潮騒の詩(うた) 第5話 伊豆半島のワラサと投げシロギス<モズガネ・宇佐美海岸>
8 魚の動きを自由に操る釣り師
「この魚はどうする?」
「えっ?」
「リリースするかキープするか、どっちを選ぶか?ってことだ」
松本竜司の釣りあげた、優に5キロ以上はあろうかというヒラマサを前に、師匠格の畠山小太郎が聞いた。
今、その魚は磯の上で静かに横たわっている。
リリースするなら、できるだけ早く、魚が少しでも元気なうちに海に帰してやらなければならない。
キープするなら、おいしく食べるために、エラを切って血抜きをした方がよい。
どちらにするかは、その魚を釣りあげた本人が決めることなのだ。
◇ ◇ ◇
ルアーフィッシャーマンの間では、キャッチした(釣りあげた)魚をリリースする(再び海に帰す)人が圧倒的に多い。
食べるために魚を釣るのではなく、釣りそのものを楽しむ<スポーツ・フィッシング>の精神に基づいてのことだ。
海外では、キープできる魚の種類やサイズが細かく決められていたり、釣りあげた全ての魚をリリースしなければならないといったルールが制定されているケースが少なくない。
そうなれば、釣りあげた魚の処遇はルールに基づいて決めればよいことになるが、海の魚に関して何ら規制のない日本国内においては、あくまで釣り人本人の意思をもって、キープかリリースかを決めることになるのだ。
◇ ◇ ◇
「どうする?」
「もちろん、リリースします」
「初ヒラマサなのに、いいのか?」
「初ヒラマサだからこそ逃がしてやりたいんです。記念すべき魚が悠々と海の中を泳いでいるのを時に想像してみるのも嬉しいものです。写真も撮ったことですし、ダメージの少ないうちに逃がしてやりましょう」
そう言うや竜司はヒラマサを再び玉網に入れ、そっと海まで下ろし、自力で網の中から泳ぎだすのをじっと待った。
「どうだ、大丈夫そうか?」
その様子を覗き込むようにしながら小太郎が言った。
「はい。結構元気です。もう少しこうしていれば、おそらく自力で網から出てゆくとおもいます。
そう言いながら竜司は、ヒラマサを愛おしそうに眺めている。
その言葉どおり、数分もしないうちに元気を取り戻したヒラマサは、身震いするように体をくねらせながら海の中へ泳いでいった。
「オーケー、完璧だな。おめでとう」
小太郎が竜司の前に右手を差し出した。
竜司はその手を両手で挟み込むように握りしめ、上下に軽く揺すりながら、「ありがとうございます」と頭を下げた。
◇ ◇ ◇
11月中旬。城が崎海岸の地磯、「モズガネ」。
時刻は午前6時半。
ベタナギ。
気が付けば水平線の上には、オレンジ色の大きな太陽が昇っていた。
夜明けに小太郎が4キロほどのワラサをキャッチ・アンド・リリース。そして、今しがた、竜司が推定5キロオーバーのヒラマサをキャッチ・アンド・リリースしたところだった。
「さて、もう一丁いくか」
12フィートロッドを手に、小太郎が磯際に立つ。
ルアーは、開始早々ワラサを釣りあげた『ドラドスライダー14F』ピンクバックのままだ。
ラインは、PE1.2号。
ショックリーダーは、フロロカーボン40ポンドテスト。
太陽がすっかり昇ると途端にアタリが遠のいてしまうのは、日の出とともに魚たちが沖合の深みへ潜り込んでしまうからなのかもしれない。
理由はともあれ、時合が朝マヅメの一時であるのは間違いない。
そしてその時合はすでに過ぎつつある。
「いやぁ、何とかしてもう1尾釣りたいものだなぁ。頼む、食ってくれ」
懇願するように小太郎が言った。
数100メートル沖合に、トリヤマが立っている。魚たちの群れが、すっかり沖に出てしまったということなのか。
届くハズのないトリヤマに向けて何度もキャストをおこない、ドッグウォーキングでルアーを泳がせる。
右、左、右と規則正しく首を振るルアーの下に、果たしてワラサやヒラマサはいるのだろうか。
キャストを繰り返してみるものの、反応はない。
東の空は、夜明け特有の柔らかなオレンジ色から徐々に、抜けるような青に変わってゆく。
“ 日本一諦めの悪い男”と称される小太郎をして、もはやこれまでか、と諦めかけた矢先だった。
ルアーの後ろがほんの少し、モヤッと盛りあがる。
「おやっ」とおもった小太郎が、ルアーを凝視しながら、丁寧にドッグウォークをつづける。
「何かが追っているようだなぁ」
「チェイスですか?」
竜司が小太郎のルアーに目をやる。
ルアーが遠くにある間はロッドを立て気味に構え、近づくほど寝かせてゆくのがトップウォータープラグを上手に操るコツだ。
