潮騒の詩(うた) 第4話 伊豆半島のワラサとヒラマサ<城ケ崎・モズガネ>

7 ワラサがガバッと飛び出した

「このあいだの釣行記はもう書きあがったのか?」
 伊豆半島へ釣りに行った3日後の夜、畠山小太郎と松本竜司は「奄美屋」のカウンター席に座っていた。「奄美屋」は小田原市の外れにある小さな居酒屋で、マスターの川田良平が大の釣り好きであることから、訪れる客も釣り人が多い。
 店内に設置された大きな水槽の中で泳いでいる大ダイやマアジは、みな、マスターが釣りあげ生かしたまま運んできた魚たちだ。
生ビールのジョッキをカチンと合わせ、ノドに流し込んだところで小太郎が竜司に「原稿は書きあがったのか?」と聞いたのだった。

◇     ◇     ◇

 3日前の釣行で竜司は、自己記録となる全長85センチのヒラスズキを釣りあげた。そのヒラスズキを磯際で大波を被りながらランディングしたのが小太郎だった。
竜司1人では、おそらくそのヒラスズキをキャッチすることはできなかったに違いない。
「いやぁ、それにしてもいい型のヒラスズキだったなぁ」
おもいだすように小太郎が言った。
「お陰さまでイイおもいをさせてもらいました」
竜司は、ジョッキを目の高さまであげてから一瞬止め、いたずらっぽくニヤリと笑い、残っていたビールを一気に飲み干した。
小太郎がデジタルカメラで撮ったその日の写真は、CDにコピーして竜司に渡してある。竜司は、自分で書いた釣行記に写真を添えて、雑誌社へ送ることになっていたのである。

◇     ◇     ◇

「昨夜のうちに仕上げて、編集部の矢野さん宛にEメールで送っておきました。原稿を書くっていうのは大変なものですね」
 竜司は、2杯目の生ビールをマスターから受け取り、グイと一口飲み、口元にまとわりついた白い泡を左手でぬぐいながら素直な感想を口にした。
「楽ではないが、やりがいはあるだろう。だいいち、日本で釣りのプロとして食っていこうとおもうなら、原稿を書いたり、講演でしゃべったりすることは避けて通れない。むしろ、それを楽しめるようにならなくちゃぁいけないんだな」
 若い竜司に、先輩格の小太郎がアドバイスをおくる。
今でこそ、プロ釣り師として名の知れた存在の小太郎もまた、かつては、書いたりしゃべったりすることが大の苦手だった。それだけに、竜司の気持ちがイヤというほど分かるのである。
「マスター、生ビールをもう1杯頼む」
 そう言って、空になったジョッキをカウンター越しに差し出した。
「相変わらず2人ともペースが早いねぇ」
 マスターが穏やかな笑顔でジョッキを受け取る。
「いやぁ、この店の生ビールは最高だね。きめ細かな泡が何ともいえない」
「そりゃあどうも。嬉しいことを言ってくれるね。ところで、今日もどこかへ行ってきたのかい?」
 冷蔵庫から冷えたジョッキを取り出しサーバーの注ぎ口の下に差し入れ、黒いレバーを手前に引いてビールを注ぎながら、小太郎に聞いた。
「ああ。今日は東伊豆の地磯へワラサを釣りに行ってきた。3~4キロが3本キャッチできたから、まずまずってところかな」
「えっ、地磯からワラサを釣りあげたって? いったいどこで」
 マスターが聞き返す。
「城ヶ崎の磯だよ、東伊豆の」
「へぇーっ、城ヶ崎の磯からワラサが釣れるんだ。ひょっとしてまた、ルアーで?」
「そう、そのひょっとしてってやつだ」
「いやぁ、驚きだねぇ」
「しかも、トップウォータープラグにガバッと飛び出すから痛快そのものだ。もうちょっと大きければ申し分ないんだけど、サイズは選べないから仕方ない。まあ12月になれば、もっとでかいヤツが交じりだすとおもうんだけどな」
ニヤリと笑いながら満足そうに小太郎が答える。
