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ヤングキングアワーズ誌2024年7月号・長谷川哲也先生の「ナポレオン 覇道進撃」レビュー「伝説」。

長谷川哲也先生の「ナポレオン 覇道進撃」
ナポレオン・ボナパルトは
1821年5月5日英国領セント・ヘレナ島にて遂に息を引き取る。
墓石には「ナポレオン・ボナパルト」と刻むよう英国側は要請するが
ナポレオンの側近からすれば皇帝の名前は「ナポレオン」であり
英国側の要請を拒絶。
結果墓石には何も刻まれなかった。

イタリアに住んでいた母親と妹,
オーストリアの息子は彼の死を悼み嘆き悲しんだが
盛大な葬式を行う事は許されなかった。
タレイランは彼の死を「事件」ではなく
茶飲み話等の「話題」に過ぎないと言い
「最早彼は過去の人でありその死も何の影響もない」
と言ったという。
「ナポレオンの死」は
「何でもない男の死」に矮小化され嘆くのは血族だけとなった。

1823年セント・ヘレナでナポレオンに取材を続けたラス・カーズの
「セント・ヘレナ回顧録」が出版され
フランスで大ベストセラーとなり英語でもドイツ語でも翻訳され
ラス・カーズに200万フラン(40億円)の版権料を齎した。

オーストリア政府はフランス政府に抗議するも
「民衆の間で流行っている」と言うだけで弾圧する事は誰にも出来ない。

ユゴーは「ナポレオン,貴方は神だ!」と言い
デュマは「冒険だ!フランスだ!歴史だ!」と言い
バルザックは「ナポレオンが剣でやったことをオレはペンで成す」と言い…
スタンダール,ハイネ,プーシキン等の
「ナポレオンに関する言及」は現在でも言い伝えられて行く。

例えタレイランが如何なる権謀術数を弄そうと
ナポレオンを矮小化することは遂に出来なかった。

「まったく君には呆れるよ」「あんな世界の果てで」
「アウステルリッツを超える戦勝を上げるんだから」
「現実はどうあれ」
「コレで君は革命の理想を体現した英雄になった」
「オレはあと200年は悪役だろうよ」

タレイランの遺言には
「ワタシの財産の大部分はボナパルトによって齎された」
「従って彼の姓を持つ者が援助を必要としていたら」
「可能な限り応えること」
と記されていたと言う。

セント・ヘレナ島のナポレオンの亡骸は1840年にパリに移され,
ルイ14世によって設立された廃兵院アンヴァリッドのドーム教会内に
建築家ルイ・ヴィスコンティによって設計された埋葬施設が
1861年に完成し彼の亡骸は5層になった棺の中に納められ
ドームの真下に安置された。
円を描いて棺を囲む床の大理石のモザイク装飾は
ローリエのモチーフとともにナポレオンが勝利した戦いの名を刻んでいる。また墓を囲む回廊には民法典をはじめとした
ナポレオンの残した功績を称えるレリーフ彫刻の装飾が施されている。

1840年の「ナポレオンの帰還」には
スルト,ウディノ,モンセー,グルーシ,カンブロンヌ…。
そして古参近衛兵を始めとする多くのフランス人が彼を出迎えたと言う。

勿論我らがビクトルもその一員である。
人はオイボレて死ぬが伝説は死なない。
「ナポレオンに関する記述」は永遠に残るのだ。

例え「長谷川哲也」という男がオイボレてくたばって朽ち果てても
「ナポレオン 獅子の時代」「ナポレオン 覇道進撃」は永遠に残るのだ。

来月号が「ナポレオン 覇道進撃」の最終回であり
20年以上続いてきた「ナポレオン」という男の話が終わるのである。


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