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11時2分

僕が長崎で独演会をさせてもらう場所がある。TakeLinaというカフェで、東京に住む長崎の友達の同級生がやってると言われ、僕はそのカフェに行かせてもらうことになった。

すごく素敵なカフェだった。なにが素敵かってそのカフェの横はそのカフェをやってる女の子のお父さんがやってる焼き鳥「竹」って店で、娘が名前がリナで、カフェの名前はタケリナで、タケリナの店内は元々、おばあちゃんが元々、美容院をやっていて、その場所をそのままカフェにしているから、だから当時ドライヤーとかそのまま残ってて、レトロがそのまま残ってる。そして家族が本当に仲良しで、見ているだけでほっこりする。

そしてなんと、そこのおばあちゃんはおれのことを「顔が可愛い顔が可愛い」と言ってくれる。おれの顔ファンらしい。僕は長崎のおばあちゃんの友達がいないのでそのおばあちゃんと会った日に「もしよかったら原爆の話を聞きたい」と伝えると、彼女の話す原爆の話は僕が当たり前にしてて見過ごしていた大事なことに気付かせてくれた。

原爆が落ちたとき、おばあちゃんの旦那さんは当時、防空壕を掘る作業をしていた。

それは外の見張りをする人と、中で穴を掘る人、に分かれる。おじいちゃんは、外の見張りをし、交代し、中に入った。その交代をした時間が朝11時。原爆が投下されたのが、11時2分、交代して中に入ったその2分後に原爆は落とされ、そのタイミングで中にいたおじいちゃんは2分差で命を救われた。外の人はそのまま亡くなられたらしい。

僕は当たり前のことに気付いた、おばあちゃんが、おじいちゃんが、生きててくれたおかげで子供がいてその子供が焼き鳥屋をやって、その孫が、カフェをやって、そしておれは長崎にきて、彼ら家族に会った。ということは、いま生きてる人たちみんなそうじゃないのかと。広島長崎だけでなく、いまいるお年寄りたちが生きててくれたおかげでおれはいる。もちろん自分の親、おばあちゃんおじいちゃんもそうだ。さらにふと思った、なのに、どうだろう、税金は年寄りの医療費を削り、老害なんて言葉を作り、彼らを孤立させ、暴走老人なんて言葉を作った、本当に自分たちが今いるのは彼らがあの時代を生き抜いててくれたおかげなのに。

でもおれは思う、8月6日の原爆が広島に投下された日も9日の長崎の日も受験勉強じゃないんだから無理やり覚えなくてもいい。広島の原爆資料館に行ってなにに驚いたか、知覧の特攻隊の資料館に行ってなにに驚いたか、それはそこに置いているものには「誰かの名前があったこと」だ。被爆者の話ではなく個人の話だ。個人が被爆者という大切なことを教えてくれる。だから僕もいままでニュースを見てて「あー、そうか、そんな日かー」ぐらいだったのが、長崎のおばあちゃんと出会い息子さんと出会い、孫と出会い、個人を知り、友達ができて、8月9日が実感に変わった。それでいいんだ、人間は残酷だ、知らない人は知らないし知ってる人は知ってる。だから子供の時にであった語り部の人の話は怖いけど、知らない人の話になってしまう。体験者と関わることが、それを教えてくれる。家のカレーの味が全て同じようで全く違うのと同じように、すべての戦争の体験の話はみんな違う。

この前、8月6日の広島に原爆が落ちた日だと知らない女性に会った。彼女は35歳ぐらいなんだけど「わたし知らなかった、はずかし」と言った。

僕は思う、僕らは平和な時を生きてる。長崎に原爆が落ちた日なのに、今日、夜にTwitterを見たら、日本のトレンドに原爆とか長崎というワードはほとんどなかった。

ネットニュースはアクセスのランキングだ。午前中に、あったものが、夜には全くなくなっていた。なぜだろう、それは「想う誰か」がいないからだろう。いつからか「やってる感、ならぬ、とりあえずこの日だから祈ってる感」になってないだろうか。Twitterのワードからその日のうちに消えてしまった「長崎」というワード。僕はそんなことを思った。それは、誰かと関わってないから、思う相手がいないんだろう、でも、こうやって、この文章を読んだことで、もう僕を通してこの家族に関わってる、それは長崎に関わってる、広島に関わってる、戦争というものに関わってることと同じだ。日付ではない「それに触れる体験」のひとつに数字があるだけだ。8月9日は、この長崎のおばあちゃんを思い出せる。今日はそのおばあちゃんに電話をして「生きててくれてありがとうございます」と伝えた。すべてのお年寄りをリスペクトしたい。たまにネタでいじるけど許してね。。これからもお元気で、最高年齢の長崎のおれの顔ファンのおばあちゃんへ。

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