潮騒の詩(うた) 第6話 伊豆半島のヒラスズキ<石廊崎の事故>

10 大波が釣り師に襲いかかる

 目の前に広がっていたのは、大荒れの海であった。
 ドドーッという、心臓まで突き抜けるような振動とも響きともつかぬ衝撃音を伴いながら、大波がひっきりなしに磯に襲いかかっている。
 一瞬のうちにすべてをのみ込み、数秒後には、ゴーッという不気味な唸りとともに、あるものすべてを大海に引きずり込んでしまうほどの荒れっぷりだ。
磯の周囲には、ぶ厚いサラシが広がっている。
ヒラスズキ釣りには、おあつらえ向きの条件といってよい。
 問題は、釣り人が磯に立って釣りを展開できるかどうか。
 沖合からは次々に大うねりが押し寄せ、磯に打ちつけている。
 挑むか。
退くか。
 ギリギリの、生死に関わる選択だった。

◇      ◇     ◇

「ずいぶん荒れてるみたいだけど大丈夫かなぁ」
 山道から先に海辺に出た正木が、見晴らしのよい、小高い位置から磯を見下ろし不安そうに言った。
無理もない。
ヒラスズキ釣りに挑むのはこの日が初めてである。
「ああ、ちょっと荒れ気味だけど注意しながらやれば問題はないさ。むしろおあつらえむきってところじゃないかなぁ。何たってヒラスズキは、荒れれば荒れるほどよく釣れるっていわれている魚なんだからね」
 そう言ったのは、稲本。彼もまた、本心は不安でいっぱいだった。
 ヒラスズキ釣りの経験はわずかに数度。しかも、そのことごとくがベタナギでほとんど釣りにならなかった。
 本格的なヒラスズキ釣りは、今回が初めてといってもよいくらいなのだ。
 しかし、正木を誘ってここまでやって来た手前、自らが感じている不安を安易に口にするわけにはいかない。
 正木の不安がさらに大きくなってしまうに違いないからだ。
 あれこれ悩んだ末に、稲本は穏やかな口調で正木に言った。
「せっかくここまで歩いてきたんだから、ちょっとだけでもやってみようじゃないか。実際にやってみて、危ないと感じたら早々に引き揚げればいい。ひょっとすると、ほんの数投で、でっかいヒラスズキがドカンとヒットするかもしれないぞ」
 正直なところ、期待と不安が半々だった。
 いや、正確に言えば、不安の方がはるかに勝っていただろう。
 おそらく、稲本が1人でこの釣り場にやってきていたとしたら、迷うことなく引き返していたに違いない。
 初心者とはいえ正木という同行者がいたことで、気持ちが大きくなり、迷いを払しょくすることができたのである。
 不安が去った空間にスッと入り込んできたのが、長い間抱きつづけてきたヒラスズキへの憧れと期待感。
 そうおもいはじめると、いてもたってもいられなくなった。
「いいサラシじゃあないか。これほどの好条件はなかなかないぞ。とにかく、準備をして釣りはじめよう」
 稲本はロッドをつなぎ、ガイドリングにラインを通しながら、正木にも準備を促した。
 ロッドは、11フィート。
 普段、砂浜からシーバスフィッシングを展開する際に使用しているもので、所有しているシーバスロッドの中では、これが一番長い。
 リールは、5000番。
 ラインは、PE1.5号。スプールに、使い古したラインをある程度巻き込んでから、その上に新品の1.5号ラインを200メートル巻き込んである。
 ショックリーダーとして、40ポンドのフロロカーボンを2メートル、PRノットでつないだ。
 PRノットというのは、いわゆる“摩擦系ノット”と呼ばれる結びで、メインラインをショックリーダーにぐるぐる巻き付け、最後にギューッと締め込むだけの実にシンプルな結びだ。
 シンプルではあるが、極めて強い。
 ある計測によれば、メインラインの強度がほぼ100パーセント保たれているというデータもある。従って、人によってはこのテの摩擦系ノットを“100パーセントノット”と呼んだりもする。
 これを、器具を使わず素手でやるのが「ミッドノット」。器具を使って結ぶのが「PRノット」である。
「よし!」
 ショックリーダーの先に14センチのフローティングミノーを結びつけたところで、稲本が言った。
 あとは磯へおりて、ルアーをキャストするだけだ。