ワラサというのは中型ブリの関東における呼称で、関西ではメジロと呼ばれている。
ブリは成長段階に応じて名前の変わる出世魚で、関東ではワカシ、イナダ、ワラサ、ブリ、関西では、ツバス、ハマチ、メジロ、ブリとなる。ブリと呼ばれるのは最低でも8キロ以上、だれもが納得するのは10キロ以上だ。
そんなブリサイズの大物が釣れるのは、冬から春にかけて。産卵を目前に控え、脂肪をたっぷり蓄えた魚体は、丸々太って一段と重量が増すのである。
 11月の今は、水温がまだ23度以上ある。
20度以下に下がる頃から徐々にサイズアップしてゆくのが例年のパターンだ。
「相変わらず小太郎さんは突拍子もないことをやるねぇ。船釣りでねらったってそうそう釣れないワラサを地磯から釣るなんて、一体全体、どうしたらそんなことができるんだい」
 半ばあきれ顔でマスターが言う。
店の食材確保のために、もっぱら沖釣りばかりにでかけているマスターにしてみれば、地磯からワラサが釣れるなどというのは信じがたいことなのである。
「どうしたらって、実に簡単なことさ。夜明けと同時に磯に入って、ただひたすらトップウォータープラグを投げたり引いたりしていれば、そのうちにガボッと襲いかかってくる」
「ワラサが、ガボッ、とねぇ」
 首を左右に2、3度振りながら、半ばあきれ顔で独り言のようにつぶやく。
「そう、ガバッと」
 再び小太郎が、ジェスチャーを交えながら追い打ちをかけるように言った。
「へぇ~っ、東伊豆の地磯でワラサが釣れるんですか。面白そうですねぇ」
 2人のヤリトリを黙って聞いていた竜司が、やや上気した顔で口をはさんだ。
「どうだ、竜司も興味あるか」
「当然ですよ。だって、地磯からトップウォータープラグでワラサが釣れるんですよねぇ。ルアーフィッシャーマンで興味のない人なんていないでしょう」
「そりゃあそうだ」
 小太郎が満足そうに頷く。
「ぼくも連れていってください。お願いします」
 懇願するように竜司が言う。
「竜司さん、だまされちゃぁいけませんよ。小太郎さんは簡単そうに言ってのけるけど、そんなにたやすく釣れるわけがない。まあ、あんまり期待しない方が無難だとおもいますがね」
 忠告するようにマスターが言った。
「おいおい、そんなに冷めた言い方をしないで欲しいものだね。それほど確率が高い釣りじゃないっていうのは確かだが、だからといって無謀な挑戦をしようとしているわけでもない。確率は5割以上。いや、もっともっと高いとおもうよ。それより何より、この釣りには夢がある」
 ついつい大げさに語ってしまうのは、万国共通の釣り人の癖だ。
 釣れなかった時のことはすっかり忘れ、よかった日のことだけを後生大切にしまい込み、時折、ジェスチャーを交えて口にする。語る毎に魚が大きくなり、数も増えるのが常だ。
「釣り人から話を聞く時は、両手を縛ってから聞け」と言われるのはそのためだ。
 それでも竜司は、
「いやぁ、ぜひ行ってみたいです。ダメでも一向に構いません。僕も1度、ワラサのガボッというのを味わってみたいです」
と、再び懇願した。
 その目が爛々と輝いているのは、おそらく、トップウォータープラグにワラサがガボッと飛びつく光景を想像しているからに違いない。竜司もまた、夢見がちな釣り人なのである。
「ワラサの話もいいけど、コレをちょっと食べてみて」
2人の間に差し出された皿の上には、〆サバが乗っていた。
おそらく40センチ以上はあったであろうマサバの半身分がそっくり盛りつけられている。
 〆サバをはしでつまみ、醤油につけて口の中へ放り込む。脂の乗ったマサバの旨みと、食欲を刺激する酢の香りがうまい具合にマッチしている。
