潮騒の詩(うた) 第3話 伊豆半島のヒラスズキ編<爪木崎・影山>
5 15年前の思い出
「それじゃあ『影山』へ移動するか」
小太郎が落ち着いた声で言った。
「『影山』っていうのは、『たかん場』の左側にある磯ってことですか?」
自己記録となるヒラスズキを釣りあげたばかりの竜司の声は、まだ高揚していた。
「昔、小太郎さんが良型のヒラスズキを短時間に何尾も釣りあげたっていうアノ場所ですよねぇ」
「そうだ。それにしてもそんなことをよく覚えているなぁ。オレなんか、話をしたことさえ忘れちまってるっていうのに。ともあれ、この釣り場はもう危険だ。波が大きすぎる」
低気圧の接近で強烈なナライ(北東の風)が吹き、うねりが徐々に大きくなってきている。もはや、磯際に立つことさえ難しい状況になっていたのであった。
2人はタックルを手に、並んで歩きはじめる。
いったん『たかん場』の付け根まで戻り、落差の大きい北側の岩場を注意深くくだってゆく。
ゴツゴツした岩場は凹凸が激しく、見た目以上に歩きにくい。急いで転んだりすれば大ケガを負うことになるだろう。磯の上では常に、慎重に行動するよう心がけなくてはならないのだ。
釣り場を見下ろす位置に立って、小太郎がじっとサラシを見つめる。
時折大きなうねりが押し寄せ、波が磯に這いあがってくるものの、釣りができないほどの荒れ方ではない。沖から押し寄せてくるうねりを注意深く見ていれば、大波が磯に襲いかかる前に安全な位置までさがることができる。
確か、15年前のアノ日も、これぐらいのサラシが広がっていた……。
◇ ◇ ◇
6月中旬の夕方。激しい雨の中を小太郎は1人で南伊豆に向け車を走らせていた。
願ってもない好条件に我慢し切れず釣り場を目指したものの、すでに夕暮れが迫ってきている。急がなければ、せっかく現場に着いたとしても、釣りをする時間がなくなってしまう。
家から南伊豆までの距離は、およそ100キロ。順調に走って2時間ジャスト。予定では、1時間以上釣りができるハズであった。
ところが、どしゃ降り雨の影響なのかR135を走る車の速度がすこぶる遅く、小太郎の気持ちは焦るばかりだった。
爪木崎の駐車場に到着したのは、午後5時半。午後7時には薄暗くなってしまう。素早く準備をして、早足で『影山』の磯へ向かった。
2週間ほど前の釣行時に良型のヒラスズキがヒットしたものの、ファイト中にフックが外れ、悔しいおもいをした。この日は、そのリベンジ釣行でもあったのだ。
遊歩道を川のように流れる雨水が、降りつづく雨の激しさを物語っている。
ゴアテックスのレインウェアに身を包んだ小太郎は、ただただ、釣り場に急ぎたい気持ちでいっぱいだった。
風はほとんど吹いていないものの、磯にはうねりが押し寄せ、真っ白いサラシが広がっているに違いない。途中の海の様子を確認しながら車を走らせてきただけに、目指す磯に絶好のサラシが広がっているであろうことは容易に想像がつく。
遊歩道から外れ、木々の間を抜けて芝生に覆われた見晴らしのよい場所にでる。
そこから左方向へ歩き、眼下に見える磯に向かって下ってゆく。雨は相変わらず激しく降りつづいていた。予想通り、磯の正面には分厚いサラシが広がっている。
小太郎は、一刻も早く、そのサラシにルアーを投入したくて仕方がなかった。
釣り場に着く。
すぐに3本継ぎ14フィートのシーバスロッドをつなぎ、リールをセットする。
ガイドにラインを通すことさえもどかしい。
ラインは、ナイロンモノフィラメントの20ポンドテスト。その頃はまだ、PEラインなど開発されていなかった。全てのシーバスシーバスフィッシャーマンが、リールのスプールにナイロンモノフィラメント・ラインを巻いていたのだった。
ラパラのフローティングミノー『F14-MAG』を結び磯際に立つ。ルアーのカラーは、グリーンマッカレル。
「絶好のサラシ」
右サイドの岩壁を伝ってきたうねりが磯の右端のワンドに打ち寄せ、真っ白いサラシとなって沖へ払い出す。
