潮騒の詩(うた) 第2話 伊豆半島のヒラスズキ編<爪木崎・たかん場>

3 うねりが徐々に大きくなる

「さて次はどこにする? オマエはまだ1尾も釣っていないんだから、好きな釣り場を選んでいいぞ」
 夜明け直後から北川のゴロタ場と熱川の高磯(穴切の磯)を攻め、すでに3尾のヒラスズキをキャッチした小太郎が、落ち着いた口調で竜司に問いかける。
「そうですねぇ。この状況ならどこもよさそうですし、迷いますねぇ」

◇     ◇     ◇

 小太郎と竜司がねらっているのは、ヒラスズキ。
 西から近づいてくる低気圧の影響でナライが吹き、徐々にうねりが大きくなってきている。
 潮回りは、大潮後の中潮2日目。
 伊東港における満潮時刻は午前7時21分と午後5時46分。干潮時刻は、午前0時24分と午後0時31分。ナライの風、8メートル。
「須崎半島の『たかん場』なんかいいんじゃないですか。あそこなら風がまともに当たっているでしょうし、当然、サラシも広がっているハズです」
「ああ、確かに『たかん場』はいいかもしれないな。条件はバッチリ整っているだろう。問題は、ベイトフィッシュがいるかどうかってところだな」
 畠山小太郎、42歳……、大手釣り具メーカーと契約を結ぶプロ釣り師。釣りのジャーナリストとしても活躍している。
 松本竜司、24歳……、この春大学を卒業し、水泳のインストラクターをしながらプロ釣り師を目指して修行中。2年間の浪人時代も、受験勉強そっちのけで日本中を釣り歩いていたほどの釣りキチである。大学では趣味が高じて魚類学を学んだ。
「そういえば去年の今頃、小太郎さんと『たかん場』にでかけてヒラスズキの入れ食いに遭遇したことがありましたよねぇ。凄かったなぁ。あの時は確か、干潮から上げはじめのタイミングでした。今日は、逆の下げ潮を釣ることになりますから、そこがちょっぴり気がかりですね」
「おいおい、オマエの歳でそんなことを気にしていちゃあいけないぜ。過去のデータに頼って釣りをするなんてやめた方がいい。自然っていうのは人間が考えるほど単純じゃない。海の釣りには、いつだって無限大の可能性が秘められている。あの日の竜司と俺は、日々刻々と変化する大自然の中の、ほんの一瞬を垣間見ただけにすぎないんだ」
「どういうことでしょう、詳しく教えて下さい」
「一度イイ思いをすると、釣り人は同じ場所へ、同じ状況の時にでかけたくなるってことだ。しかし、そこには大きな落とし穴がある」
「どんな落とし穴ですか?」
「イイ釣りをしたからといって、必ずしもそれが最高だったのかどうかは分からない。ひょっとすると、いや、おそらくもっともっといい日があるに違いない。過去のデータに頼れば失敗は少なくなるかもしれないが、別の、もっと大きな可能性を逃してしまうことにもなりかねない。先入観を捨て去って、とにかく現場にでかけてみることが重要ってことさ」
「なるほど。よく分かりました。肝に銘じておきます。では『たかん場』へ行きましょう、お願いします」
 