◇      ◇     ◇

「荒れている方がいいっていうのは分かっているんだけどさぁ、いくらなんでも荒れすぎじゃないの。俺は、ちょっと怖いなぁ」
 稲本に促されて準備をしはじめたものの、磯に打ち寄せる波を見れば見るほど不安が大きくなる。
 日頃釣りをしている東京湾内の河口部や、湘南、房総方面の砂浜とは、あまりにも状況が違うのである。
 ルアーフィッシングをはじめたのは、学生時代。
 友人に河口湖へ誘われたのがきっかけで、バスフィッシングを覚え、釣行を重ねるうちにより大きな魚が釣れるシーバスフィッシングに興味を持つようになった。
 はじめてみると、すぐに夢中になった。
 50~70センチのシーバスがよく釣れた。
 とりわけ夢中になったのは、トップウォーターゲーム。
 7~9センチのフローティングペンシルを街灯に照らされた運河や河口で泳がせると、活性の高いシーバスがドバッと、もんどり打って飛び出してくる。
 その衝撃がたまらなく面白い。
 仕事帰りにちょいとロッドを振り、87センチの大物が釣れてしまったこともあった。
 でっぷり太ったその魚体は、優に6キロ以上あっただろう。バスフィッシングでは、決して出会うことのない大きな魚だ。
 その大物がきっかけとなって、釣行回数がますます増えた。タックルボックスの中身が増え、バス釣りで使っていたボックスではルアーが入り切らなくなり、ロッドやリールのグレードも次第にアップしていった。
 やがて、釣り雑誌を読んだりテレビの釣り番組を観たりしているうちに、ヒラスズキという魚を釣りたくなった。
 銀色に輝く体高のある魚体が眩しい。広げた尾ビレが大きく、背ビレや胸ビレも誇らしげに張っている。
 そんなヒラスズキの雄姿が、脳裏に焼き付いて離れなくなってしまったのである。
 とはいえ、磯での釣りなど未経験の自分が、いきなりヒラスズキ釣りに挑むことなどできるハズがない。
 それは、例えてみれば、夏山を何度かかじった程度のトレッカーが、いきなり3000メートル超の厳冬期登山に単独で挑むような無謀さであるに違いない。
 ヒラスズキは釣りたいけれど、実践に移せない。
 そんな悶々とした日々を送っていた正木に、
「今度の土曜日に伊豆半島へヒラスズキを釣りに行こうとおもっているんだけど、相棒がいないから付き合ってくれないか」
 と、稲本が持ちかけたのだった。
「えっ、本当に? いくいく」
 正木は二つ返事で答えた。
 2人は、部署こそ違うものの同じ会社に勤める同僚で、ともに会社の釣りサークルに所属している。
 サークルの釣行会で知り合い、お互いメインにしている釣りがシーバスフィッシングと分かって以来、誘いあって東京湾のシーバス船に出かけたりしていた。
 稲本明、39歳。
 正木亮太、37歳。
 2歳違いの先輩後輩であるが、釣りに出かけたときは、釣り仲間として同等の関係だった。
「だけど俺、まだ1度もヒラスズキ釣りをやったことがないんだけど大丈夫かなぁ。行きたい気持ちはものすごく強いけど、実際に磯へ行くとなるとちょっぴり心配だなぁ」
 稲本の誘いを即座に受け入れたものの、不安がないわけではない。
 正木自身、ヒラスズキ釣りはもとより、磯釣りにさえ行ったことがないのだ。
「なぁに、大丈夫だよ。装備さえしっかりしていれば、それほど危険なことはないさ。大事なのは、スパイクとライジャケ。ライジャケは、フロート材の入った磯釣り用のヤツじゃなきゃダメだよ。膨張式はじゃまにならなくて使いやすいけど、イザという時に膨らまなかったり、岩やフジツボに引っ掛かったらひとたまりもなく破けてしまうからね」
 稲本は、かつて自分が初めてヒラスズキ釣りに連れていってもらった際に、先輩から受けた説明をおもいだしながら明るく言った。
 さらに、
「自分が怖いと感じたら、無理に磯際に出なければいい。怖いと感じたところが、自分にとっての限界なんだ」
 と、これもまた先輩に言われたことをそのまま告げた。
話しているうちに正木の不安は薄れ、その日のうちに週末の釣行が決まった。

