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社会風刺

「社会風刺ネタ」というが、ただの見えてる世界のスケッチでしかない。表現なんて自分が見て欲しい景色を切り取り、スケッチしてるにしか過ぎない。だから誰もかれもその漫才は突き詰めれば全てが風刺だ。

映画のパラサイトは韓国の格差社会をスケッチした。万引き家族も日本社会をスケッチした。ジョーカーもスケッチだ。風刺なんてのは「それを描くこと」で、あるあるネタとかいうけど「あるある」と共感するのは「その光景あるある」ということで、スケッチだ。さまざまな言葉を、 絵の具のように使い、その風景を描きそこにそれがあるということを伝える。例えばおれが漫才で原発の街のジレンマを表現した、それはおれが原発の街出身で、原発のおかげで小さな街の経済が回ってるのでないと怖いけど、あっても怖い、東京の人が、福島の事故の時に、ここまで放射能が来なくてよかった、といった、その言葉に、電気は共有するくせに痛みは共有しない、と漫才で言った。それはおれが、聴いた、見た、感じた、限りなく個人的な視点での表現だ。それは「おれがみた景色をスケッチしただけ」だ。おれたちはなにをスケッチしてるのか。たくさんの人たちが喜ぶことをスケッチする、というが、たくさんの人たちって誰のことなんだろう。スケッチとは「そこにそれがあることを描くこと」なのだろう。

そのテーブルの上にメロンやリンゴやバナナと一緒に小さなみかんが並んでる。メロンの絵ばかりが、人気で流行り、金になると分かれば、多くの人たちはメロンの絵を描きたがる。それはやがて、メロンをどう描くか、とか言い出す。そこにある数字にならない小さなみかんは描かれないまま。障害者の男の性は語られる、障害者の女の性は語られない。「在るもの」なのに。おれが原発の街のジレンマ、沖縄の基地、在日朝鮮人の抱える問題を、漫才にいれ、年に一回唯一出てるフジテレビTHEMANZAIで5分の漫才にした。まわりから「よく言ったね」と言われ、フジテレビも「よくオンエアしたね」と言われてた。おれはテーブルの上に在るのに描かれない存在に気付いた。

はっきりいうがおれにとってお笑い芸人とはアーティストだ。アーティストとは数字を持ってるものに流れるべきではない。メロンが金になるからと言って描くべきではない、もしもメロンを描くならそのメロンのなにに興味があり、メロンを描くのか。「いま時代がメロンを描くことを求めてるから描く」やつは、表現者ではなく、いまさら田舎でタピオカ屋始めて目先の小銭に走るアーティストとは真逆にいるビジネス野郎だ。目先の数字がはっきりと現れるいまの世の中では、誰しもが数字を追いかけてるように見える。テレビはクレーマーの数が増えれば謝罪し、少ないときはスルーする。YOUTUBERになり登録者数が100万だ、視聴率が何%で国民の何人に1人が、本がAmazonのランキングで、食べログの星が、ミシュランの数字が。たとえば、在日朝鮮人の人たちに参政権はなく、投票できないと聞いた、だから政治家は選挙で投票という数字にならない彼らの問題にはふれない。現に働き方改革のネタはクレームはこず、朝鮮学校のネタをやると、クレームはくるし、よくやるね、と同業者からも心配される。

おれはそのメロンの後ろに隠れた小さなみかんも描きたいだけだ。なぜ、テーブルの上に在るのに、完成した絵をみたら、それが描かれてない。見えてないのか、見てないのか。描く自信がないのか。おれは来年の春に世界をスケッチするためにアメリカに行ってみる。おれがいま見てる悲観的な視点でみてる妄想で固められた世界なのか、実際のテーブルなのか。

誰もがスマホのアプリでプロみたいな写真を撮れるようになった。テレビの編集の技術で、どのタレントもお笑い芸人のように面白く映る。スマホの技術でYouTubeでも素人がテレビみたいなことをする。それらはあくまでもみたいな、であってプロとは息を飲むようなものを作る人だと思ってる。テーブルに在るけどないようにされてるものの、絵を、誰よりも美しく描く。風刺の本質だと思ってる。

よければ

2020年03月02日(月)19:00
日本青年館ホール(東京都)
全席指定 前売 3,000円

ウーマンラッシュアワー村本の独演~おれは小刻みに震える中指を社会に強く突きつける~in渡米までラスト1年、大独演会を東京で~

2020年03月05日(木)19:30
ウーマンラッシュアワー村本の独演~おれは小刻みに震える中指を社会に強く突きつける~

なんばグランド花月(大阪府)全席指定 前売
3,000円


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