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徒然。つれづれにもほどがある。

瞼の裏にオーロラが揺れる。さっき食べたチョコの香りがする。肩から背中、鳩尾のあたりが緊張している。僕の持っている物語から外れると恐怖が発生する。次はちゃんと演じきれるように楔を打つ。この一連の流れはプログラムされている。ほかでもない、自分自身で。

D.A.N./NO MOONを聴いている。彼らのルーツは僕の聞いてきた音楽だとはっきりわかる。めちゃくちゃ好きだ。あなたの好きなもので好きなものを作りましたよという感じだ。僕はパエリアが好きだ、おかゆとちりめん山椒とみそ汁もいい、最近は友人が作ってくれるインドカレーも好きだ。そのおかげでシナモンを克服した。克服というと大そうに聞こえるけれど苦手だとプログラミングされていたのを書き換えただけだ。慣れればなんてことはないというやつだ。誰にでもできることだ。できないことは「発想にない」ことだけだ。思いついたすべてができることだ。

抑え込んでいるものは飛び出したがっている。愛したいが自分の理想どおりに愛せないと違ったものとなる。それは理想をたどれるまで繰り返す執着、はたまた上手くやっている人に嫉妬する種、私自身に盛る毒、それが回り憎しみと花開くか。だが、それは現象だ。私がいくら脚色し、読者をコントロールし、イメージを変えようとこれはあなたが許さなければあなたのモノとはならない。常に自由を謳歌しているのだけれど、それに気づけぬほどシステム化されているのだ。人の自我というものは。

つじつま合わせのために話すことの物悲しさに、ときめきが散らかしセカイが整える美しさに、身も心も揺さぶられながら、「今」に気づいていくのだけれど。。分けてしまうのだ、名付け、引き出しの中だ。溜まっていくぞ、重くなるぞ。吐き出せ吐き出せと声がする。思考が邪魔して聞き取れないのだろう。

行えば同じ力で返ってくる。例えば誰か優しくするとして、その相手から優しさが返されるだろうという「期待」を持ってしまいがちだ、しかしその優しさは誰か違う人から返ってくることもある。あるいは天候、良い知らせ、良いタイミング、失敗しても怒られないなど、ラッキーとして受け取ることもある。そのあなたが優しくした相手はまた違う誰かに優しくするするだろう。それでいいじゃないか、あなたはそうしたかったからやったのだ、あとは何でもいいんだ。

存在は愛だ。その上にジャッジを置くなかれ、人以外誰が存在の上に概念を置いているのだろうか。かく言う私も、これは良い、悪いと、何かと考える。ジャッジしている自分を見つけた時にゆっくり離れ、遠くからその思考をとらえることにしている。バカバカしいことをしていると思いながら、そう思ったことを許していく。現れたなら仕方がない、降参だ。あらゆるものに降参したときに、現れるこの感覚は確かに愛なのだろう。

無償の愛ときくと思い浮かぶのは親が子を想う気持ちだけれど、実際は子が親を無償、無条件で愛し親はそれをそれぞれ培った個性のフィルターで受け取り、必死に自分で作った枠に当てはめ返しているという風に感じる。愛の表れの一つに委ねるのというものがある。子がすべてを親に委ねる。僕はいつも他者の手を握る、他者に抱きつく子供らを見て愛されていると感じる。それは動物にも言える。ピロウズというバンドのストレンジカメレオンという曲で「いつか懐いていた猫はお腹すかしていただけで」という歌詞がある。ニヒルだけどそれでも愛されたと感じたから覚えているのだろう。そのあとにこう続く「すぐにパチンと音がして 弾けてしまう幻でも 手の平がまだ暖かい」。

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