「うん、脂の乗ったいいマサバだなぁ。酢の利き具合も丁度いい。やっぱり〆サバは旨いねぇ。マスター、コレはどこで釣ったの?」
「相模湾だよ。昨日、大磯港の船でマダイ釣りにいったんだけど全然ダメで、代わりに丸まる太ったマサバがたくさん釣れてきてね。何尾かはいつものように生かしたまま運んできて水槽の中に入れたんだけど、あまりによく釣れたんで残りは血抜きをして水氷にして持ち帰ってきたんだ。それを〆サバにしたのがそれ。2時間ほど酢につけてみたけど、つかり具合はよさそうかな?」
「バッチリだよ。へぇーっ、これで2時間も酢につけてあるのか。たっぷり脂が乗っているから、酢が浸み込みにくいんだなぁ、むしろ刺身に近いぐらいだ。いやぁ、それにしても旨い」
 〆サバを一切れ口に放り込むや、残りのビールを一気に飲み干し、今度は焼酎を頼んだ。
「いつものとおり黒糖焼酎のお湯割りでいいのかい」
 マスターが聞く。
「ああ。竜司もビールはそれぐらいにして、そろそろ焼酎にするか」
「お願いします」
 促されるように竜司もビールを飲み干し、空になったジョッキと引き換えにお湯割りの入ったグラスをマスターから受け取った。
 黒糖焼酎の生産地は奄美諸島で、サトウキビのしぼり汁を煮詰めてできる黒砂糖に米こうじを加えて製造される。
口当たりがよく、翌日に残りにくいことから年々人気が高まり、今では入手の難しくなっている銘柄も少なくない。

◇     ◇     ◇

 2日後の午前5時半。
 小太郎と竜司は城ヶ崎海岸にある地磯、「モズガネ」にいた。
「奄美屋」で黒糖焼酎のお湯割りを飲みつつ、トップウォーターゲームの面白さについて話をしているうちに、気分が高揚し、その日のうちに2日後の釣行が決まったのだった。
 午前3時半に小太郎の家を出発し、R135を南下。伊東を過ぎ、川奈口の交差点を左折。川奈駅を右手に見ながら県道109号線を進んで行くと、やがて正面に小規模な富戸港が現れる。
 さらに海岸線の細い道を南下すると、鬱蒼たる林の中によく整備された門脇駐車場がある。
 その有料駐車場に車を止めて素早く準備を整え、ヘッドライトの明かりを頼りに磯へ向かう。
 遊歩道伝いに階段をあがったりさがったりしながら、歩くこと5分で「モズガネ」の入口に到着した。
 遊歩道から外れて磯伝いに行くと、先端が一段低くなっている。
 2人はタックルや荷物を手渡ししながら慎重に磯をくだり、先端の釣り座へ出た。
「いやぁ、ついにやってきたって感じですね。ここがワラサの釣り場ですか、実に雄大ですねぇ。釣れるといいんだけどなぁ」
 竜司はこみあげてくる興奮を抑え切れず、口に出して言った。
「足元がツルッとした岩で滑りやすいから十分注意するんだぞ」
 そんな竜司を見てニヤリとした小太郎が、注意を促す。
「分かりました。確かにこんなところで足を滑らせて海に落ちたら一巻の終わりってことになりかねませんからね」
 このあたり一帯の地磯は、開拓期の磯釣り師によって昭和30年頃から攻めつづけられ、一時は場荒れがひどく芳しい釣果はあがらなくなっていたが、近年徐々に復活の兆しが見え、ここ数年は往時を彷彿とさせるような魚影が戻りつつある。
 磯際から水深が深く潮通しもよいため、予想以上に早く魚たちが戻ってきたのだろう。
 何せ、正面に臨む伊豆大島との間の海峡は、黒潮の通り道である。
ブリやヒラマサといった青物が回遊してくるのも、そんな好条件を備わっているからに他ならない。
 それらをルアーフィッシャーマンがトップウォータープラグでねらうようになったのは、1970年代の終盤頃から。
