潮騒の詩(うた) 第1話 伊豆半島のヒラスズキ編<北川・ゴロタ場&熱川・高磯(穴切りの磯)>

1 ナライが吹けば、東伊豆はシケになる

「ナライが吹き始めているようだな」
 ハンドルを握りながらチラッと海を見た小太郎が、ニヤリと顔を緩ませつぶやくように言った。
「はい、予想通りです」
助手席で竜司が、相槌を打つように応える。彼の顔もまたニヤけていた。
ナライというのは釣り人や漁師が使う言葉で、北東風のこと。
 昨夜の天気予報によれば、紀伊半島沖で発生した低気圧が発達しながらゆっくり東に進んでいるらしい。太平洋岸では、低気圧が西から近づいてくる際に東寄りの風が吹き、通過すると西寄りの風に変わる。
天気予報を観た小太郎と竜司はナライが吹くことを予想し、昨夜電話で話し合って、急遽この日の釣行を決めたのだった。
11月上旬。
小太郎の愛車「ランドクルーザー100」にタックルを積み込み、伊豆半島の東岸に沿って夜明け間近のR135を南下する。予め行き先を決めるのではなく、走りながら実際の波や風を確認し、条件の良さそうな釣り場を探すのがいつものやり方だった。
「なかなかいい感じのサラシが出始めているじゃないか」
「確かにコンディションはよさそうです。条件は整いつつありますね」
うっすら明けはじめた海に風波が立ち、波頭が所どころ白く崩れている。海岸に打ち寄せた波は激しく砕け、白い泡となって一面に広がっている。
東海岸ではナライが吹けば荒れ気味となり、西風の日はベタナギとなる。真っ白いサラシが広がっているということは、ナライが吹いている証拠なのだ。

◇     ◇     ◇

2人がねらっているのは、ヒラスズキ。
主に磯周りに生息する魚で“磯スズキ”とも呼ばれている。
普通のスズキとの違いは、体高が高いこと、顔が小さくて目が大きいこと、尾ビレが大きく切れ込みが少ないこと、体を覆うウロコがきめ細かいこと。さらに、アゴの下に1列か2列、うっすらと軟らかなウロコがある点も決定的な違いといってよい。
性格は、極めて警戒心が強く、ベタナギの日にはルアーはおろか本物のエサさえ頑として口にしない。そういった理由から、ヒラスズキをねらう釣り人は、警戒心が薄れる荒れ気味の日を選んで出掛けることになるのである。
アベレージサイズは、50センチから70センチ。体重でいえば、1キロから3キロ。さらに、80センチ、5キロといった大型がヒットしてくることも稀ではない。
釣り人たちが目標として掲げているのは、全長1メートル、重さ10キロ以上のランカーサイズだ。

◇     ◇     ◇

畠山小太郎、42歳。
釣り具メーカーと専属契約を結ぶ、日本国内でも数少ないプロ釣り師のひとり。
釣りあげたヒラスズキの数は優に5000尾以上。
それほど多くのヒラスズキを日本中で釣りあげてきた小太郎でさえ、いまだ、1メートル、10キロオーバーのランカーサイズを手にしたことはない。
もっとも、現在の小太郎のスタイルは、躍起になって大物を追うというものではなく、ヒラスズキ釣りそのものを楽しみながら、いつかどこかで憧れのサイズに出会いたい、という、あくまでも自然体を信条としている。
がむしゃらに大物を追い求めるという、ほとばしるような血気は、今の小太郎には微塵も感じられない。年々、落ち着いた釣りスタイルに変わってきているのだ。
それでも、ヒラスズキ釣りにかける執念は人一倍強い。サイズはともあれ、いまなお、ヒラスズキを求めて日本中の海岸をめぐり歩くことに情熱をたぎらせているのである。