小太郎のロッドが水平からやや下向きになりかけた時、突然、ガボッという音とともに水しぶきがあがった。
水中で銀色の魚体がギラリと反転し、ルアーを水中に引き込む。
竜司の口から「あっ」という声が出た時にはもう、小太郎はロッドを強く跳ねあげ、合わせていた。
ロッドが大きくしなり、スプールが逆転し、ラインが引き出される。
未明に釣りあげたワラサ同様、今度の魚も潮上となる左方向へ走った。
左方向には大きな沈み根がある。その沈み根の下に潜り込まれたり、根にラインが触れたりすれば、一巻の終わりだ。
それを見て竜司は、ゴクンとつばを飲み込んだ。
1尾目のワラサとファイトをしている最中、小太郎は、魚が左の根に向かった際、ロッドを左方向へ倒し、わざわざ沈み根の方へ引いてゆくような動作をした。
ところが、ワラサは沈み根の下に逃げ込むどころかクルリと向きを変え、右方向へ泳ぎだしたのだった。
果たして、今度も同じようなことが起こるのだろうか。
魚は、1尾目同様、左にある沈み根の方へ向かっている。
小太郎は、「そっちはダメなんだよう」とつぶやくように言ってから、予想していたとおり、素早く磯の左端へ移動してロッドを左方向へ倒し、あたかも沈み根の方へ誘導するかのような操作をした。
「やっぱり、さっきと同じだ」
竜司は心の中で呟いてから、さらなる展開を見守ることにした。
小太郎は、ロッドを左方向に寝かせたまま、動かない。
ロッドは、躍動することもなく、緩いカーブを描いたままだ。
一進一退の攻防がつづく。
やがて、魚が右方向へ向きを変えゆっくり泳ぎはじめる。
「あっ」
声をあげた竜司は、再びゴクンとつばを飲み込んだ。
「やっぱりだ。小太郎さんは、魚の泳ぐ方向までコントロールすることができるんだ」
目の前で展開された小太郎のヤリトリは、竜司の目には、魔法のように見えた。
そして、どうやったらあんなことができるのだろうと、ぼんやり考えた。
プロの釣り師を目指してはいるものの、小太郎の技術を目の当たりにすると、道は果てしなく遠いようにおもわれる。
果たして、自分もそんなことができるようになれるのだろうか……という、言いようのない不安が重くのしかかってくる。
「竜司、ぼんやりしていないで玉網を出してすくってくれ。フックが1本しか掛かっていなくて今にも外れそうだ」
「あっ、スミマセン。すぐにすくいます」
我に返った竜司が、玉網を手に磯際へ出る。
他のフックが網に掛からないよう注意しながらすくい、柄を縮めるようにして慎重に引きあげた。
魚は、3キロほどのワラサだった。
「よしよし。これで俺がワラサを2尾、竜司がヒラマサを1尾、2人で3尾釣れたのだから上出来だな」
小太郎は満足そうに言った。
「『奄美屋』での話は本当だったんですね」
一昨日の夜「奄美屋」で小太郎が話していたことをおもいだしながら、竜司が言った。
「オイオイ、竜司まで俺の話を信用していなかったのか」
小太郎が言った。
「いえ、そんなことはありません。ただちょっと……。そう、『奄美屋』の川田マスターがあまりにも『信用するな』と繰り返し言うものですから、ついつい、確かにそんなに簡単にワラサやヒラマサが釣れるハズはない、と。小太郎さんはともかく、僕にはたぶん釣れないだろうとおもっていました」
2尾目のワラサをポーンと頭から海へ放り込んでリリース。
「さて、太陽もすっかりあがったことだし、今日のところはこれまでとするか」
大きく伸びをしながら、清々しい表情で小太郎が言った。
「分かりました。今日はもう十分です」
うなずきながら竜司が言った。
2人は荷物をまとめ、遊歩道を歩いて駐車場へ向かう。
「ふーっ。歩くのは疲れるが、今日みたいに釣果があがると疲れも心地よく感じられるなぁ」
荷物を置き、スパイクブーツを脱いだところで、小太郎が言った。
ランドクルーザーの荷室に荷物を積み込み、ハッチバックのドアをバタンと閉める。
そして、運転席のドアを開け、滑り込むようにシートに座りエンジンをかける。
10年以上釣行を共にしている「ランドクルーザー100」の走行距離は、すでに30万キロを超えている。それでもエンジンはすこぶる快調で、故障することもない。まだまだ元気だ。
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舞台となっているのは、実際の釣り場。釣り場紹介と小説が合体した、新しいジャンルの「釣り小説」です。お楽しみください。