潮騒の詩(うた) 第10話 伊豆半島のヒラスズキ<吉田大根>

16 老釣り師とタタキ釣り

「竜司、来ていたのか」
「小太郎さん、お先にはじめさせてもらってます」
 午後6時。
「奄美屋」の店内には、まだ他の客はきていない。
 カウンター席の右端に座った松本竜司が1人、アジの刺身を肴に黒糖焼酎を飲んでいるだけだった。
 隣の席に畠山小太郎が腰を下ろす。
「どうします?」
 マスターの川田良平が聞いた。
「生ビールを頼む」
「分かりました」
 冷蔵庫から冷えたジョッキを取り出し、生ビールを注いでカウンター越しに手渡す。
 小太郎は、ジョッキを竜司のグラスにカチンと合わせ、「お疲れ」と言って半分ほどを一気に喉に流し込んだ。
「マイワシが入っていますけど、食べますか?」
 川田が小太郎に聞いた。
「嬉しいねぇ。ぜひ頼む」
 釣りを職業として日本中を駆けめぐっている小太郎は、日頃から各地で新鮮な魚介類を口にしている。
 その時期ならではの、旬の魚の味ときたら格別で、いくら流通が進化したとはいえ、本当の獲れたての味は、産地でなければ味わうことができない。
 ホタテの貝柱がシャキシャキと硬いことや、サンマの内臓がしっかり取り出せることを知る人は、意外と少ないのが現実なのである。
そうして、ありとあらゆる旨い魚を食してきた小太郎の好物が、意外にもマイワシであることを川田はよく知っているのだ。
正確に言えば、マイワシ、サンマ、アジ、サバ。
上品な店で少量をつまむのではなく、地元の人が気軽に出入りするような大衆店で、値段を気にせず大量にほおばるのが好きなのだ。
2杯目の生ビールを注文したところで小太郎が竜司に言った。
「今日は亜樹ちゃんとデートをする予定じゃあなかったのか?」
 3日前の夜、一緒にシーバスフィッシングに出かけた際、金曜の夜はデートの約束をしているからその日は釣りには行けない、と照れながら言っていたのをおもい出したのだ。
 竜司は無言のまま、グラスに残っていたお湯割りを一気に飲み干し、黒糖焼酎のボトルを開け、新たにお湯割りを作った。
「小太郎さんも早く焼酎にしましょうよ」
 質問には答えず、寂しそうな目を小太郎に向けた。
「それがねぇ、竜司さんは亜樹ちゃんと喧嘩しちゃったみたいなんですよ」
 中皿に盛りつけたマイワシの刺身を2人の間に置きながら、川田が竜司に代わって言った。
「喧嘩? そうか、どうりで元気がないとおもったよ」
 小太郎はニヤリと笑ってから、川田に手渡されたジョッキを傾け、なみなみ注がれた生ビールを一気に飲み干した。
「竜司、俺にもお湯割りを作ってくれ」
「ハイ」
 グラスに半分ほどお湯を入れ、後から黒糖焼酎を同量注いで小太郎に手渡す。
「サンキュー」
 手渡されたお湯割りを一口飲んだところで、マイワシの刺身をハシでつまみ、口の中に放り込む。
「やっぱりマイワシは旨いねぇ」
「今年は何年ぶりかの豊漁で、脂の乗ったマイワシが安い値段で手に入るんですよ」
「それは嬉しい話だね。しかし、その割に魚屋さんの店頭に並んでいるのを見かけないなぁ」
「最近は台所で魚をさばく家が少なくなってしまったし、煙がこもるからといって焼くこともしない。結局マイワシを買う客がいなくなっちゃったんでしょうね。サンマやアジにしても、直ぐに食べられる状態にしてやらないとなかなか買ってくれないと、知り合いの魚屋がこぼしていましたから。かといって元々値段の安いマイワシをいちいちさばいて客に渡していたら、手間が掛かって仕方ないってことじゃあないですかね」
「そういうことか。もったいない話だなぁ」
 小太郎はマイワシをつまみ、生姜醤油をつけて口に放り込む。
 グラスを手に取り、お湯割りをグイと飲む。
「竜司、亜樹ちゃんとの喧嘩の原因はなんだ?」
「小太郎さん、聞いて下さいよ。亜樹のヤツったらね、『私と釣りとどっちが大事なの?』なんて聞くんですよ」
「ほほう」
 お湯割りを飲みながら、小太郎が楽しそうに耳を傾ける。
「今度の日曜日にディズニーランドへ行きたいっていうものだから、日曜日は釣りに行く予定が入っているって答えたんですよ。ほら、みんなで東京湾へタチウオのジギングに行くことになっているじゃないですか」
「ああ、そうだったな」
「そうしたら突然『私と釣りとどっちが大事なの?』ってふくれっ面になっちゃったんですよ」
「それで、竜司はどう答えたんだ」
「どう答えたらよいか、ちょっと考えていたら亜樹のヤツが、『考えなくちゃあ答えられないことなの!』って、怒りだしちゃったんですよ」
「それで、今日のデートもオジャンってわけか」
「そういうことです」
 竜司は、グラスに残っていたお湯割りを一気に飲み干し、新たに、自分のためのお湯割りを作った。
「大体、『どっちが大事なの』なんて聞く方がおかしいんですよ。そうはおもいませんか」
 竜司は、強い口調で一気にまくしたてた。
「亜樹ちゃんもついにそれを口に出したか」
「えっ」
 竜司が、驚いたような顔で小太郎を見た。
「竜司、亜樹ちゃんが口にした『どっちが大事なの』って質問は、カミさんや彼女のいる釣り人なら大概投げつけられたことがあるハズなんだ。竜司のようにとっさの対応をしくじって、しばらくの間、険悪になってしまったっていう話もずいぶん聞いている」
「小太郎さんの奥さんも?」
「ああ、そんなことを聞いてきたことがあったなぁ」
「それで小太郎さんは何て答えたんですか?」
「俺の先輩に大変な釣り好きがいてなぁ、その先輩から予め知恵を授けられていたんだ」
「どんな?」
「『どっちが大事?』って聞かれても、バカ正直に考えちゃあいけない。そんな時はできるだけ速やかに、『おまえと釣りを比べられる訳がないじゃないか』って答えれば相手は納得するものだ、ってね」
「なるほど」
「間違っても、優先順位をつけるなんてことをしちゃあいけない。『オマエだよ』なんて軽はずみに答えたりすれば、その後は釣行予定を優先することができなくなっちまうし、『釣り』って答えればふくれっ面をしてそっぽを向く、ってことになる。そして竜司は、その失敗をやらかした……」
「うわぁ、なんでもっと早く教えておいてくれなかったんですか」
「悪かったなぁ、許してくれ」