4 須崎半島「たかん場」へ

時刻は、午前9時。風は徐々に強さを増し、次第にうねりが大きくなってきている。
海岸線は真っ白いサラシに包まれ、時折、磯に打ちつけた波が激しく砕け、高く跳ねあがっている。イシダイやメジナ目当ての磯釣り師から見れば、すでに時化模様で竿を出せる状況ではないのだが、ヒラスズキをねらうには、むしろ好都合だ。ヒラスズキは、海が荒れれば荒れるほど活性が高くなり、ルアーで釣りやすくなる一風変わった魚なのだ。
「ところで竜司、今日の釣りのレポートをどこかの雑誌社に投稿するのか?」
「はい、知り合いの編集者にお願いしてみようとおもっています。自分も釣果をあげて、いい写真が撮れたらってところですが」
「釣りをいずれ仕事にしようとおもっているなら、そういったことはこまめにやった方がいい。とにかく記事や写真を頻繁に載せてもらって、多くの人たちに顔と名前を覚えてもらわなくちゃあぁ話にならないからな」
小太郎自身も、雑誌や新聞に釣りの記事を書くことを生業の一つとしているが、今では自ら売り込んだり、一方的に投稿したりといったことはしていない。
編集者やカメラマンを伴って現場へでかけ、それを小太郎自身がレポートするといったケースがほとんどなのだ。
「小太郎さんの原稿料って、かなり高いって噂ですよねぇ」
「そうだなぁ、十分満足できる額を出してもらっているなぁ」
「ぼくなんか、何日もかけて一生懸命書いても、支払われる原稿料はスズメの涙ほどです」
「そりゃあ仕方ないだろう。それより何より、オマエはまだ、釣りも、原稿を書くのも修行中の身だってことを忘れちゃぁいけない。勉強している最中のオマエに原稿料を出してくれるなんて、ありがたい話じゃないか。感謝しなくちゃぁいけない」
「小太郎さんにもそんな時代があったんですか?」
「もちろんあったさ。当然だろう」
 好きなことや趣味を仕事にして生計を立てたいとおもっている人は、世の中にたくさんいる。そんな人たちから見れば、それぞれのプロは輝いて見える。
竜司もまた、小太郎のように釣りを職業として生きてゆきたいと望んでいるのだ。
「小太郎さん。最初はどんな風だったのか聞かせてください。お願いします」
「そうだなぁ。学生時代に、釣り専門の新聞に投稿したのがきっかけだった。釣りを仕事にしようなんて考えていたわけではなく、ほんの軽い気持ちだった」
小太郎はハンドルを握りながら前方をじっと見つめ、当時の記憶を探るような感じでしゃべりはじめた。
「当時の俺は、文章を書くのが大の苦手だった。おもったことや考えていることを文章で表現するなんてできっこないとおもっていた」
「ええーっ、信じられないなぁ。文章を書くのが苦手だったなんて」
「まあ、書き手は編集者に育てられるってことさ。編集者が俺の原稿を赤ペンで添削して送り返してくれたんだ。それからしばらくの間は、その添削された原稿がお手本だった。簡単な釣行記ばかりだったけど、なんだか面白くなってきて、釣りへ行くたびにせっせと書いた」
「釣りへ行くたびにですか」
「そう、写真を撮って、とにかく毎回書いた。そのうち、写真を撮ることにも興味がわいてきた。確か、原稿料は1文字につき1円で、写真は100円だった。それでも、釣りでお金をもらったのはこのときがはじめてだったから、書いた記事が掲載された新聞を見てもの凄く嬉しかったのを覚えているよ」
「1文字1円ってことは、400字詰めの原稿用紙にびっしり書いて、400円ってことですか……」
「そう。でも、原稿料が安いって感覚は全くなかったな。とにかく、釣りでお金が稼げるのを意識したのはこの頃だった。原稿料が安くったって早く書けるように練習して、たくさん投稿すれば何とかなるんじゃないかっておもうようになった。元々、慢性金欠病の学生だったから少しでもお金がもらえるっていうのは貴重なことだったんだ」
小太郎が熱く語っているうちに、車は河津川を渡り、大きく左に曲がった。
河津川の河口周辺は昔から多くのルアーフィッシャーマンに攻められてきた場所で、小太郎自身も何度ここで夜明けを迎えたかしれない。初期のヒラスズキ釣りは夜釣りが基本だったため、足場のよい河口部をねらうことが多かったのだ。
小太郎が好んで攻めたのは、河口の右岸に続くゴロタ海岸。ゴロタとはいっても、大川や北川海岸とは異なり、一つ一つの石がかなり大きい。

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舞台となっているのは、実際の釣り場。釣り場紹介と小説が合体した、新しいジャンルの「釣り小説」です。お楽しみください。