◇     ◇     ◇

もちろん、始めからそんな落ち着いた釣りをしていたわけではない。
20代、30代の頃は、ギラギラと目を血走らせ、狂気の釣り師といわれるほどの無鉄砲さで、荒れ狂う磯に挑んでいた。
頭から波を被ることなど気にも留めず、目の前に広がるサラシの中にルアーをキャストすることだけに集中していた。
ウェットスーツに身を包み、点在する沖根まで泳いで行っては立ち泳ぎをしながらサラシにルアーを投げ込み、反応があればすぐさま磯に這いあがって本格的にねらう、などという常識外れの釣りを展開することもしばしばだった。
ある時などは、ヒットしたヒラスズキと戦っている最中に大うねりに襲われ、幸い流されはしなかったものの、ロッドが波の抵抗でボキッと折れてしまったりもした。
積み重ねた経験の数々が、現在の小太郎の落ち着いた釣り姿の土台になっているのは間違いない。
あるひとつの高い壁を乗り越え、別の領域に足を踏み入れた釣り師だけが手に入れることのできる、自然体。それはもはや風格と言ってよい。

車は、熱海ビーチラインを過ぎ、熱海市が白砂を運び込んで造ったサンビーチ前を通過し、熱海港、後楽園ホテルを左手に見ながらいったん山の中に入る。
トンネルを2つ過ぎ、左に見える断崖が錦ヶ浦。かつては飛び降り自殺の名所とまで言われた霊気漂う場所であったが、背の高いフェンスが張りめぐらされてからはすっかり汚名を返上しているようである。その分、景観が台無しになってしまったのは仕方無いことなのかもしれない。
その錦ヶ浦、曽我浦、赤根崎と続く波静かな湾のゴロタ海岸は、国道から下りるのに苦労はするものの、ムラソイやカサゴの魚影がすこぶる濃い。さらに、夜釣りでは、型のよいメバルが顔を出す。
ただし、かつて飛び降り自殺の名所だったことを知る者にとっては、夜釣りなど許容できるハズもなく、従って、訪れる人は極めて少ない。
伊豆多賀、網代、宇佐美を過ぎ、伊東までやってくると、いよいよ気合が漲ってくる。
「やっぱりナライだな」
確認するように小太郎がつぶやく。
「そうですね。北東風で間違いありません」
竜司もまた、自らの予想を確認しているようであった。
「これなら釣り場は東伊豆でいいだろう。まだ波っ気は少ないようだから、ゴロタ場が無難だろうなぁ。どこにする?」
 小太郎が今度ははっきりと、竜司に問いかける。
「東伊豆のゴロタ場っていったら、北川港と大川港の間か、熱川温泉と穴切り海岸との間、南熱川の白田海岸、稲取岬へ向かう途中のゴロタ場のどこかってところでしょうか」
 竜司が、東伊豆にあるゴロタ海岸を思いつくまま口にする。
海を眺めつつ車を走らせながら、あっちの磯はどうだ、こっちのゴロタ場はどうだなどと話している間がこのうえなく楽しいのである。
釣行前夜にタックル準備をしている時のそれは、想像することの喜びであり、現場に向かっている時のそれは、現実が目の前に迫っている期待感である。