          ◇      ◇     ◇

「おいっ、あれを見ろよ」
 小太郎が目で合図をした方向に視線を向けると、遠くの岩場に1人、老齢の釣り人が釣りをしているのが見えた。
 手にしている竿の長さから判断すれば、メジナかクロダイねらいの磯釣り師、ということになるのだろうが、コマセを撒いている様子はない。
メジナやクロダイを釣る場合は、“コマセ”と呼ばれる撒き餌で魚を寄せながら釣りをするのが一般的なのだ。
 しかも、手に持った長い竿を、右に左に振り回しているようにも見える。
 歳をとっていることは確かだが、身のこなしはしっかりしている。
 いや、ただしっかりしているというのではない。
 ドシッと地に足を着けている感じは、普通の釣り人から受けることのないものだ。
「なんか、格好いい釣り師ですね」
 しばらく見惚れるように眺めていた竜司が、口を開いた。

 賀茂郡南伊豆町吉田。
 R136から吉田へつづく舗装路は、海岸に突き当たって途切れるように終わっている。
 休日には観光客がドッと押し寄せる伊豆半島にも、こんなひなびた集落がまだあるのだ。
 小太郎と竜司は、ヒラスズキをねらってここへやってきた。
 双眼鏡を取り出し「吉田大根」を覗いてみると、ほどよいサラシが広がっている。
 その、サラシが広がる磯のやや高い位置に、1人で竿を振っている老齢の釣り師を確認することができたのだ。
「あの釣り師は何をねらっているんだ? とにかく行ってみよう」
 小太郎が竜司を促す。
 ウエットタイツに磯釣り用のスパイクシューズを履き、雨ガッパを羽織ってその上からフローティングベストを着用する。
 ルアーは、潜行深度の異なるいくつかのタイプを透明なプラスチックのケースに納め、フローティングベストの右ポケットに入れる。
 交換用のフックやショックリーダー、プライヤーなどの小物類は左ポケットに納めた。
「竜司、準備はいいか」
「オーケーです。あっ、玉網はどうしますか」
「そうだな、持っていくことにしよう。水辺まで下りられない場所もあるからな」
 竜司が車から取り出したのは、柄の長さが6メートル、玉枠の直径が60センチの磯釣り用。
 ヒラマサやブリといった大物の取り込みを想定して作られたものだ。
 道路からジャリ浜におりて左方向へ歩くとすぐに岩場に突き当たる。そこから20分ほど岩場伝いにゆくと、目指す「吉田大根」に到着する。
 アップダウンがあるわけではないが、大きな岩を乗り越えながらの歩きは意外に疲れるものだ。
「吉田大根」に到着する頃には、小太郎の全身からは汗が噴き出していた。大きな岩に腰をおろし、首にかけていたタオルを手にとって汗を拭う。
「竜司はさすがに身のこなしが軽いな」
 水泳のインストラクターをしている竜司は、日頃から様々なトレーニングをしている。
 ベンチプレスや腹筋運動といった筋力トレーニングはもとより、毎日相当量を泳いでいるため、心肺機能もずば抜けて高いのである。
 そんな、竜司の軽快な歩きに、小太郎はかつての自分を重ね合わせていた……。
 
          ◇      ◇     ◇

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舞台となっているのは、実際の釣り場。釣り場紹介と小説が合体した、新しいジャンルの「釣り小説」です。お楽しみください。