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藤本タツキ「さよなら絵梨」レビュー「何者にもなれなかった男の何でもない半生が綴られていて最高だった。」

本作の前半では主人公の優太が病床の母親の模様を
「自分(母親)がもう直ぐ死ぬかも知れない事」
をタテに撮る事を強要される。
撮った録画データは後でTVのプロデューサーやってる母親が自分の番組に使う予定。
「優太…早く撮って」「何してんの?」
「お母さんね,死んじゃうかも知れないんだよ?」
「さっきの構図で撮ったら,お母さんブスに映るでしょ?」
「それ位感覚で分かれよ」「ブスに撮って皆に笑わせたいの?」
「猫なんて撮っても意味無いでしょ」「消しなさい」「馬鹿じゃないの?」
「何で言った通りに撮らないの?」
「そのスマホお母さんのお金で買ったんだよ?」
母親は優太の本来の作家性…
例えば猫の何気ない所作をずっと映していたい
…を露程も認めておらず,自分の部下に対するが如き態度で叱り続ける。
挙句臨終の際の言葉が
「ホント…最後まで使えない子…」
である。

だが息子は母親の部下ではないのだ。

優太は入院中の母親の病院が爆発する「オチ」を付けて文化祭で発表する。
爆発は恐らく優太の真情の素直な吐露であるのだろうが,
映画「デッドエクスプロージョンマザー」は大不評を買う。
「ラストが悪かった…胸糞悪かった」
「倫理観疑うわマジで」
「お母さんの気持ち考えなよ?最悪…」
「どうして?何で…映画にしちゃたのアレ?」
「私も去年お母さんが死んだの」「…だから貴方が許せない」
「映画にした事が問題じゃない」「どうして最後爆発させたの?」
級友達の批評は優太の独創である所の「爆発させた所」に集中し,
母親が拳固で優太を殴りながら撮影技法指導した箇所は
「お咎めなし」である事を悲観して自殺を決意する。
ここでもまた優太の作家性が否定されたのだ。

本作の後半は絵梨との日々。
「自分がもう直ぐ死ぬ事」をタテに歯科矯正中でメガネかけてる自己中で直ぐキレる中々に嫌な女と毎日5本映画を観る事を強要され,要点をまとめさせられ,ストーリーを起承転結に分けて説明出来る様強要され,プロットを書かされ優太が勘違いし告白しても振り「自分(絵梨)を主人公とする映画」を作らされる。

絵梨は「母親の再来」であって母親は撮影技術を鍛え,絵梨は映画の作劇技法を鍛えた教師だったかも知れないが,その目的は「自分を綺麗に撮って貰う為」であって,優太本来の創意とか作家性を露程も認めてない点が共通してる。
創意とか作家性は人から教わるものではないが,
可能性の芽をことごとく摘まれた結果,
優太は将来作家にも映画監督にもなってない。

でもね。

筒井康隆氏の「短篇小説講義」でアマチュアに「小説の書き方」を指導する筒井氏の友人の文芸評論家が登場し,次の様に嘆くのである。

「文学新人賞とか文学新人賞最終候補とか,その位は何でも無い事で,そこ迄は教える事が出来ます」
「問題はそこから先なんです」
「新人賞を獲ったらそれっきりって人が殆どで大成する人がいない」

「教えられる事」には限界がある上,
教えられた「小説の書き方」の手引き通り書く人には
「未来」が無いと言うのである。

母親も絵梨も「撮影技術」や「作劇技法」を教える
優れた教師かも知れないが,それだけでは作家は生まれない。

本作では何者にもなれなかった男の何でもない半生が綴られている。
僕は母親と絵梨が彼の「未来」を奪ったせいと思っていたが,
そんな事で摘まれて消える「未来」など多寡が知れているのである。
高校生の頃から現在まで十分過ぎる時間が与えられていたのに
優太は何もして来なかった。
それが優太が「何でもない男」となった理由の全てなのだ。

その「何でもない男」が撮った映画がひとりの女を救った事が
本作の「ファンタジーのひとつまみ」なんだと思う。

「(この映画を)見る度に貴方に会える…」
「私が何度貴方を忘れても」
「何度でもまた思い出す」
「それって素敵な事じゃない?」

「何でもない男」にも夢が必要なのだ。
その「何でもない男」が「爆発オチ」を付けて物語は閉じる。
好きなだけオチを罵倒するがいいわ。
俺は「何でもない男」だから,
映画が面白いのは「母親や絵梨の指導の結果」と言われても,
もう気にしないし,もう自殺する気も起きないのだ。
もう高校生の頃の俺ではないのだ。

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