「そうだなぁ、北川と大川の間のゴロタ場がいいかもしれないな。あそこなら車を止めてすぐ釣り場に入れるし、波の様子もはっきり確認できる。とりあえずそこから始めてみることにするか。ちょっと目立ちすぎるのが難点だけどな」
 伊東港を過ぎ、川奈方面への分岐を直進方向へ進むと、道はいったん海から離れ、周囲を木々に囲まれる。
 そんな景色が年々減り、その分、24時間営業のコンビニエンスストアが目立つようになったことがちょっぴり寂しい。
「伊豆半島のヒラスズキ探索を始めたころは、コンビニなんて1件もなかったなぁ」
小太郎は当時を懐かしむようにポツリと言った。
そして、
「携帯コンロとヤカンを車に積み込んで、現場でお湯を沸かしてはカップラーメンを食べたり、コーヒーを入れたりしながら、談笑したものだった。そんな時間がまた、格別に楽しかったんだ」
と付け加えた。
赤沢日帰り温泉の大きな看板を過ぎると道は左に大きくカーブし、目の前に赤沢海岸が開ける。鉄色の、いかにも砂鉄をたっぷり含んだ砂浜がほんの少し広がっている。ネコの額ほどの海岸だが夏には海水浴場となり、家族連れで賑わう。
左手に「平島」を見ながらトンネルを抜けると、道は海岸沿いの長い直線となる。
「この下のゴロタ海岸も、アベレージサイズこそ小さいもののヒラスズキの魚影が濃い釣り場なんだ。もう何年も攻めてはいないけど」
「へーっ、こんな所がですか?」
「そう、こんな所が」
釣行を共にすることの多い2人であったが、最近はこのあたりのゴロタ場をすっかり忘れている。なかなか駐車スペースを見つけることができないのが最大の原因である。
車を走らせながら、「ここは?」と気になる場所は多々あるのだが、駐車スペースを見つけることができず、諦めざるを得ないケースが少なくないのだ。
直線道路は、大川港の小さな防波堤を望むあたりで左に曲がり、再びゴロタ海岸が始まったところから直線となる。その直線道路の途中にある、海側の駐車帯に車を滑り込ませる。
「よし、到着。ちょっとサラシが足りないかなぁ」
「若干、波不足のようですね」
車を降り、海を眺めながら2人はそれぞれに状況を観察し、そのひとつひとつを頭の中にインプットしてゆく。
波は? 潮位は? うねりの寄せる間隔は? 
過去の釣行を思い描き、当日の状況を重ね合わせ、この日の戦略を組み立てるのである。
「ルアーは何から使う?」
 小太郎が竜司に聞く。
「えーと、やっぱり『R50』ですかねぇ」
『R50』というのは12センチのフローティングミノー『ショアラインシャイナーR50』のことで、ルアーフィッシャーマンの間ではよく知られた、定番ルアーの一つである。竜司は、そのオーソドックスなフローティングミノーから使いはじめるというのである。
「やっぱりそうか。竜司のことだから手堅くそうくるだろうと思ったよ。それじゃあ俺は、『TDペンシル』で行ってみるとするか」
 小太郎はルアーボックスの中から11センチのトップウォータープラグ、『TDペンシル』を取り出し、ショックリーダーにフリーノットで結びつける。

