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ドラマから出る。

見えるもの、形あるもの、私たちの物質的に共有できることが現実とされている。「令和」は作られた。それはそういう習わしで伝統、手続きあってとメディアで説かれると納得できるようになる。メディアが本当に何かを説明して現実化しようとしたらいくらでも生み出せる、あろうがなかろうが、真実である、ないも。僕は減らしていく、ダイエットしていく。誰かの作ろうとしているそれから出ていく。僕は僕の作ったものの中で生きる。

現実に属していることを忘れ「箱庭」にまで視野を上げてしまう。研究は「あるものをあると感じる」ために行われていて、コミュニケーションは「統合」、情報の統合、互いの経験を増やすために、ボトムアップのために。僕の属する家族で今「わからない」という言葉がよく発せられている。そのわからないと言う言葉の中に針が隠れている。発する側が自己嫌悪にはまっていて、わからないと自分を責めた瞬間、自らに罰を与える姿が思い浮かぶ。

zoomを見ていて思う。個人的な体験を話す場になるのだろう。アメリカのセラピーであるように、皆の前で自分の状態、感覚を話すこと。「気がする」だけでは口に出せなかったことを話せる場所が生まれる。夢の話をしよう。

コンセプトというものは生まれ変わる。人があるもの(自然)から見出し、調和することが求められる。過去「死にたい」と願っていたものは、「自由になりたい」「光に還りたい」というものだった。癒しを行うもの。アフィリエイトではなく、持っている能力を互いに交わす。

子供のころは嘘だったのか。成熟していない者の話は相手にされない。社会という枠は命には狭すぎる。魂はいつも、未知と非現実と、広さを求める。「好奇心」。人は心を閉ざしている。もっと開く。人は「ない」ものを見ていて、「ある」ものを見ていない。他者を自由にして信じる。

魂だけになる。子供を自由にしてみて。もう変われるよ。好きなようにして。同じような感覚の人たちがたくさんいるよ。周りに合わせなくていいよ。好きにしたらいいよ。僕も好きに楽しんで生きるからね。

手を離すのは怖い?

大丈夫、やれるよ。


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