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肉体と魂、二極化について。

2010年代から、人の価値観、種類が二つに分かれると言われてきました。僕がそれを知ったのは去年の8月ごろ。最初は自分に正直に生きれる人とそうでない人という分け方で理解してました。去年、2019の12月から二極化が本格化(目に見えて実感できるようになる)すると知って、芸能人の離婚、不倫、薬物など明るみになるたびに、この人は正直に生きる道選んだのかなと思い、気が付いたらパンデミックが起き、これは人の生き方が変わるなと確信しました。現状変わった人がたくさんおられると思います。
僕はというと昨年8月にもうやりたくないことは全部やめようと思って仕事、働くと言うのが嫌だったので退職しました。そこから車の免許を取り、祖母から食パン作りを伝授してもらい、貯蓄を使って暮らしてました。なんにもやらず、自分の気持ちの良いことばかり選んで今まで過ごしています。

さて二極化の話です。結論から言うと生きる指針を「魂主体」とするか、「肉体主体」とするかの二つに分かれると言うことで僕の中ではひと段落しました。魂主体とは、気持ち、潜在意識、スピリット重視(そのままですね)に従って生きていく。肉体的とは、思考、物質的、三次元的、エゴ、欲求に従って生きていく。
魂と聞いてよくわからん方もおられるでしょうから軽く説明を。例えば死んで天国行くのは魂、生まれ変わり何が引き継がれるのか魂、座禅や瞑想で繋がる先が魂、ハイヤーセルフは魂、ハワイでいうウニヒピリは魂、キリスト教の精霊は魂、直感は魂の反応。なんかありそう、それくらいに思ってください。

なぜ二つに分かれるのか、これも少し僕は誤解してました。分かれると言うのは全体を見るとそうなんですが理由としては「気づく人が増える、知っている人が増える」という感じなのだと思います。道端の花の名前を知っていて、もうこの花が咲く季節かとか、まだ咲かないはずだけど最近あったかかったからかな、みたいな想像ができると思います。でも知らないと通り過ぎる、花が咲いてる。で終わっちゃうかもしれません。ただその2種が存在する世界になるという感じです。魂は目に見えません。なのでどうしても感じれる人、感じていない人に分かれている状態が生まれるのだと思います。しかし、そうやって生きていっていいよと今まで許されなかった扉が開いていると言うことにもなります。~の申し子、~をするために生まれてきた子、天才。そういうのは全部魂に従って生きてきた人だと思います。これから特に子供たちはそういう特化したスペシャリストに育っていくと思います。大人顔負けなんて言葉が消えちゃうくらいしっかり自分をもって生きていく子供たちが現れます。

「選択するときは、恐怖ではなく、愛のある方を選べ」なんて言葉がありますが、この愛というのも魂の反応する方だと思います。愛とは通貨のような与え受け取るものだと思ってたんですが、それは違ってました。違うと言うとそれも違うのですが、通貨のような性質の愛は愛という形のないものを説明するために概念化した名残をそのまま使っていて、その上にもっと大きな単位の愛があった。というのが正確です。愛に制約や条件はありません、簡単に言うと、魂のやりたいことやる、というのが愛しているということになるんじゃないかと思います。

肉体的に生きる方は、身体の欲求に従います。これを古い生き方という人もいますが、その人はできるだけ気づいてほしいと訴えているのです。反復行動で身体が覚えたりするように脳も肉体です。猫背や歪みと同じように思考も反復され、慣れれば自動的に判断、選択したがります。すると視野が狭くなり豊かさを忘れてしまいがちになります。何でもしていい、どこへ行ってもいいという無限の可能性を有限にしてしまうのです。そういう歪みが大きなものから小さなものまで絡み合い、社会が作られます。私もこうだから、あなたもこうしなさい、それがあふれかえり、個々のつながりに気を使い疲れ、生きづらいようになってしまいます。肉体は魂の入れ物です。整えてあげなければなりません。自然環境に敏感な方、作物、食品に、健康、身体に、心、精神に、社会、政治に敏感な方。それぞれ研究され肉体、精神に良い情報を使って、入れ物、心を整える。整えた入れ物で魂が言う方へ向かえるように。

物質的でいる時間が長くなると本来の気持ちを後回しにしがちです。生活するために生きているわけでも、幸せになるために生きているわけでも、子孫を残すために生きているわけでもありません。形あるもの主体では見えないものをおろそかにしてしまいます。今、ヨガ、瞑想、座禅、メンタリズム、占いなどが流行っているのは無意識に感じているものを知ろうとしているのだと思います。本当の気持ち見つめるため、自分を知るため。思考を空にして、肉体を整えて、知っている人に導いてもらったり。ずっと三次元だけでは足りずに、欲求に溺れていたけれど、なに?魂ってのがあるのか、なんだそれはと、人類が様々な角度から知ろうとしているのでないでしょうか。

誰かに合わせなくても、自分のやりたいことをやるのが愛してるってことだから、それがいかに三次元的に物質的に、困難であろうとどれだけ慣れ親しんだ思考パターンで嫌がってもやってしまえば愛していることになるのだから。

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