◇      ◇     ◇

 稲本と正木は午前2時に都内を出発し、稲本の運転で伊豆半島へ向かった。
 東名高速道路の厚木インターチェンジから小田原厚木バイパスへ入り、早川出口でR135に合流。そのまま真鶴道路を経て東伊豆の海岸線を南下してゆく。
 海岸線で砕けた波が白く見えるのは、波っ気がある証拠だ。
昨日、関東南岸を小さな低気圧が通過した。その際に発生したうねりがまだ残っているのだろう。
 前夜の気象予報によれば、西高東低の冬型が徐々に強まってゆくらしい。
となれば、日中は西寄りの風が強くなる。
 予報では、伊豆半島の海沿いでは、10メートル以上の強さになるとのことであった。
 通常、南西の風が強くなるのは午前10時過ぎである場合が多い。風が強くなるまでの間に、存分に楽しみたいところだ。
 目指したのは、伊豆半島南端に位置する石廊崎の地磯。
 R135は、下田市内を通過するあたりでR136に変る。青野川を渡り、小稲港、下流港、大瀬港、本瀬港を左手に見ながら海岸線を走る。
 トンネル手前を左にそれると、すぐに石廊崎の船着き場がある長津呂湾に行き着く。湾奥の有料駐車場に車を止め、そこからは徒歩で釣り場へ向かうことになる。
 2人は、アユ釣り用のウェットタイツに磯釣り用のスパイクシューズを履き、レインスーツの上からフロートタイプのライフジャケットを着ていた。
ライフジャケットは、ルアーフィッシング用に作られたもので、磯釣り用に比べるとポケットが大きく、ルアーボックスが納められるようになっている。
 釣り場移動の多いヒラスズキ釣りでは、ルアーはもとより、ショックリーダーや交換フックなど一切合財を、身につけておきたいのである。従って、大型ポケットのあるライフジャケットは実にありがたい。
 腰下をアユ釣り用のウェットタイツにしたのは、歩きやすさと安全性を考えてのこと。泳ぐこともできる装備なら、万が一海に転落した場合でも、岸に這いあがりやすいだろうと考えたのだ……。
 準備が整うと、車のハッチバックをバタンと閉め、タックルと玉網を手に遊歩道へ向かう。車のキーは、防水袋に入れ、ライフジャケットの内ポケットに仕舞い込んだ。
 遊歩道をしばらくのぼり、舗装路に出たところで右方向へ向かう。10分ほど歩いたところで、旧ジャングルパークの入り口付近から藪中につづく磯道に突入する。おそらく、かつては遊歩道であったろう比較的しっかりした山道だ。
「入り口が分かりづらいんだなぁ」
 覆い被さる枝を右手でかき分けながら、正木が言った。
「最近は、釣り人しか通っていないだろうからね」
 稲本は手にした小枝でクモの巣を払いつつ、足早に歩を進めた。
くだりつつ、歩くこと15分ほどで山道から磯に出る。その正面にある磯が、目指す「ナライオモテ」の地磯だ。
 伊豆半島南端近くという地理的要因も大きいのだろう、地磯とはいえ潮通しがすこぶるよく、釣れる魚の種類も魚影も沖磯に決してひけを取らない。
 対象魚をざっと挙げてみると、ヒラスズキの他、マダイ、イシダイ、ブダイ、メジナ、モロコ(クエ)、イサキ、サバ、ワラサ、シイラなどなど。おそらく伊豆半島で釣ることのできるすべての魚が釣れる釣り場といってよい。
 ヒラスズキの魚影もすこぶる濃い。
型も数も、過去の実績は抜群である。
 以前、この磯へ稲本を連れてきてくれた先輩釣り師は、8キロオーバーを頭に、6キロオーバーの大型を数多く仕留めていると教えてくれた。
 8キロのヒラスズキとなれば、90センチ以上、6キロサイズでも、間違いなく80センチ以上はある。
 憧れのランカーサイズ。
 期待を胸に、2人は今、伊豆半島屈指の一級磯にやってきたのだ。

