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大事な個人の物語

気狂いピエロという映画のワンシーンにこんなセリフがあった、あるニュースがラジオから流れてきて「ベトナムとアメリカの戦争でベトナム側にも115人の戦死者がでた」と。それに対して女優がこういう。「無名だなんて恐ろしい、115人のゲリラだけではなにもわからない、一人一人が人間なのに誰だかわからない。妻や子供がいたのか、芝居より映画が好きか、何もわからない、戦死者115名というだけ、写真を見ても思う、彼が何を考えていたのか、まではわからない」と。被災者1万人と言われても誰がどんな人が、なぜか、まではわからない。沖縄の人が困ってる、と言っても誰が何でまではわからない。そうでもない人もいる。なんなら沖縄の人の基地賛成反対はLGBTQX並みに、多く分けられる。個人としては反対だけど親戚にそれ関係の仕事をしてる人がいるから反対とか、そこの被害を受けてる、政府には誠実に対応されてる人がいることを知らないからなんとなく中国怖いから反対とか。関係性立場個人で複雑に分けられる。

僕らはよく「数」で見る。

僕は個人の感情が強い。それは危うさでもあると感じるが大切なことだとも感じる。

Amazon primeで「一人っ子の国」というドキュメンタリーを観た。

1982年から2015年まで続いた中国の一人っ子政策だ。当時貧しかった中国では子供を産みすぎるとそれだけ生活費が必要になり貧しくなり飢えや飢餓で人が亡くなり国が破滅するかもしれない、という理由で子供を一人しか生んではいけない、というルールを作った。

国の政策で一人産んだ女性は不妊治療を強制的にさせられ、中絶もさせられた。一人しか産めないとなると生まれてくる子が女性なら他の家族に嫁いで向こうの家族になってしまう、だから家系を絶やさないために男を産みたいという発想になり、女の子が産まれたら、橋の下や道端に捨てて、当時は蛆虫のわいた赤ん坊が沢山街中に捨てられていたらしい。

その時の産婦人科の先生を取材してく中で彼女はこんな言葉を言っていた。「子供が増えると人口が増えて飢える人が増える、だからしょうがなかった、たしかに可哀想だけど個人の感情よりも国益が大切」と。

僕は個人の感情が強い。

犠牲に大きいも小さいもない。1人死んでも1000人死んでも、犠牲は犠牲だ。必要な犠牲と必要ではない犠牲も今の国の同じ考えを持つあなたからしたら必要であり、そうではないと考える人には必要ではない。神様がいたらいう。お互いに自分の世界だと思いがってるのか。ただお互いに言える。お互い何かを犠牲にしている。ならばその犠牲を、よくみろよ。どんな人がどんなことで苦しんでるのかと。

日本でも同じように国益のための犠牲はある。

僕らはいつも何人が、何で死んだに、囚われてる。2018年6月18日午前7時58分ごろに大阪府北部を震源として震度6の地震があった。

死者6名と言われている。

熊本や東日本地震という地震はいまも強く語り継がれるが大阪北部のこの地震は当事者とまわりは語るが、東日本の津波や福島の放射能という言葉が、その物語を見やすい映画にし、語り継がれる。

その大阪北部の地震で登校中だった4年生の女の子(当時9)が倒れたブロック塀の下敷きになって亡くなった。その子の家族からすると、放射能や津波もブロックが倒れてくることも同じだ。誰かのせいに出来るものは誰かのせいにしてしまう、そして実際に誰かのせいだと言える。心が報われない。しかしブロックが倒れてきたことは強い物語にならず原発放射能より風化しやすい。

同じ地震で人が亡くなってるのに地震は熊本、東日本で、大阪北部の話は出てこない。当事者の悲しみ、やるせなさは、どれも同じ。原発のことは国民巻き込んで議論し続けられる。同じようにブロック塀のことも議論され続けるべきだ。同じような脆くなったブロックはそこら中にあるから。

