ダブルチェックについて考える


はじめに言っておくと

ぼくはダブルチェックを全く信用していません。
色々とネットで検索すると論文や検証結果にもありますが、ダブルチェックには意味がないという検証も出ていますし、まったく同じ持論を持っています。ヒューマンエラーでのトラブルが発生したときに改善策として「ダブルチェックを徹底する」と書かれると、「リソースだけ増やしてどうする」と思ってしまいます。

なぜ意味がないか?

色んな文献にもありますが、チェックする人が二人になったところで精度が上がるわけでもないし、むしろAさんは「Bさんもチェックするんだし」という手抜き感情が生まれるので、逆に精度が下がります。ダブルチェックならまだそこまで下がりませんが、トリプルチェック以降は目も当てられない惨状になります。

参考URL:

https://kouseikyoku.mhlw.go.jp/shikoku/kenko_fukushi/000085434.pdf

そんなチェック方法は殲滅したほうがいいのか?

ぼくは「人間と人間のダブルチェック」は信用しませんが、「機械と人間のダブルチェック」は有効だと思っています。最近では生成AIを使って成果物を作ることも多くなりましたが、生成AIが作った結果をノーチェックで出す人はいないと思います。あれは機械と人間のダブルチェックと言えます。

他にも、レベル2までの自動運転も該当します。
自動車自体が安全を確認しながら運転し、人間は目視で自動車の行動を見張る。これもダブルチェックと言えます。これって人間が多少、よそ見やあくびをしても自動車側が最低限の安全を講じてくれているので、結果的に事故のリスクを減らしているんだと思います。
ここで機械の出す答えを真に受けると大変なことが起きます。自転車で高速道路に乗る配達員とかが典型的な例と言えますね。

一方で・・・

人間同士のダブルチェックには意味がない!と思っていますが、「ダブルチェックの徹底」で誤魔化したいシーンって割とありますよね。例えそのミスがヒューマンエラーで顧客にご迷惑をおかけしてしまったとしても、100%防げる有効な手段がどうしてもないとき、もしくはその有効な手段には莫大なコストがかかってしまうときは、「運用回避」で納得してもらいたいというシーンもあると思います。

それでいて「ダブルチェックの徹底」って、有効かどうかは怪しいけどビジネスでの報告書では一定の信頼性があったりするので、「便利な言葉」であることも事実だったりします。

突っ込まれると痛い

なので、「ダブルチェックの徹底を図ります」と言って、先方から「ダブルチェックにそこまで意味があるの?」って言われると耳が痛くなる気持ちもわかるので、相手先に「ダブルチェックの徹底を図ります」って言われても、突っ込んだりはしません。「まぁ、ヒューマンエラーなら仕方ないよね」というスタンスです。

コンサルのシーンでは

取引先様から「こういうミスが起きたのでダブルチェックが出来るようにしたい」みたいな相談を受けたことはありますが、そのときは、「機械と人間のダブルチェック」という手法を必ず提案しています。

お客様が「ダブルチェックで対応しよう」と決めたものに対していきなり「ダブルチェックは意味ないので悪手ですよ」とマウント気味に言ってしまうのは感じ悪いです。医療機関ではダブルチェックは必ず行っているので、「責任感と責任感のダブルチェック」には効果があるはずなんですよね。

最初から否定するのではなく、「よりよいダブルチェックは何か」を考えるというご提案をしています。

むすび!

うっかりミスから生まれるダブルチェックによって新たに生まれるのは責任感か、はたまた怠惰の感情か。でも最初の「うっかりミス」にはその感情は存在していたのか?奥が深そうですね。

人類が古くから「こうすればよいのではないか」と考えてやってきた改善案には、その後のデータでは否定されたとしても、当初はそれなりの理由と確かな効果があったはずです。シーンと使いどころを見極めて、有効な必殺技にしていきたいものです。

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