◇      ◇     ◇

「それじゃあ、釣りにならなかったら早々に引き揚げることにして、とりあえずやってみることにしよう」
 若干および腰だった正木が、海を見つめたまま意を決したように言った。
「よし、そうこなくっちゃ。早速釣り場に出よう」
 待ってましたとばかりに、稲本が歩き出す。
 山道からつづく高さのある磯を20メートルほど進み、急傾斜の岩場をくだった先に釣り場がある。
 高低差は、約5メートル。その高い位置から釣り場を覗くと、時折、心臓を打ち破るような響きとともに、大波が磯をのみ込んでいる……。
「どうする?」
 再び不安に襲われたのか、正木が聞いた。
「確かにかなり危険な状態だなぁ」
 大荒れの海を目の当たりにして、それまで強気一点張りだった稲本もさすがにひるんだ。
 それでも、
「問題は足場だな。サラシとしては申し分ない。ヒラスズキにとってみれば、荒れすぎなんていうことは絶対ない。荒れれば荒れるほど活性が高くなる魚なんだ」
 と、すぐにまた、闘志をかき立てはじめたのだった。
「とにかく、できるだけ後ろからキャストをすることにしよう。こうなると、11フィートロッドはあまりにも短すぎる感じだな」
 稲本のやる気に引きずられるように、正木の気持ちも徐々に高ぶっていった。
 高い位置から波の周期を計っていると、20~30回に1度の割合で大波がくる。
 さらに、1度くると、3~4回大波がつづくことも概ね分かった。
 1度目の波がドドーッと寄せ、引いてゆく際に海面が下がり、その下がった分が次の波をさらに大きくする……。
 大波と大波の狭間に磯へおりてルアーをキャストし、リトリーブをしなければならない……。
 見ている前で、大波が3度つづけて磯をのみ込み、4つ目の波が小さくなったところで2人は素早く水際に出て、ロッドを振り抜いた。
 目の前の海には分厚いサラシが広がっている。
 正面に点在する根の左側を稲本がねらい、右側を正木が攻めた。
 ルアーはともに、14センチのフローティングミノー。
 東から西へ流れる速い上り潮がリトリーブの際の抵抗となって、ハンドルを回す手にのしかかってくる。
 分厚いサラシと速い流れ。これにベイトフィッシュの存在が確認できれば条件としてはパーフェクトなのだが、残念ながらこの荒れた海で、ベイトフィッシュの姿を確認することはできない。
「きた!」
 正木が、いきなり大声を張りあげた。
 見ると、11フィートロッドが大きくしなっている。
 釣りを開始してわずか3投目。
 30メートルほど先で頭を出している根の右横をルアーがすり抜けようとした瞬間、正木のロッドを持つ右手にゴゴンと衝撃が伝わってきたのだった。
 水中でルアーを捕らえたヒラスズキが水面でギラリと反転し、大きな尾ビレで水面をバサッと叩いた。
その尾ビレがうちわのように大きく見えた。
「でかい」
正木はすでにノドがカラカラだった。
「どうしたらいいんだろう」
 正木は、ロッドを持ちこたえているのが精いっぱいで、何一つ成す術がおもい浮かばない。
 釣行前には、「ヒラスズキがヒットしたらああしよう」「根に向かったらこうしよう」「エラアライでルアーを外されそうになったら、ロッドを横に寝かしてジャンプを防ごう」などとあれこれ考えていたのだが、ヒラスズキがヒットした瞬間、頭の中からすべてが消えた。いわゆる“頭の中が真っ白”になってしまったのだ。
 ラインは、分厚いサラシの中に突き刺さっている。
 その先でヒラスズキが、時折、頭を振るようにゴンゴンとロッドを震わせながらさらに深く潜り込もうとする。
 その先にあるのは、沈み根。回り込まれたらラインが根ズレをおこして一巻の終わりだ。張り詰めたPEラインは、根ズレには極めて弱いのである。
 正木は必死になってロッドを握りしめ、堪える。
正木の視界に映っているのは、ヒラスズキが泳いでいるであろうあたりのサラシと、点在する根。