10人より1万人が死んだというニュースをみればショックを受ける。

しかし「誰が」「なにで」というのも大事な共感の要素だ。しかし、過去に政治家が東日本大震災の被害について「まだ東北でよかった。首都圏あたりだと甚大だったと思う」と発言したことがあった。

被害総額、被害の人数の観点の話なのだろう。被害額や被害にあった人数で物事は見られることはよくあるが人が死んでいるということを考えるとそれを言えてしまう精神はあまりにも心がない発言だと思う。彼は誰が何で亡くなったということをすっ飛ばしてこのデリケートで複雑なものを、数で語ったから、怒られた。ショッキングな数字でもスルーされるものがある、以前、相模原の施設で障害者が19人殺された。戦後最大の人数殺されたのにそこまでニュースにはならなかったように感じた。僕はなぜ19人も殺されたのに、と驚いた。

その事件を追ってる記者と番組が一緒になりそのことを聞いたら、それは数字にならない、と言った。国民の関心が低い、と。

それはそのニュースを見て考えたり不安になるのは、共感する人たち、つまり障害を持った人やその身内だ。

不安だからニュースを観る。イタリアの地震は注目しないが日本の地震は次は私たちかも、と不安になり注目する。

ヤフーニュースのランキングの一位に沖縄の基地問題が上がってくる、翌日には消える。アクセスが少ないから。と聞いた。沖縄のニュースや福島のニュースは多くはそれらの当事者らが関心を示す。だからその数字しかとれない。

今後、笑ってコラえてのダーツの旅で、ダーツで所さんが来年米軍基地が強制的に作られる街が決まるなら、米軍基地問題のニュースはもっとたくさんの人に見られると思う。なぜなら次は、私かもしれない、と不安になるから。

愛国者と自称する連中も総理大臣もアメリカの大統領もうちの家の裏庭に、と不安になり、ニュースを見てると思う。

女性がセクハラにあった#metoo問題も怒るのは同じ属性を持つ女性で、待機児童問題を怒るのは子供がいる親だ。「わたしかも」と不安になり属性は当事者意識の入り口だから。

この前、Twitterの急上昇ワードに「インターネット税」ってのがあった。ワイドショーでコメンテーターが「今後、インターネット税がかかるかもしれない」と言ったらしい。

総務省はのちにデマだと警告したけど、普段からネットを使ってるユーザーたちが一斉に「ふざけんな」と、怒った。ネットは大多数がやってる、だから、被害者の数が多い。だから「自分の事」になる人が多い。

そのインターネット税でネットを使ってる人たちの中から、抽選で1人選ばれ、彼の街にその税金で基地が作られるならみな不安になり怒る。自衛隊があることに甘んじて、頼んだぜ、ということはあるが、徴兵制で誰もが武器を持つことになるかもしれないというならその声は少しは静かになると思う。しかしながら自衛隊も犠牲だ。彼らは彼らが望んで手を上げたが、その家族はどうだろう。給料がいいから賛成するけど、いざ、紛争地域に行かされるとなると話は変わってくる。そんなつもりではなかったのに、という人もいると思う。現に、南スーダンから自衛隊が帰国した時、福岡空港でたまたま彼らと会った。

彼らの家族は、列をなし、万歳三唱をしていた。涙を流す親もいた。よく無事で帰ってきたねーと話してた。僕やあなたが無責任に指をパチパチしながらツイッターで偉そうに語ってる時に。それが犠牲だ。犠牲はそうせざるおえなかったものでもある。いま石垣島に自衛隊の基地が造られようとしている。これも住人が自ら手をあげたわけではない。

国や行政に必要だ、あなたの意思を確認してる時間はない、わかるやつには分かる、と言って無理やり工事を進められてる気がする。もはや従軍慰安婦と同じ。戦争中疲れた兵士には必要だった、という意見もある。だから韓国日本人でも慰安婦にならざるおえない人たちもいた。中には生活のために仕事として金をもらうものもいただろう。