◇     ◇     ◇

「そっちの準備はいいか」
「オーケーです」
 竜司の準備はすでに整っている。
小太郎は、車のボディに立てかけてあった15フィートロッドを手に持ち、車のバックドアをバタンと閉め、リモコンキーでロックをかける。
海岸への下り口は、駐車帯の伊東寄りの端にある。下り口とはいってもコンクリート造りの階段があるわけではなく、多くの釣り人たちが行き来することによっていつの間にか道のようになった踏み跡である。
若い竜司が先を行き、小太郎が後に続く。数年前までは逆であったが、いつの頃からか竜司が先を歩くようになった。竜司が成長したゆえなのか、それとも小太郎が衰えてきたせいなのかは分からない。ともあれ、現時点では、体力にしても俊敏さにしても、竜司の方が勝っているのは確かなことだ。
そのことをあえて口にしたことはないのだが、2人の関係の中で、両者が暗黙のうちに理解し、認め合っているのである。
「小太郎さん、ロッドを持ちましょうか」
竜司の後を追って海岸へ下りる際、竜司が小太郎を気遣って声をかける。
「よせやい。まだそこまで衰えちゃいないぜ」
2、3度、試すように足元の滑り具合を確認してから、海岸までの数メートルを一気に駆け下りる。
「さあ、どこから攻める?」
小太郎が竜司に先攻を譲る。
「いや、小太郎さんから先にどうぞ」
「それじゃあお言葉に甘えて、正面の根周りから攻めてみることにするか」
道路から海岸に下りたほぼ正面に、大きな岩がある。波っ気のある日には、うねりが岩に当たってはね上がり、釣り人に襲いかかってくるのだが、この日はいたって平穏に釣りを展開することができそうだった。潮位が下がっていることもさることながら、若干、波っ気が乏しいのである。
タックルを大岩の上に置き、両手を使って攀じ登る。上がってしまえば足場はよい。この日の状況ではうねりが乗り越えることはなく、せいぜい、波しぶきと風に襲われるぐらいのものだ。
竜司は、好ポイントを求めて左方向へゴロタ場を歩いて行った。
大岩に立って周囲を見渡すと、正面方向40メートルほど沖にある大きな根の周りが本命ポイントであることは、一目瞭然である。
その根にうねりがぶつかって砕け、白い泡となった状態でザザーッと押し寄せてくる。真っ白いサラシが、目の前に広がっている間がチャンスだ。荒れ気味の日には沖根と足元との間は四六時中真っ白いサラシに包まれているのだが、穏やかな日には、うねりが押し寄せ、一時的にサラシが広がった瞬間をねらい撃ちすることが大切なのである。
15フィートロッドに4000番のスピニングリールをセットし、『TDペンシル』をぶら下げたまま、小太郎は大きなうねりがやってくるのをじっと待った。
ラインは、PE1.2号。ショックリーダーは、フロロカーボン40ポンドテスト。太さに換算すれば、12号である。
しばらく待つと、大きなうねりがやってきた。
1つめのうねりを見送り、2つめのうねりが沖根に到達した瞬間を見逃さずルアーをキャスト。右手の人差し指の腹を軽くラインに当てて出方をコントロールし、沖根の手前ギリギリの地点に着水させる。
この、人差し指によるラインコントロールを「フェザーリング」という。飛距離の微調節をしたい時や、ルアーが着水する前に予めラインスラッグ(糸フケ)を最小限に止めておきたい場合などに役立つ重要なテクニックである。
1つめのうねりを見送ったのは、うねりは2つか3つ、つづけてやってくることが多いと経験上知っていたからだ。
1つめのうねりが押し寄せ一面に真っ白いサラシが広がる。そのサラシが消えぬうちに、2つめのうねりが押し寄せる。サラシの下地が出来たうえにさらにサラシを重ねるのだから、サラシとしてより確実なものになるのは間違いない。
より確実なサラシというのは、サラシ自体に厚みがあることで、いったん真っ白に広がるとなかなか消えることがない状態のこと。
釣り人が落ち着いてルアーを操作できるだけでなく、おそらくヒラスズキも落ち着いてベイトフィッシュ(小魚)を捕食することが出来るに違いないと考えられる。
沖根の際スレスレに着水した『TDペンシル』を、ロッドを軽くあおりながらチョコンチョコンと動かしはじめる。ドッグウォーキングと呼ばれるテクニックで、ロッドを立てたまま、跳ね上げるように短くあおってピタリと止めるのがコツだ。すると『TDペンシル』は、右に左に首を振りながら、スライドするように少し進んで止まる。ステイ(止めてる時間)を長くしたり短くしたり、変化を付けながらその繰り返しでヒラスズキを誘うのが小太郎のいつものやり方なのだ。
