティの確認という心理があり、今は殊更日本文化の特殊性を優秀性として強調するような必要のない時代になっても、「俳句にはいつ牙を剥くともしれない国粋主義の遺伝子が埋め込まれている」と述べている。
 第二章の「俳句のユネスコ無形遺産登録運動の加速」の章で浅川は、その運動の主旨に対する国粋主義的な側面に危惧を表明している。
「自然と共生する」という日本俳句の精神が、他の〝俳句的〟な短詩を束ね、一神教の国々の争いを収めて世界平和を先導するだろう、という有馬朗人の談話の理路に違和感を表明している。
 それは八紘一宇の精神による東アジアの解放を謳いながら日本の植民地政策のイデオロギーと化した、戦時中の「近代の超克」論と重なって見えるからだという。
 そして最後の章「提案と大牧広の類想批判」で浅川は、作品に表出する季や景物、抒情に見出される価値を説明するとき、「伝統的」「日本的」といった性質に暗に依拠していないか注意したいと提案している
 例えば、「日本の風土」という概念は実作者の手近な「環境」で代替できる、というように。確かに「環境」と捉えれば公害問題も視野に入る。そして大牧広が述べた、世の中で「秀句」と呼ばれる俳句の類型性への批判を引用して次のように提案している。(大牧広の秀句なるものの類型批判は)「自分が俳句を通して国粋主義に引きずられていないかどうかをチェックするテストになるはずである」と。

        ※         ※

 浅川の視点、論考に、大いに共感する。
 わたしも、殊更、日本的であることを、対外文化における優位点として喧伝する思考の単純さと軽薄さについて、批判意識がある。
 日本語としての表現の歴史に刻まれた、風土性や感性については、自省的に検証するべき課題ではあっても、文化的優位性の文脈で論じられるべきことではない。
 文学は合目的的な産物ではなく、自己の深い認識と不可分の自己表現の世界であり、何かのためになるとか、こうであるべきだという主義主張の世界とは、もともと相容れない世界であると言う認識が、「美しい日本」論者には、あらかじめ欠落しているのである。
 

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