それが集団だ。みんな同じではない。

だけど、いまとなってはお前らもらってたくせに文句言うな、仕事だっただろ、と言ってくる。石垣島の自衛隊がもし、いつか、中国に攻撃されて基地がある街の人たちが犠牲になって、いつか賠償を求めたら、お前らの地域はそれで、経済が回ったんだろ?過疎化しかけた小学校が息を吹き返したんだろ?と、言ってきかねない。「お前らだって得してるじゃねえか」と、言ってきかねない。そういうやつが悲しいかなこの国はいる。意地汚い愛国者という化けの皮を被った臆病者の正体だ。

僕は泣いてる人がいたらそれが友達だったらそこに行き、その人の泣いてる景色を見に行く。なぜ泣いてるのか怒ってるのか、聞きに行く。

一年ほど前にたまたま気になったツイッターがあった、そのツイッターのアカウントの人はずっと石垣島の基地ができることに怒っていた。

いや細かく言えば基地ができることよりもそれを強引に進めようとする国や行政のやり方に腹が立っていた。僕はそのアカウントをフォローし、一年前に、その人の話を聞きに会いに言った。

そこでその人と友達になり、最近、この前よりもその人が怒ってる気がしたので、その人を笑わせてやろうと石垣島に行った。

そこでライブをしその打ち上げで地元のマンゴー農家の若い男と出会った。

彼は「うちのマンゴー農園を見に来て欲しい」と言ってきた。僕は冬なのにマンゴーを食べれると思って行ったけど、マンゴーは夏だから食べれないと丁寧に断られた。でも、僕は彼のマンゴー農園を翌日見に行った。彼はこのマンゴー農園について細かく教えてくれた、マンゴーの作り方、なぜこの農園があるのかまで。

この農園は彼の両親が与那国島から40年前にでてきて、広大な荒地を耕し、台風でマンゴーが何回もダメになりながらも、両親が2000本の防風林を、植え、一生懸命、作った農園だ。

マンゴーは、水と空気できている、と。ここの環境がこのマンゴーたちにぴったりなんだと。しかし、この農園のとなりに自衛隊の基地ができる。親も不安になり、影響はないのか?という調査をお願いしたけど、ちゃんとした調査もしてくれずもし何かあってからの、保証も約束してくれてない。住人たちが許可してないのに、もう工事が始まってる。

マンゴー農家の彼はせめて石垣島の住人がどう思ってるのか、住民投票というものをやろうとした、しかし、条件として、1ヶ月以内に住民の1/4の署名が集まらないと住民投票できない。

石垣島の有権者の数は約4万人。マンゴー農家の若い彼は農園の仕事終わりに、街に出て、署名を集めた、その途中に奥さんとの間に子供もできた。彼ら寝ずに頑張りすぎたからか、居眠り運転で近所のさとうきび畑に突っ込んでしまったぐらい寝る時間も惜しんで島の人たちの声を聞きたいと走り回った。

そして約1万4千の署名を集めた。しかしその数に不安になった石垣市はその住民投票を無効にしようとした。 彼ら若者が集めたものを無駄にしようとした。たくさんの声は社会を変える。彼らは変えられるかもしれないという恐れから声を出せないようにした。いまは民主主義とか言ってる場合じゃありませんいうことだろう。皮肉にも中国式のやり方だ。

数は数でしかない。誰がではないが数は時として、相手を不安にできる。

台風19号の夜に台東区が避難所からホームレスを追い出した。のちに区長はその件を謝罪した。理由のひとつに「多くの批判があったからだ」と。声の大きさは脅威だ。「村本おもんない」というツイートに10の、いいね、がついてても何も思わないけど10万のいいね、だとしたら不安になるかもしれない。(しかし僕は面白いから無視できるかもしれないけど)