 タックルを持ったまま駆け寄った稲本がふと沖合に目をやると、100メートルほど先の海面が盛りあがり、大うねりが押し寄せようとしていた。
「あっ! でかい波がくるゾ」
 大声で叫んだものの、必死の形相でロッドを握る正木の耳には届かない。
 ファイト中の正木を置き去りにして、自分だけが逃げるわけにはいかない。ましてや、ヒラスズキ釣り未経験の彼を磯に誘ったのは自分なのだ。
 数秒後には、目の前の海面がスーッと一気に低くなった。
 次にくるのは、落差分の海水を取り込んだ大波……。
「危ない! 逃げよう」
 言い終わらぬうちに大波が押し寄せてきた。
 2人の腰上まで盛りあがった水面が、ザザーッと一気に磯を駆けあがる。両足を踏ん張って、どうにか流されずに堪えた。周囲の磯は、すべて水面下に消えた。
 押し寄せた波が引いてゆく際の海面の下がり方は、さらに大きかった。
「まずい。次はもっとデカイのがくるぞ」
 想像はできたものの、逃げることができない。
 いったん磯に這いあがった波が、海へ流れ戻る際の抵抗は凄まじかった。流れに引きずり込まれぬよう堪えているのが精いっぱいで、安全な場所へ駆けあがることができないのだ。
 そこへ、第2の大波が容赦なく襲いかかってきた。
「あっ!」
 正木の短い叫びが聞こえた。
 ほぼ同時に稲本の体はふわりと浮き、何が何だかわからぬまま海に引きずり込まれた。すぐに、大波にのみ込まれたのだと分かったものの、不思議と恐怖は感じなかった。
 何度かサラシにもまれ、海水をしこたま飲んだ。
 人はこうやって死んでゆくんだろうなぁ、と、なぜか冷静に、恐怖を感じることもなくおもったのであった。
 波が落ち着いたところで、磯に向かって泳ぎ出す。磯にどうやって這い上がろうかと考えているところへ、運よく、大きめの波がきて体ごと磯に運びあげられた。
 再び引き波にさらわれぬよう両手で岩をしっかり掴んだまま、周囲を見渡し正木の姿を探していると、「オーイ」という聞き覚えのある声が耳に届いた。声のした方向に目をやると、こんもり盛りあがった岩の向こう側に、ロッドを持ったまま両手を大きく振る正木の姿があった。
「オーイ、大丈夫かーっ」
 あらん限りの声を張りあげながら、立ちあがろうとした稲本の左足が、ズキンと痛んだ。
 見ると、痛みが走ったあたりのウェットタイツが派手に破れている。ヌルッとした感触は、おそらく出血によるものだろう。痛む足を引きずりながら、正木のところへゆくと、こわばった顔はしているものの、大事にはいたっていない様子だった。
「大丈夫か?」
「ああ、奇跡的に無傷だった。そっちは?」
「ちょっと左足を痛めたようだけど、大したことはない。それにしても危なかったな」
「いきなり波に持っていかれたからね。何が何だか分からないうちに、気づいたらそこのワンドに打ち寄せられていたので、波の合間を見て何とか這いあがることができたんだ」
「ロッドが、折れた?」
 正木が手にしていたロッドを見ながら稲本が言った。
「ああ。磯に這いあがったら目の前にコイツが転がっていて、拾い上げたらご覧のとおりさ」
 ロッドは、バットの中間あたりでポッキリ折れ、リールは、ハンドルとベールアームが無くなっていた。
「ということは、ヒラスズキもいなくなったってことか……」
 遠くの1点を見つめるように稲本が言った。
「デカかったなぁ」
 ポツリと言った正木の表情は、意外に晴れやかだった。
 そして、
「ヒラスズキ釣りを甘く見ちゃあいけないってことだね」
 と、自分にいい聞かせるように小さくつぶやいた。
「『九死に一生』っていうのはこういうことをいうんだろうな。今日のところは、生きていたことに感謝して撤退することにしよう」
「稲本さん、足は……」
「ああ、何とか大丈夫だ」
 2人はずぶ濡れのまま、振り返ることもなく山道を歩きだした。

舞台となっているのは、実際の釣り場。釣り場紹介と小説が合体した、新しいジャンルの「釣り小説」です。お楽しみください。