そのスローな動きに焦れたのか、3メートルほど引いたところで銀色の魚体がガバッと飛び出した。もんどりうって、という表現が正しいかもしれない。身体全体をあらわにし、水面でギラリと反転し、水しぶきを残したまま水中に消えた。
「ウワッ、出た!」
ヒラスズキが飛び出すことを想定していたにもかかわらず、いきなり出るとは思わなかっただけに不意を突かれた格好となって、思わず声が出てしまった。
全身をあらわにし、ギラリと銀鱗を輝かせ水しぶきを上げながら反転する魚体を目の当たりにすると、キャリアの豊富な釣り人でさえ、ドキッとしてしまうのである。
しかし、残念ながら、ルアーにアタックはしたものの、ボディに装着された2つのトレブルフックには掛からず、そのまま水中に消えてしまった。
「ああーっ、畜生ーっ、掛からなかった。――もう一丁来い!」
反転して水中に消えた残像が、脳裏に強烈に焼き付いていた。
しかし、水中に姿を消したヒラスズキが『TDペンシル』を追尾している可能性はまだある。あるいは、別の個体がバイトするタイミングを計ってルアーを見据えているかもしれない。
淡い期待を抱きながら、そのままドッグウォーキングをつづける。
さらに10メートル。さらに5メートル。
立っている岩と沖根の中間あたりにルアーが差しかかったところで、再びバシャッとヒラスズキが飛び出し、今度はグンッと手元まで感触が伝わってきた。ヒラスズキの口に、うまくフックが刺さったのである
「おおーっ、きたきた」
 今度は冷静に、だれに言うともなくつぶやいた。
ヒラスズキはすぐさま水面に浮上し、大口を開けバシャバシャッと左右に頭を激しく振ってから、再び水中に潜り沖の沈み根に向かってグイグイ泳ぎだした。
口を大きく開け頭を激しく振る動作が、スズキとヒラスズキに共通する“エラアライ”。そのエラアライによって巧みにルアーを外されてしまうことも少なくないのだが、一方で、その派手なファイトがシーバスフィッシングの魅力となっているのも確かなことだ。
15フィートロッドがヒラスズキに引かれ、大きく弧を描く。走らせすぎれば根と根の隙間に潜り込んだきり出てこなくなったり、ラインが岩に擦れて切れてしまいかねない。ロッドの弾力を最大限に利用し、危険な方向への走りは凌がなければならないのである。
「おいおい、どこまで走ろうっていうんだ。もうその辺でいいじゃないか」
旧知のライバルに声をかけるように、小太郎がつぶやく。
「そっちに行ったらラインが根に擦れちまうだろう」
魚の動きを目で追いながら、いなすところはやんわりいなし、止めるところはしっかり堪える。
使用ラインは、PE1.2号。ショックリーダーは、フロロカーボン40ポンドテスト。
硬めのロッドでグイグイ寄せてしまう強引ファイトを信条とする釣り人から見れば、随分細いラインを使っているように感じられるのだろうが、ロングロッドを操りながら魚の動きに合わせ、柔軟に戦うのが小太郎流なのである。
3分ほどで近くに寄ってきたヒラスズキが、うねりの返し波に乗って再び沖に出る。
もはやヒラスズキに大した遊泳力は残ってはいまい、と判断した小太郎は、リールのスプールを手で押さえ、ラインが出るのを力づくで止めたまま、ロッドを立てて堪える。大きく曲がったロッドがこの程度で折れることは、まずない。小太郎自身が契約メーカーとの二人三脚で作り上げた、ヒラスズキ専用ロッドだ。しかし、だからといって決して折れぬというわけではない。直接関わった設計者の口からも、「形あるものは壊れる」という普遍の常識を幾度も聞かされていた。
常々、ロッドにとっては過酷な使い方ばかりしている小太郎に、「畠山小太郎さん、限界を超えた使い方は慎んでください」と事あるごとに設計者が注意を促していたのである。
しばし、キーンと張り詰めたような空気があたり一面を包み込んだ。
おそらくそれは、ほんの一瞬であったに違いない。
ところが小太郎には、随分長い時間に感じられた。心臓がキューッと縮むような息苦しささえ感じていたのである。
ヒラスズキの抵抗が和らぐと同時に、フワーッと解き放たれたような穏やかさが訪れた。こうなるともはや、釣り人側の勝利は決まったようなものである。あとは、楽しさをたん能すればよいのだ。