払い出したサラシの先に大きな沈み根があることを、小太郎は知っていた。晴れた日に足場の高い『たかん場』から、点在する沈み根の位置を確認しておいたのである。
大きな沈み根にはヒラスズキが居着いている可能性が十分ある。
その沈み根を分厚いサラシが覆っていれば、ヒラスズキの警戒心は薄れ、目の前を通過するルアーに飛びついてくるに違いない。
2週間前にヒットしたのも、そこだった。
ゴクンと唾をのみ込み、高ぶる気持ちを落ち着かせてから、キャストをおこなう。
ルアーはねらい通り沈み根の沖側まで飛び、着水した。
リールのベールアームを左手で戻し、ハンドルを回して糸フケを取る。
ロッドティップをさげ、ロッド全体をあおるように引いてルアーを潜らせ、リールのハンドルを回してリトリーブを開始する。ブルブルとロッドティップが振るえているのは、ルアーのリップが水を捉え、しっかり泳ぎだしている証拠だ。
沈み根の真上をルアーが通過し、濃いサラシの中に入りググッと引き抵抗が増した時、ゴツゴツッと堅い感触が手元に伝わってきた。
「きた!」
下向きに構えていたロッドを、左方向に体ごと回転させながら強く合わせる。
ズシンという重い手応え。
14フィートロッドが大きく曲がる。
「でかい」
小太郎の胸は高鳴った。
サラシの中で、ヒラスズキが大きな口を目いっぱい開き、左右に激しく頭を振りながら跳躍する。
エラアライ。
口にまとわりついたルアーを必死に振り払おうとしているのだ。実際、エラアライによってフックを外され、ルアーを飛ばされてしまうケースは少なくない。
シーバスフィッシャーマンたちの間で、「シーバスはバレやすい」といわれるのはそのためだ。
2度、3度と繰り返されるエラアライを何とか切り抜け、ヒラスズキとの距離を徐々に詰めてゆく。
「よしよし、だいぶ弱ってきたようだな」
問題は、どうやって取り込むか。
あたりを見回してみたものの、適当な場所が見つからない。
この波の中で不用意に磯際にでるのはあまりにも危険だ。
十分弱らせてから、大きなうねりが来るのを待ち、うねりが磯に覆い被さってくるタイミングで一気に引きずりあげる以外、方法はない。
心配なのは、フックが伸びたり外れたりしないかだ。
「イチかバチか、運を天に任せるとするか」
ロッドを立て、ヒラスズキを水面に浮きあがらせたまましばらく待ち、大きなうねりがやってきたところで、ロッドを渾身の力であおり磯の上に引きずりあげた。
満月にしなったロッドを両手で抱え、ヒラスズキが引き波に流され再び海に戻らないよう必死で堪える。
そこへ、次の波が襲いかかる。
磯の上まで這いあがってくる波を利用して、さらに引きあげる。
その引き波を堪え切ったところで素早く駆け寄り、左手で下顎を掴み高い位置まで駆けあがった。
「ふーっ、何とか取り込むことができた。いい型のヒラスズキだ」
おとなしく横たわったヒラスズキにメジャーを当てる。
全長、90センチ。
重量を測ることはできないが、おそらく7キロを下回ることはあるまい。
小太郎はしばらくの間、じっとヒラスズキを眺めていた。
そして、独り言のように小さな声で、「ありがとうよ」とヒラスズキに声をかけた。この魚に会いたくて、自宅のある小田原から100キロの道のりを突っ走ってきたのだ。
口元にぶら下がった『F14-MAG』をプライヤーで外し、ヒラスズキを両手で抱えて海へ放り込む。
傍目には乱暴なリリースと映るかもしれないが、荒れた海で水際にでるのは危険極まりない。ましてや両手でホールドしたまま水に浸け、元気に泳ぎだすのを待つなんてことは到底できない。
何より、野生の生命力はそれほどやわではない、というのが小太郎の持論なのだ。
◇ ◇ ◇
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舞台となっているのは、実際の釣り場。釣り場紹介と小説が合体した、新しいジャンルの「釣り小説」です。お楽しみください。