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花を飾って待っている

遠くなる、それは「私はここにいる」という実感である。いつも、どこでも飛び交う情報によって、個人の質感は失われ、色の濃い、いや声の大きい、いや、見た目の派手な物事ばかりが並んでいるように見える。いつまでも、共感による物体ばかり見て、個人の本当を見ようとせずに、霞を追いかける。身体はアルコールから復活するためにあるのではない。肺は煙で満たすためにあるわけではない。より鋭く、確かに感じるという喜びを、ずっと求めていたんだ。働いて飲みまくって、友人は皆、喫煙者で。気づく、僕が僕を見つけるには感覚を研ぎ澄まさなければ、深く良い呼吸をしなければ。

場の空気に合わせていた。場所を変えなければと思った。抜け出せ、恐怖はビジネスだった。つまり、ツールだったんだ。扱うことができる。人は恐怖に優位なんだ。怯えることはない。僕がみんなと違っていても、それを許してくれる人はいる。そのためには表現せよ、出かけろ、やってみろ。私はここにいますと宣言する。生き始めるにはこれだ。嘘偽りなくTPO関係なく「表現」だ。

自分の美しい肌を誉めずに、他者の肌を崇める。自分の素晴らしい肉体を慈しまずに、他者の肉体を羨む。心を知らずに、豊かな境遇を見て落胆する。一体、そこまで思い込んで何を楽しめると言うのだ。「あなたがいないのはあなたが自らを見つめないからだ」いつだって、問う。これは楽しいか、やりたいか。客観視する。やってる自分を見つけてなんと声をかけるだろうか。「いけいけ」なのか「やらなくてもいいよ」なのか。

殻を破る流れがやってきている。「愛」というものが一体なんなのか。「命と貨幣」の天秤も、次元も視野も、許して認めて、広がりを感じていく流れだ。僕の今抱く桃源郷の実現は何世代か後だろう。今の2極化は歴史の話になるだろう。僕は僕の自由な姿を種として蒔いていく。そうやって大地のうえに積もる愛に僕も生かされている。自由を許してあげたい。僕も自分に制限をかけているからだ。手放すと怖くて、しがみついている手を「もう大丈夫だよ」と緩めてあげることを手伝えるような人になりたい。これは僕が本当に困ったことだから。愛とは、自由を許すことだ。自分の気持ちを自由にする。相手の告白も別れも、受け入れる。それを一つ、一つ増やしていく。

僕は僕の思うことを言っていいんだ。嫌がれようがそう思うのだから仕方がない。それが自分を愛している、自由にしていく一歩一歩だ。世間体に囚われるな、そこから出ることを怖がるな。全部幻だ。生きやすくするのは自分だ。いつも、あなたの眠るベットを花で満たしてくれている人がいる。目を覚ましたときに美しい景色を見せてあげたいと待っている人がいる。あなたのことを無条件で愛している人がいる。あなたに出会えて1番喜んでくれる人がいる。

あなたを待っている人がいる。それはあなた自身である。




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