 前衛的な釣り人たちがいち早く海のルアーフィッシングに取り組み、もっぱらオキアミのカゴ釣りで釣られていた魚たちをルアーフィッシングでねらうようになった。
 シーバスロッドに中型スピニングリールを組み合わせ、ラインは、ナイロンモノフィラメントの16~20ポンドテスト。
ルアーは、コットンコーデル社の『ペンシルポッパー』16センチが定番であった。
 まだ明けやらぬうちに磯に立ち、薄暗い海にルアーをキャストしては速巻きを繰り返す。
 水面を掻き乱すように引いているうち、やがてルアーの後ろがモヤッ、モヤッと盛りあがる。ついにはバシャッと派手に食らいつき、ロッドを通して衝撃が伝わってくる。
 サイズは、概ね3キロ前後。
 時合は、薄暗いうちから日の出までのわずか30~40分間。
 時期は、10月から12月にかけて。
 主体はあくまでワラサだが、年によってはヒラマサの割合が多くなることもある。
 以来、現在にいたるまで、青物たちは毎年のように釣り人を喜ばせてくれているのだ。
 この日、小太郎と竜司が手にしていたロッドは、12フィートの青物用。
磯から本格的なルアーフィッシングをおこなう際には、磯際にルアーを引っ掛けたりしないよう、そしてまた十分な飛距離を稼ぐためにも、どうしてもこれだけの長さが必要になる。
 バット部にプリントされているキャストルアーウェイトは、40~80グラム。磯から青物を狙い撃ちするための専用ロッドだけに、かなり硬調子に作られている。
「小太郎さんは、何号ラインを使っているんですか」
 青物釣り未経験の竜司が、不安げに聞く。
「PE1.2号。リールもラインもヒラスズキ釣りに使用しているままだ」
 小太郎がサラリと答える。
「相手がブルーランナー(青物)だというのにそんなモンで大丈夫なんですか。僕は、いつ大物がきても対処できるように、2号を巻いてきました」
「今の時期は、大物がヒットする確率は極めて低いから、1.2号もあれば十分さ。飛距離のことも考えればせいぜい1.5号までだろう。「奄美屋」を出る時に言ったハズだがなぁ。酔いすぎて忘れちまったか」
「いや、えっ、そうでしたか」
 竜司は、「しまった」という顔で一瞬天を仰いだ。
 それを見た小太郎は、ニヤリと笑い、
「まあ、やってみるさ」
 といたずらっぽく言った。
 しらじらと明けてきた海に向かって、2人はキャストを開始する。
 無風。
 ベタナギ。
 ほほに当たる冷気が心地よい。
 鏡のように静まり返った海面が所どころざわついているのは、午前5時半の干潮時刻をすぎて潮が動き出している証拠だ。今、「モズガネ」の沖合は、左から右方向へ、ゆっくりとした流れがではじめている。
その静寂を打ち破るように、2人の操るルアーが水面を掻き乱す。
「チェイス!」
 竜司が叫びに近い声をあげた。
 ルアーに目をやると、確かに、後方から魚が追いかけているのが確認できる。
 ルアーにまとわりつくように、モヤッ、モヤッと何度も水面を盛りあげている。
「ああーっ、畜生ーっ」
 しかし、残念ながらヒットにはいたらなかった。
 素早くルアーを回収し、間髪を入れずにキャストをおこなう。
その間にも魚がどこかへ泳ぎ去ってしまいそうで、気が気でない。
 リトリーブを開始。
 リールのハンドルを目いっぱいの速さで回し、ルアーを滑るように泳がせる。と、すぐにまた、後方から魚が追いすがる。
「あっ、またきた」
 今度は何とかして食らいつかせようと、ルアーを引く速度を変えてみたり、もだえるようなアクションを加えてみる。
「ああっ、もうちょい! 食え!」
 食い入るように体を乗りだし、細かなテクニックをあれこれ試してみるが、あと一歩のところで魚はクルリとUターンしてしまった。
「あーっ、今度もダメかーっ」