沖縄にたくさんある米軍基地や自衛隊の基地。

自分の家の裏庭にできるとなれば共感できるが、あとは共感されない。

共感だ。当たり前を疑えない弱者が増えてる。電気は使えてるのが当たり前。無自覚に電気は共有するが、原発がある街の痛みは共有しない。

基地が作られるその街には空には戦闘機の轟音と、兵隊の犯罪と、慰謝料も払ってもらえない不平等な日米地位協定がある。その痛みは共有せず、基地があることによる安心は共有しようとしてくる。本当に卑しい。

豊かで贅沢で何も感じなくなっちゃった。牛を食べて生きてるなら牛を屠殺したときに、人間たちにも小さな切り傷でも、シンクロしてあなたに傷としてつけばいいけど、それは不可能だから神様は心を作った。少しでも痛めるように、痛みからありがとうとごめんなさいを言えるように。痛まなくなった人は人ではない、豊かな上にあぐらをかいてる悪魔だ。

光を知るために闇を知らないといけない。

あなたが豊かだと感じるためには困ってる人を知るべきだ。あなたの自由は誰かの不自由のもとに成り立ってる。

例えばこうだ。

うちの地元は田舎で長男が家を継がないといけない、しかしおれは長男なのに継がずに、大阪に芸人になりにきた。すると、弟が田舎に残らないといけない。弟は田舎に残った。そこでも仕事ができるからと。

武力で国を守れるという考えもある。アメリカの銃社会と同じだ。銃を携帯することによって銃を持つ相手から守れる。それは隣の国だけ銃を持つといつでも、こっちの大切なものを奪われるから、こっちも、銃をもたないといけない。

おれの一番下の弟は自衛隊だ、銃を代わりに持ってもらってる。僕らの社会は誰かに代わりにやってもらってる。おれはお笑い芸人だ、自分が誰かのために代わりにやってる、犠牲になってるとは思わない。自分でやりたいからやってる。やってやってるなんて思わない。でも、それをやらされてるならそれは犠牲だ。

沖縄の石垣島の自衛隊の基地ができる土地のまわりに住む人は自分からやりたくてやってるならいい、やらされるならそれは無理やりだ、誰かのための犠牲だ。

犠牲は誰かの安心のための生贄だ。


台風19号の夜、台東区の避難所からホームレスが追い出された。避難所の中の人で彼らが追い出されたことよって、安心した人は追い出されたホームレスは犠牲なんだから、その犠牲を目をかっぽじってみるべきだ。あの日台東区から追だされたホームレスは3人。

ひとりは脳梗塞で働けなくなってホームレスになった、おじさん。彼はあの夜、傘一本で朝までしのいだ。彼は誰も責めない、知らなかっただろ?知ろうとしないんだ。

ホームレスといえば50.60の路上で寝てる汚いおっさんを想像するから、ホームレスは避難所にくるな、というが、ホームレスでも若い女の子もいる。家がない人はホームレスだ。今の時代教会で風呂を借りてる人もいて、なんならいい匂いがする人もいる。しかし、それを知ろうとせずホームレスは追い出せ、という。

イメージだけで。震災でホームレスになった人もいる。ということは台風で家が流されホームレスになる人もいる。避難所からでたら、自分の家がなくなり、そのまま家族とも仲がうまくいかなくなり、ホームレスになる人もいるかもしれない。避難所に入れないっていうけど次にホームレスになる可能性がある人もいる。

ホームレスとホームがある人の差はない。様々なことが起こりうるこの世界では明日のことはわからない。今のその位置はたまたまでしかない。

南青山の住人が児童相談所を作らせないようにしようとした。児童相談所の子供は不良だから、治安が悪くなり、南青山のブランド価値が下がるという。でも本当に不良なのか、人による。南青山の住人の子供も不良もいるだろう。イメージだ。

イメージは知ることを諦めて暫定彼らはこれです、でしかない。

おれは1人の話を伝える。

1万人の被害者より1人の誰かを知ってほしいから。それはおれが知った人の話ね。

熊本県の益城町のプリン屋の男を紹介しよう。熊本の地震で彼の街は大打撃を負った。地震があった直後の二次災害は人災だ。なにかというと、地震があった直後、益城町の道路を四車線にすると、発表があった。街の人が地震で離れ離れに、なってるときに行政は前から計画していたことをやろうとした。

