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水木しげる先生の「劇画ヒットラー」レビュー「断罪」。

漫画家の水木しげる氏は「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」といった
誰でも知っている数々の妖怪・悪魔漫画を描いたことで知られているが
戦記・伝記漫画を描かせても滅法巧い。
伝記漫画では「劇画 近藤勇」及び本作品が
僕の「お気に入り」であり何度となく読んでいる。
アドルフ・ヒトラーは20世紀が生んだ最大の「魔人」のひとりである
という意味においては妖怪漫画と言えなくもない。

オーストリア・ウィーンで芸術的画家を目指し
美術学校を受験するも2回連続で不合格。
母親が残してくれた僅かばかりの遺産を食いつぶしながら
下宿を転々と替え,遂に最下等の下宿の代金が払えず
公園のベンチで寝起きする浮浪者と化す。
なれどヒトラーは一向に働こうとせず働いたとしても長続きしなかった。
ウィーンの冬は寒く公園のベンチ暮らしに耐えられなくなったヒトラーは
国立浮浪者収容所に身を寄せる。
ヒトラーは孤児恩給の支給があったため
取りあえず1日3度のパンにはありつけたが
相変わらず働こうとしないばかりか
オーストリア政府の再三の徴兵検査の受検要請をも無視したため
ドイツ・ミュンヘンで官憲に捕らえられ
ようやく徴兵検査を受けるものの栄養失調により不合格。
ヒトラーに言わせるとオーストリアの徴兵検査を忌避し続けた理由は
ハプスブルグ王朝(オーストリア・ハンガリー)の一兵卒になるなど
真っ平御免で祖国ドイツのためなら喜んで一兵卒となるというのである。
ヒトラーの言葉に偽りはなかった。
第一次大戦が勃発しドイツが宣戦布告するや否やヒトラーは志願兵として
兵隊の訓練を三か月受けたのち出征し6年間軍人として過ごした。
「軍人」を職業と呼ぶとするならヒトラーは
ようやく「天職」を見い出したと言える。
第一次大戦で英国が使用した毒ガスにより
一時的に視力を失ったヒトラーはドイツ敗戦の知らせを病院で聞いた。
ヒトラーは涙を流しながら政治家となり
祖国ドイツにその身を捧げる決意を固めるのであった…。

水木氏は本作品を描くに当たって30を越える文献を参照されている。
本作品が発表されたのが1971年で
映画「ヒトラー 最期の12日間」(2004年)を視聴すると
本作品の描写の精密性・正確性に驚かされる。
ヒトラーがワーグナーを好んで聴いていたという話は聞いていたが
彼がワーグナーの曲を全て暗記し彼が機嫌がいいときは
口笛でワーグナーの曲を吹いてみせたという逸話は全く知らなかった。
またヒトラーが溺愛していた姪が自害しその衝撃から
彼は肉食を断ち菜食主義者となった逸話も初耳である。

本を読む愉しみのひとつが自分が如何に物を知らないかを
知る機会を与えてくれることであると痛感させられる。

ヒトラーが泡沫政党「ドイツ労働者党」の7番目の委員となってから
首相となり遂には総統に至るまでの道程は決して平坦なものではなく
一揆,逮捕,投獄,粛清そして何よりも
彼の周りには常に「貧困」がつきまとっている。

水木氏による突撃隊(SA)の構成員の解説が秀逸で
その一部を要約しながら紹介すると
「父親を第一次大戦で失い母子家庭で育ちやっと一人前になる頃には
世界恐慌による就職難が待ち構えていて生きる希望を失い同じように
世の中を恨んでいる仲間を突撃隊の構成員に見い出した人が多かった。」
というのである。
作家の小池一夫氏が生前いみじくもこう「呟かれて」いる。
「「自分が苦しいから他人も苦しくあれ」という発想は
「通り魔」の発想である」
突撃隊の「本質」に迫る発言だと思う。

第一次大戦で敗戦国となったドイツに対し
連合国によって課せられた賠償金は実に1,300億マルク。
その上,世界恐慌が覆いかぶさってきたから堪らない。
パン屋のショーウィンドウには「パン一斤 一兆マルク」と貼り紙されてる。
大阪のおばちゃんもビックリである。

なぜヒトラーの独裁政権が民主主義の決まりを守りながら成立し得たのか?
今まで誰彼なく何度となく発せられた疑問である。
本書ではその問いに対して極めて控え目ながらこう答えている。
「「全権委任法」が多数決によって可決成立したから」
全権委任法は当時のワイマール憲法よりも法的拘束力が強く
内閣があらゆる法律を国会の採決なしに制定できるという
前代未聞の法律でありこの法律によって国会は形骸化し
議会制民主主義が雲散霧消し
ナチス以外の政党もまた消滅させられてしまったのだ。

NHKで2015年10月から毎月1回・全6回に渡って放送された
「新・映像の世紀」第3回「時代は独裁者を求めた・第二次世界大戦」
を視聴すると全権委任法に関する言及があり,
水木氏の「答え」の裏付けとなっている。

本書の冒頭で名もなきドイツの若者とその父親との会話が思い起こされる。
(前略)父親「わしはこんなドイツを望んでいるわけではなかった」
「だが,だれもうらむわけにはゆくまい」
「あの男を生み出したのは,われわれドイツ人なんだ」
息子「ただわからないのは,なぜあなた方が,
むざむざとやつらが法を踏みにじるのを放置したかです」
「あのいとも奇怪な法律というものがあなたの財産を守る唯一の保障だ
ということを知らなかったわけじゃないでしょう」
(中略)父親「もうよせ,いまのお前にはもうなにもできないのだ」
息子「ところがそうはいかない。
「なにもしない」ということがもうすでに意味を持っているのだ」
「ぼくたちは生きている限りやつの虐殺の共犯者なのだから…」

知っているのに知らぬふり見えているのに見えぬふり
そうして流されるままに無為無策に生きてきた結果がヒトラーを生んだ,
という水木氏の「断罪」を逃れ得るものなど存在するのだろうか。


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