ヒラスズキの動きが、抵抗が、ロッドのしなりが、そしてラインの緊張感が……、そのどれもこれもが心地よく感じられるばかりだった。
最後は、寄せ波に乗せてゴロタ海岸に引きずりあげる。こんな釣り場では、ネットを使うことはできない。美しい魚体にギャフを打ち込んでしまうのも気が引ける。結局、タイミングを見計らって海岸に引き寄せ、自ら駆け寄り大きな口に右手の親指を差し入れ、下唇をグイとつかみ取り込むしか方法がないのである。
引き寄せたヒラスズキをつかもうとした瞬間、小太郎は不意に襲いかかった波しぶきを頭から被り、ずぶ濡れになった。
「おっとっと。ちょっと油断しすぎたなぁ。危ない危ない」
打ち寄せた波で一瞬見えなくなったヒラスズキが相変わらず足元に横たわっているのを確認し、ホッと胸を撫で下ろした。そして今度は素早く、ヒラスズキの下唇を右手でがっちりつかみ、次の波に襲われる前に安全な場所へ移動した。
「俺の勝ちだな」
横たわったヒラスズキに語りかけるようにつぶやき、プライヤーを使って魚の口から『TDペンシル』を外す。全長70センチ強。体重は、4キロぐらいはあるだろう。
体高のある、銀色に輝く美しいヒラスズキだった。
「じゃあな」
小太郎はヒラスズキを波打ち際までそっと運び、優しくいたわるように両手で支えながら海に帰した。ヒラスズキは一瞬戸惑ったように佇んだ後、我に返って悠然と泳ぎ出し、打ち寄せた波の中に消えた。
「さて、もう1尾釣るか」
両手をいっぱいに広げ、大きく息を吸い込んでから、ゆっくり吐き出し、タックルを手に再び大岩に這い上がる。
波は次第に大きくなり、サラシの広がっている時間が長くなってきている。
沖根の手前スレスレにルアーを着水させ、ロッドを小刻みにあおりながら『TDペンシル』を生きた小魚のように操る。
ルアーのカラーは、蒸着メッキのシルバーベースにサラシの中でもよく目立つレッドバック。小太郎のお気に入りだ。
沖根の際から引いてきたルアーが、右サイドから沖向きに払い出すサラシに押され、大きくコースを変えた瞬間だった。
ドバッと派手な水しぶきがあがり、ヒラスズキが魚体もあらわにもんどりうってルアーを捉えた。掻き乱された水面には、余韻のように波紋が残っている。
すかさず合わせると、ヒラスズキがロッドをひん曲げてグイグイ泳ぐ。まるで、ロッドをへし折る自信があるかのような落ち着きと、走りっぷりだ。
「よしよし、いいファイトだ」
ジリジリとラインを引き出しながらヒラスズキが左方向へ走る。わき目も振らず左へ向かった理由は、根が点在しているエリアに入り込んでしまえばラインを断ち切れると本能が誘ったからに違いない。
「そっちへ行ったらマズイだろう」
左方向には無数の沈み根が点在していることを、小太郎はよく知っている。沈み根にはフジツボやジンガサが付着していて、それに触れたり挟まれたりすれば、緊張したPEラインはひとたまりもない。
危険なエリアに逃げ込まれる前に、何としても走りを止めなければならないのだ。
それ以上ラインが引き出されないよう左手でスプールを押さえ、ロッドを右方向へ倒し、腰を落としてグッと堪える。柔軟なファイトを信条としながらも、堪えるところはきっちり堪える。酸いも甘いも知り尽くしたプロ釣り師ゆえの技だ。
ラインがキーンと鳴ったまま時間が止まる。
1秒、2秒、3秒……。
 魚も釣り師も動かない。
 4秒、5秒、6秒……。
 沈黙を破って動き出したのは、ヒラスズキだった。
 沈み根の点在するエリアへ逃げ込むのを諦めたのか、クルリと方向を変え、ゆっくりと沖根の方へ泳ぎ出した。
「よし、勝った。俺の粘り勝ちだ」
 小太郎はニヤリとして一人つぶやいた。
沈み根の少ない正面でのファイトなら、これまで幾度も経験している。
ヒラスズキもそれを知っているかのように、途端に抵抗が弱くなった。
こうなればもう、勝負はついたも同然である。
程なくしてヒラスズキは、ゴロタ石の隙間に引き寄せられた。全長74センチ。体重は4~5キロといったところだろうか。
小太郎は素早くフックを外し、「ありがとう」と言って海へ放ち、見えなくなるまで行方を目で追った。
「やれやれ」 

2 北川から熱川へ

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舞台となっているのは、実際の釣り場。釣り場紹介と小説が合体した、新しいジャンルの「釣り小説」です。お楽しみください。