団結されたら計画が中止になる、だから地震でその道路の周りに住む人たちが、ちりじりになってる時を狙った。プリン屋の親父はいまも行政と闘ってる。

この前、熊本県がワンピースというアニメのサンジというキャラクターの銅像を立てた、彼はその場でプリンを提供しに行ったけど、彼は心の中で思った、まだ益城町には仮設住宅に住んでる人たちがいる、このサンジの銅像は何千万?億、と、かかる。

このお金があれば、地震から四年、仮設住宅に住むあの人たちがちゃんとした家を持てるのに。と。彼はせめてもの抵抗で。みんなが写真を撮ってるサンジの像を写真に撮らなかったという。

だからなんだ?という人もいるだろう。同じ日本人、近くにいる人にこんな人がいるんだよ、という紹介だよ。どう考えるかは自由だ。

あなたからしたら石垣島は尖閣諸島の近くにある場所だが、マンゴー農家の彼にしてみたらその土地は親から引き継いだ大事なマンゴー農園だ。

誰かの犠牲の上に痛みを同じように感じず、机上の空論の仮の空論振りかざし、痛みを知らず心を持たず、誰かの現実に視野をフォーカスできず、いやせず、あぐらをかいてるお前らは、その彼のマンゴーを食べれなくなったら違うところのマンゴーを、買えばいいと思ってるだろう、彼らには他で仕事をすればいいと思ってるだろう。引っ越せばいいと思うだろう。

彼はあなたの知らないものを持ってる。人の大切なものは誇りだ。お前らは誇りを軽視するから反発されるんだ。してない?それは相手がそう感じるかどうか、いじめといじりと同じで、相手があなたのそれにそう感じたならそうだ。

知り合いが福井で猟師をしてる。山に入りイノシシやシカを狩る。それを子供に見せて皮を剥ぐところも見せる。命を頂いてるという実感を与える。牛はたまたま牛になった、人はたまたま人になった、沖縄の人はたまたま沖縄になった。

福島やほかの原発の街の人はたまたまその街の人になった。不安病のお前がそこまでして、安心を欲しいなら、その安心は必要だと声高らかに叫ぶなら、その誰かを犠牲にするなら、その牛を屠殺するならその牛と目を合わして、苦痛に歪む彼らの顔をみて、心痛めろ、安心を共有するなら痛みも。痛みを一緒に味わえ、その権利を主張するなら。お前が必要だと大声で正義を叫ぶなら沖縄にいけ、怒ってる人の怒りを聴いて、お前の不安の理由を話してこい。しょうがないとか、キリがないってのはやれることをやって初めて言える。

そして聞く、そして、伝える。お前の安心は誰かが四つん這いで怒ったりその街の経済を回すからという理由で諦めたり、してる上にあぐらをかいてる。声を聞けよ、呻き声を。

それをしないくせに正義を叫ぶお前は鬼畜以下のカス野郎だ。

2019年、沖縄で県民投票実現に向けて頑張った元山くんという大学生に話を聞きに行った時、なぜそこまでするのか?と聞いたら彼が言ってた「子供ができた時に基地だらけの島をみてあの時何やってたの?と聞かれたら、あの時はしょうがなかったとは言いたくない」と。

石垣島の住民投票を実現させるために走り回る金城くんも親からもらった土地、いや想いを子供につなぐため、走ってまわってるんだろう。

プリン屋の男もマンゴー農家の男もわがままなのか?いや、彼らは尊厳を誰かに踏みにじられてるから起こってるんだ。尊重は尊く重い、軽く扱われてスルーできるわけがない。そら怒るよ。彼らは。そら伝えるよ。お前の土台で四つん這いになってる彼らの声を、顔を。

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