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優劣


自分の心に向き合う機会を

人の手を借りながら、少しずつ進めています。

先日掘り下げた事を、振り返りを込めて書いていきます。

長くなりましたが、よかったらどうぞ。


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私は、自分が出来る人だと思っていた節があって。



小さい頃は、勉強もわかったし、発表もしていたたし、優越感を味わえる機会も多くて(運動以外w)、何でもわかった気になっていた。たくさんいた幼馴染の間でも年長だったから、やりたい放題だ。

年齢を重ねていくと、自分よりも出来る人にわんさかと出会うから、「自分は出来る子」というのは誤解である事に気付くけど、でも、心の奥底ではあの優越感を忘れていなかったようだ。

今、私は、よりによって愛する家族の間で優位に立っていたかったようだ。全く気が付かなかった。



私は、今仕事に関しては割と好きにやらせてもらっている。要するに、家に貢献出来るほど稼いではいない。だから、これから大きくなる娘のためにも『働かなきゃ』と思っているし、夫にそろそろ考えて欲しいと言われてもう少しちゃんと働くつもりだと伝えている。

『働かなきゃ』と思っているのだ。『働かなきゃ』家族に貢献できない。よって、今は貢献できていないと。

夫は稼いでいる。私より貢献している。つまり"上"だ。私は"下"。


そう、優越感を得たい私は、心の奥底では、

「夫に稼がれては困る」と、

そう、思っていたのだ…


…え??

えーーーーーー!!!!!!!


まさか。まさか。まさか。


人は鏡。引き寄せとか、願ったことは叶うというけれど。つまり、今の現実は、私が心の底で願っていた本心を、夫は再現してくれていた。



掘り下げていくと、色々と出て来たのだけど…


子どもの頃、いわゆる失敗をした時にすぐに謝れなかったり、逆に面と向かって叱られなかった事で、昇華しきれなかった想いが燻っていて、それを恨んで、

自分が優位に立つ事や優劣をつける事で払拭したり誤魔化したりしたんだろう。

謝りたかったけど、謝れない。「正しい」ことが出来ない。叱ってもらえないから尚更動くきっかけが掴めない。

もしかしたら、反省してるであろう私への、見守るという優しさだったのかもしれない。でも、私は、『一緒に』謝りにいってほしかった。向き合って、『一緒に』考えて欲しかったのだ。



正しいことへの執着。

だからか、今も正しい事だけしたくて失敗を極端に恐れてしまう。「自由にしていいよ」と声をかけられると途端に何もできなくなってしまう。

優劣をつけられて、劣となるのが怖いから逃げ出したくて。家族の間でさえ、自分が1番上でいたかったのだ。


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先日、挫折するほどの大きなことをやらかした。人を巻き込んで、やらかしちゃいけない事をやらかした。

たくさん謝ったし、たくさん落ち込んでたくさん泣いた。

若干鬱になりかけてた気がする。


でも。

でも、そんな時。


抱きしめてくれた人がいて。身体をさすってくれる人がいて。話を聞いてくれる人がいて。心を癒してくれる人がいて。

迷惑かけてしまった人たちまで、その時成し遂げられなかった事をやり遂げるべく、『一緒に行きましょう』と誘ってくれた。



たとえ、『劣』だったとしても、

そんな私を笑顔で支えてくれる人が周りにいたのだ。

私は、私で、優でも劣でも、どんな私でもよかだたみたいだ。


「もうそろそろ気付こう。」

そんな風に、教えてくれた出来事だったのかもしれない。



人がくれる優しさ、今はそれに触れながら、昔寄り添えなかった自分の気持ちにやっと寄り添い、じんわりじんわりと、浸透させているところだ。


小さな私と『一緒に』。

どんな私でも、いいんだって。

周りに、いてくれるんだって。

だから、こんな私が、他の人のそばに寄り添っても、いいんだよ。


明日が少し、変わる気がする。



…だから、稼いでもいいよ、夫くん。笑

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