 ルアーを回収し、次のキャストを試みようとしたところで、ふと小太郎に目をやると、ロッドが大きくしなっている。
「あっ、小太郎さん、ヒットしていたんですか」
「ああ、たった今。竜司のルアーを食えなかった魚がこっちへ来たのかもしれないな」
「ええーっ、そんなぁ」
 興奮するそぶりも見せず、満月にしなったロッドを右手でしっかり握りしめている。
 グリップエンドを腹に当て、左手をリールのハンドルに軽く乗せたまま、相手の動きを目で追っている。
 そのヤリトリに竜司は目を奪われた。
 大きくしなったロッドとそれを支える腕が、完全に一体化している。バランスを取るためにやや後方へ傾けた体も、力むことなく、ゆったりとした自然体を保っている。
 それはまるで、風景の一部のようであった。
 張り詰めたラインに目をやると、魚が正面から左方向へ、すなわち潮上へ向かってゆっくり泳いでいるのが分かる。口元にフックが刺さっていることに気づいていないような、落ち着いた動きだ。
「時間がもったいないからやってていいぞ。足元まで寄ったら声をかけるから、玉網ですくってくれ」
 振り向いて、竜司に釣りをしているよう促す。何せ、時合が短い釣りなのだ。
「いえ、このまま観戦させてください」
 竜司は、一部始終を見ていたかった。小太郎の流れるようなヤリトリから一瞬たりとも目を離さず、全てを克明に脳裏に焼き付けておきたいと心からおもった。
 完成された技術というのは、こうも美しいものなのか……。
「それ以上左へ行ったら、根にラインが触れて切れちまうだろう」
 言うが早いか、小太郎はロッドを左へ倒し、リールのハンドルを回して一気にラインを巻き込んだ。
「えっ」
 見ていた竜司は、一瞬我が目を疑った。
 左方向には沈み根があり、魚は真っ直ぐそこへ向かっている。
 魚が沈み根に向かうのを阻止しようとするのなら、ロッドを右方向へ倒して強引に走りを止めるのが普通ではないか。
 少なくとも自分なら、そうしていたに違いない。
 ところが小太郎は、ロッドを左側へ倒し、魚を沈み根の方へ誘導するような操作をおこなったのである。
 理解できずに呆然と立ち尽くしている竜司をよそに、小太郎は小さく「よしっ」とつぶやいてから再びロッドを立て、動きを止めた。
 よく見ると、魚は右方向へゆっくり泳ぎはじめているではないか。
「えっ、いったい何が起こったっていうんだ」
 竜司は何が何やら分からなくなった。
 はっきりしているのは、小太郎が突然動き、その後魚が逆方向に泳ぎだしているということ。
 ひょっとして、小太郎が意図的に魚の泳ぐ向きを変えたっていうことなのか。
 まさか。果たしてそんなことが、本当にできるのだろうか。
「玉網を頼む」
 小太郎に促されて、竜司はハッと我に返った。
 すぐに玉網を持って小太郎のそばへ駆け寄り、水面に浮きあがったワラサをすくって磯の上へ引きあげる。
 4キロほどの丸まる太ったワラサであった。
「まずまずの型だな。道理でよく引いたわけだ。とりあえず1尾目ってところかな」
 玉網に納まったワラサの口から、シルバーボディ、ピンクバックの『ドラドスライダー14F』を外しながら、小太郎が満足そうに言った。
 そして、玉網の柄を伸ばして海につけ、そっとリリース。
「竜司、今度はオマエの番だぞ。時間がないんだからぼんやりしていないでどんどん投げろ」
「はっ、はい! 分かりました」
 竜司には、小太郎に聞いてみたいことが山ほどあったのだが、ここはひとまず後回しにして、釣りを再開することにした。
 竜司がキャストしているルアーは、『ドラドスライダー14F』のシルバーボディ、ブルーバック。最も無難といわれているイワシカラーだ。
