不幸がないと幸せを感じれない

戦争が起きないと家族の大切さに気づけない人たち、原爆資料館に行かないと平和を感じれない人たち、命の重さ尊さを感じれない人たち。地震が起きないと当たり前のものの大切さに気付けない人たち。病気にならないと健康の素晴らしさに気づけない人たち。

そんなものなくたって、当たり前に感謝できるのが人だと思いたいんだけど、食べたくで食べられない人がいると教えられて食べ物を大切にする。親が死んでからもっと話しとけば良かった、という。死ぬ前から、もっと話したい、と思えればいいのに。自分の幸せを実感するのに比較する対象が必要なのか。

いなくなって気づくのではなくいなくなる前から気づきたい、幸せを実感するには不幸が必要なのか。不幸なんてなくったって幸せを実感したい。でもどうせ不幸が過去にあったのならそれをみて、今の平和を実感して大切にしたい。核兵器は必要ない、あんな危ないもの、と話す人がいるがそうは思わない、怖いのはそれを使おうと言う発想になる人間が現れること。銃に罪はない、罪はそれを使う人、作る人、それが必要だと言う空気を作った人たちにある。

アメリカでは銃を使うときに精神が安定かしてるかどうかのテストがある。それに合格してもその後もずっと彼が安定してるかどうかは別。いまの支配者が戦争を起こさないために、抑止力のために核を持つとしても、そのボタンを押す人が、ずっと正常かは不明だ。終わらせる可能性を減らそう。

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