追加 浪江町と南相馬市の声


Aさん

村本さん初めまして。
私は浪江町で生まれ、東日本大震災まで30年以上浪江町で生活していました。
Yahoo!ニュースで村本さんの記事を読んで、村本さんの発言が若干悪かったのかな?と思いつつも、浪江町民が意見するならまだしも、町民でも無いどこぞのジャーナリストや無知な人達が村本さんを叩いてるのをみて、意味わかって怒ってるのかな?と思いました。浪江町では同級生が食堂を営んでいたり、同級生の弟が居酒屋を再開したり、地元の企業がホテルを買い取って運営していたりと、泊まるところも食べる所もありますし、浪江町の一町民として、忘れられかけられている浪江町をクローズアップしてくれた村本さんに感謝しています。私は現在、浪江町には住んでないし、残念ながら戻る予定はありませんが、もし今後、浪江町の情報など必要でしたら、本当に微力ですがお力になれることがあるかもしれませんのでお声がけ頂ければ幸いです。
今後も応援してます!
ファイト!

Bさん

初めまして。私は南相馬市小高区から避難生活してる者です。簡単にまとめられないので時間ある時読んで下さい。春に中3になる息子が居ます、当時は卒園手前で避難を余儀なくされ、最初は福島市、郡山市と転々とし15日の2回目の水素爆発で他県へ避難して生活してます。郡山でスクリーニングしてて、母と娘が泣きながら引き離されて母が連れて行かれる場面も見ました。小高の自宅は2回も泥棒に入られました。でも警戒区域になる前日に自宅へ行き旦那の軽バンにテレビとか貴重品な物を詰めて隣区の友人宅に車ごと置いて無事でした。避難先では温かく迎えて頂き手厚い支援もありました。小学校に入学した息子は授業中地元の友達を思い出して辛いと泣いて帰ってきて、こんな事なら死んだ方がましだ!と、大泣きした事もありました。ストレスでチック症になり今も症状が残ってます。南相馬市は、大まかに警戒区域、避難準備区域、普通の区域に分かれてしまい賠償金もバラバラすぎて住民の間に妬み嫉みで溝があります。普通区域にある仮設に親が居た時、関東の方に避難してた弟家族が来て車を停めてたら車体全体にキズ付けられた事もありました。先に原町区に引っ越した友達は金稼ぎに他県からきてる除染作業に陰部を出されたりして精神的に辛い事が多かったそうです。その他にも除染作業員による連れ去りレイプもあったみたいです。南相馬で車に乗る時はロックかけろと言われてます。コインランドリーも怖くて1人で行けない状態でした。今は除染作業員は帰ったので少し平和にはなってるらしいです。地元に帰ってる人は集団心理で、セシウムとかまったく気にしてません。川で採った鮎も食べてます。食物汚染が1番心配なので帰るのも躊躇してしまいます。帰るにも家はもう無いので、原町区辺りで家を建てるしかないんだけど、震災後土地代が仙台並に値上げして中々厳しいのが、現状です。そんな中、立派な家を次々建てるのが漁師と原発立地帯の大熊町、双葉町、の避難者。高級車乗り回し、避難者は皆んな賠償金イッパイ貰ってると勘違いされる。そんな中、地元に戻ると親が子供の前でもそういう事言うのか、子供同士で〇〇ちゃん家はお金いっぱいあるんでしょ〜?と子供が言われる事態にまでなってます。家も無ければ近所のコミュニティさえも無くなり新しい地 に行けば快く受け入れて貰えない現実。帰るか悩むしかできません


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