 何度かリトリーブを繰り返しているうちに、またしてもワラサが追いかけてきた。しかし、あと一歩のところで食いつかずにどこかへ消え去ってしまった。
「あーっ、まただ」
 次の1投にもチェイスはあったが、竜司はすでに成す術を失っていた。同じことを繰り返す以外、方法がおもい浮かばないのである。
「あと一歩のところでワラサがUターンしてしまうのは、ひょっとしてカラーのせいなのでしょうか」
 おもいあまって小太郎に聞く。
「そんなことはないさ。この段階でカラーなんて大した問題じゃない。ワラサが食いついてくれないのは、食うための間の取り方が短すぎるんだ」
「食わせのタイミングが悪いってことですか」
「そのとおり。最大の失敗は、2号ラインを巻いてきたことだな。ラインが太い分ルアーの飛距離が落ちるから、リトリーブの距離が短くなって、最終的に魚の食うタイミングが取れなくなっている」
「どうすればいいんでしょう」
すがるように竜司が聞く。
「速巻きを止めて、ドッグウォーキングに切り替えてみろ」
「分かりました、ドッグウォーキングですね」
「そう、ドッグウォーキングで魚が反応しないようなら、いったん速巻きでルアーを引いて、チェイスがあった時点でドッグウォーキングに切り替える。そのどちらかだ」
「やってみます」
 ドッグウォーキングというのは、ロッドを小刻みにあおることによってルアーを左右交互にスライドさせる、基本テクニックの一つ。青物ばかりでなく、ヒラスズキをねらう際にも効果的だ。
 竜司にアドバイスをおくってから、小太郎もキャストを再開する。
 東の空が徐々に濃い茜色に染まってきている。日の出が迫っている証拠だ。
 日の出時刻は、午前6時17分。
「チェイス!」
 竜司が小さく叫ぶ。
 ドッグウォーキングに魚が反応したのだ。
「食えっ、食えっ」
 しかし、祈るようにロッドを操作しつづける竜司の願いはワラサに通じることなく、またしてもヒットにはいたらなかった。
「ああーっ、悔しい~っ。何で食ってくれないんだ」
 そう言いながらも目は海を見据え、言い終わらぬうちに次のキャストをおこなっている。
「よーし、次は速巻きからドッグウォーキングに切り替えるパターンでやってみよう」
ロッドを下向きに構え、操作は一切せずにリールのハンドルを全速力で回す。
すぐに、ルアーの後方が盛りあがった。
「チェイス!」
 速巻きを止め、すぐさまドッグウォーキングに切り替える。
 はやる心を落ち着かせるため、ゴクンと唾を飲み込む。
 ルアーの後方に魚がついてきているかどうかは定かでないが、そう信じて、ドッグウォーキングをつづけるしかない。
 左右交互のスライドを5、6回繰り返したところで、突然、バシャッと水面がさく裂し、静かな海面に大きな波紋が広がった。
「きた!」
 ひときわ大きな声で竜司が叫ぶ。
「きたか!」
 小太郎がすぐに駆け寄る。
 竜司はロッドを抱え込むようにしながら、2度、3度と追いアワセを入れる。フッキングをより確実にするためだ。
 直後、驚いた魚が強烈な力で突っ走る。
 リールのスプールが逆転し、勢いよくラインが引き出される。
「まずいなぁ」
 それを見ていた小太郎がひとり言のようにつぶやいた。
「ドラグ設定が弱すぎて、完全に魚に主導権を握られちまってる。あのままじゃあやられるなぁ」
 一般的に、シーバスフィッシャーマンのドラグ設定は、かなり弱い。ラインを軽く引けばスプールが逆転してしまうほどにセットしている人が少なくない。
 ワンダッシュの距離が短いスズキやヒラスズキに対しては、それで何ら問題はないのだが、相手が青物となればそれが致命傷となりかねない。
