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脱ぐときに踏むステップ

肉体を脱ぎ捨てる手段を「死」と呼んだ。依存からの喪失感を避けるために禁忌とした。結果としてそれはより強固に「生」の拠り所となった。この世にあり続けるために。重なり合ったハミングからどれを啄もうか。波が無限だと私の延長も無限で。つながりは絶てない。繊維の上で跳ねるカタチ。変化の再現などありもせず、意識が作り変える需要と作用。あまりも曖昧なために考えるのをやめてしまった。浴びた。虹を浴びた。そうやって光を選んだ。「どちら」と言おうがつらなりの1シーンだ。同じ場で踊ろうと抱き合おうとそれに確証はない。意味づけという作業に明け暮れて、identityのシルエットを忘れまいと。遠くへ流れるあの風車の円、印象が持ってくる言葉とそれに伴う感情の箱詰め、愛に揺らめく微笑みは強烈にぼやけていて安心した。なにも決められていないその瞬間に私は弛緩、何か全体の一部となる。各自の評価でくさびを打ち付け、先へ進めないと鎖を引きずり、呪いだと決めたそれはそのようにふるまい、呪いを味わう私が生まれた。自由なのだから選べばいいと思っている。洗脳の中の自由、思想の中の自由、自分は制限の中にこそ自由があると思っている、自由というものをイメージでしか知らない、そういう遠い感覚を味わっている。ここでしか得られない、ここでしか味わえない、生きるだ。

現実と呼ばれるここでは、夢と呼ばれるそこでは。内臓に感情や記憶がたまり、惑星からデータが送られ、ならば宇宙の果てと脳細胞は同じ作用の形をとっており、浮かぶ島や飛ぶクジラ、沈む泡に憧れた真珠がことん、床に波紋を生み出す。我々が表す原因不明の病は自らに負荷(ストレス)をかけることによって生まれる。それは背骨のゆがみから、思考思想の偏り、あらゆる緊張、硬さからそこへしか流れない溢れかえる貯水池となっている。ヒーラーや気功、レイキなどはその溜まった情報を書き換え掃除してくれるが、我々が独自にシステム化したその溜める環境を変えない限りまた同じ繰り返しとなる。心臓を移植したら以前の持ち主の記憶が蘇ったなどという話がある。臓器は情報を蓄える。次元という測点があるが、密度域という測点もある。自分のオーラ内にどれだけの情報が蓄えられるかで密度が変わり、他の領域と接点を持てるということだ。他の領域とは、宇宙人であったり、神であったり、妖精、地底人、未来の人間、過去の人間と。。この世界はすべて同時成っている。過去も未来も今にある。平行世界が無数にあり、重なっている。周波数さえ合えば、あらゆる領域から情報を引き出せるのだ。そうしたことに気づく人が増え、なしえないというものが減っていく、所謂、今まで奇跡と呼ばれていたことが頻発する。

我々は知っている、身体のどこかで知っている。拠り所などなくとも、私という生命がいかなる状況にも対処できことを知ってる。故の自由だ。いま、やりたいと思ったこと始めてみよ。何度も条件を付けて抑え込んできたことをやってみよ。そうすれば停滞感は失われ、生きているを感じ始める。踊れ、ただあなたの思った通りに踊れ、世に言うダンスのほとんどは型にはまって身体を動かすパフォーマンスだ。踊るとは水を床にこぼしたときのような、それぞれの命のふるまいだ。それでよいとするのは各自に任せる。

ジャッジが薄れてきている。それをそうやればいいのにと他人に思わなくなってきている。彼らがそうやりたくやっているのだ。それを経験しているのだ。私の人生ではない、自分で気づいて自分で変えるのだ。そう腑に落ちる。何かを判断するときも基本的にプランを持っている人に合わせる。僕はあまり計画を持っていない。そもそも計画自体が成されようが成されまいがどちらでもよい。それがある、成ったときに対処しようと思っている。脳内報酬系のための期待や、与えられる、褒められる、そういった他者から自分の機嫌を取ってもらおうとすることに違和感がある。自分でやれるでしょ。自分で自分を満たせられるでしょ。そのようにできているでしょ。自分のやりたいように生きていれば、循環の中で生き生きと輝くでしょ。と思っている。思ったことを試しながら委ねる。お腹がすいた。友人を迎えに行って朝食としよう。そういう世界を選んでいる、私がすべて選び、現実と呼んでいる。

間違ったことなど一つもなかったんだよ。それでよかったんだ。間違った選択なんてないよ。それを選んでよかったんだ。定めずにぼやかして、ゆるんで、ゆるんで、ゆるりとおどる。

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