 今、目の前で戦っている竜司のドラグセッティングも、明らかに弱すぎるのだ。
「竜司、ショックリーダーは何ポンドだ」
「40ポンドです」
「よしっ、それならスプールに手を当てて、ハンドドラグで魚を止めろ。そのまま走られつづけたらやられるぞ」
 竜司は初めて青物の引きに直面し、パニック状態に陥っている。
ロッドを握っているのがやっとで、ラインを引き出されながらもどうしたらよいか、見当さえつかないのだ。
「分かりました」
そう言うや、恐る恐るスプールに左手を当て、徐々にプレッシャーをかけていく。
 逆転していたスプールが止まると、ロッドが一段と大きく絞り込まれた。
「うわぁ、何だこの力は」
「堪えろ!」
「はい」
 言われるままに、必死に堪える。ロッドは派手に弧を描いていたが、その程度で折れることはないと小太郎は心得ていた。
キーンと糸鳴りしているラインも、この程度の引っ張りっこで切れることはない。何せ竜司が使っていたのは、小太郎のそれより2回りも太いPE2号なのである。
 張り詰めた時間が、しばしつづく。
 数秒後、相手が辛抱しきれなくなったのかラインの緊張がフッと緩み、魚の頭がこちらを向いた。
 その瞬間を見逃さず、小太郎が竜司に向かって声を張り上げる。
「今だ。一気に寄せろ」
 竜司は言われるままに、無我夢中でリールのハンドルを回す。
「よしっ、巻けるだけ巻け!」
 堪える時はじっと堪え、攻める時は一気に攻めるのが青物釣りの鉄則だ。リールが巻ける時は、攻める時なのである。
 と、魚が突然向きを変え、左方向へ突っ込んだ拍子に竜司がバランスを崩し、一瞬よろける。
「危ない!」
 小太郎が叫ぶ。
 竜司はすぐに体制を立て直し、ロッドをしっかり握り直した。
 左方向には大きな沈み根がある。それに触れれば、いくら太めの2号ラインといえども一巻の終わりだ。
「止めろ!」
 小太郎が怒鳴る。
「はいっ」
 竜司はスプールに手を当て、再び滑りだしていたラインを必死のおもいで止めにかかる。
 最初の走りに比べれば、明らかにパワーが落ちている。左手で押さえ込んだスプールは回転が止まり、張り詰めたラインがキーンと音を立てた。
 左方向への突進を諦めた魚は、ゆっくり沖へ向かう。もはや、ヒット直後の力強さはない。疲れているのだ。
「よしっ、そのままゆっくり寄せてこい」
 ロッドを引き起こすように立てながら、ポンピングで魚を寄せる。
 ポンピングというのは、ロッドで魚を引き寄せ、次にロッドを前に倒しながらリールでラインを巻き取ってゆくという方法で、大物とのヤリトリには欠かすことのできないテクニックの一つだ。
 やがて水面下に魚影が確認できた。
水中でヒラを打つように、銀色の魚体が左回りにゆっくり回転しながら浮きあがってくる。尾ビレがやけに黄色い。
「おっ」
 その時、小太郎が小さな声をあげた。
「竜司、慎重にいけよ」
「はい」
 水面に浮きあがったところで、小太郎が玉網を差し出し、無事ランディング。
「おい竜司。ヒラマサだぞ」
「えっ、ヒラマサ?」
 伸ばした玉網の柄を縮めながら、真っ直ぐ引きあげる。
「間違いない。ヒラマサだ」
 磯の上に横たわった魚を見て、改めて小太郎が言った。
 主上顎骨の後端上隅がまるみをおびていることからヒラマサと断定できる。ブリはその部分が角ばっているのだ。
 サイズは、優に5キロ以上。
「いやぁ、東伊豆の地磯でヒラマサが釣れたなんて言ったら、『奄美屋』のマスターがまた驚くんだろうなぁ」
 呆然と立ち尽くす竜司の前で、小太郎はそう言って楽しそうに笑った。

舞台となっているのは、実際の釣り場。釣り場紹介と小説が合体した、新しいジャンルの「釣り小説」です。お楽しみください。