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thank you for yourhelp

僕のアメリカでの挑戦を密着する番組が「大麻合法化したほうがいい発言」で急遽テレビ局からNGが出てスケジュールが1ヶ月空白になった時、どうせならひとりで1ヶ月アメリカに行こうと思い行ってきた。以前にその記事を書いたんだけどその記事の反響がすごくて「村本すごい」となりすぎていたので、そうではなくものすごく沢山の出会った人たちに助けられ、学ばされ、だからこその1ヶ月だった、というそれを伝えたくてもう一度少し長めの記事を書く。

ただ少し長く感じるかもしれないのでお世話になった人たちの話にタイトルをつけた。

「テキサスのキッカケはひろきくん」

最初にテキサス州オースティンにいくキッカケをくれたのは友達の森田真帆の彼氏のひろきくんだ。ひろきくんは僕より年下の30歳、外資系の一流企業を辞め別府で農業を始めた面白い生き方をしてる人。彼はテキサス州オースティンに高校の時に留学してたらしくそこなら地元のアメリカ人の友人を紹介できると言われ僕はオースティンに行くことにした。

テキサス州の中でもオースティンは比較的リベラルな街でヒューストンやダラスに比べてトランプ支持者が少なく、全米第2位のテクノロジーの街、だけど大自然と街がうまく融合していて、地元の人は仕事の前に川に行き軽く水泳してから仕事にいったりのんびりしている街だ。

「ひろきを愛するテキサスの人々」

ひろきくんが最初に紹介してくれたのは彼が留学中、ホームステイをさせてもらっていたというマクドナルドファミリーだ。白人の60代ぐらいの夫婦で、僕はオースティン滞在中、このご夫婦に一度、ドライブに連れて行ってもらった。2人は高校生の頃に一緒に暮らしたひろきくんを実の息子のように思っているらしく、車内では、ひたすら、ひろきくんの思い出話。途中、お母さんが、当時を思い出しセンチメンタルになり声を詰まらせ「ひろきに会いたいわ。。」と言い、旦那さんが優しく背中をさすり、それを後部座席で「え、なに」と言う顔をして無言で見つめる僕、という謎の時間があった。途中、ドーナツ屋に寄り「ここはひろきが大好きなドーナツ屋さんなのよ」「ここの店はひろきがバイトをしていたのよ」そして途中でまた感傷的になり、声を詰まらせ、背中をさすり、後部座席で「え!」の顔をする僕、の時間になり、もう途中から僕のオースティンの旅は「ひろき、ゆかりの地を巡るツアー」へと変わっていた。

そして次に紹介してもらったのはグリーンファミリーだ。黒人のファミリーで家が金持ち。家の庭には大きなプールがあり、そこの一人息子のアンドリューはひろきくんの高校時代のクラスメイトで休みの日にはグリーンファミリーとその親戚のおじさんに食事に連れて行ってもらった。アンドリューはとても優しい人で、僕が彼の家のプールで泳いでいたら大きなハチが現れた。するとアンドリューが「動いちゃダメだよ、いまハチはプールの水を飲みに来てるから、波を立てたらハチが安心して水を飲めない、この暑さじゃハチも喉が乾くよね」と言われた。優しい!!!グリーンマイルの主人公を思い出した。アンドリューは日本で有名な企業で働いてたけど心が疲れちゃってオースティンに帰ってきたらしい。アンドリューの話ではアメリカから日本の企業で働いた人たちは、心を疲弊させて帰ってくる人が多いらしい。色々考えさせられた。

キャサリンという高校の同級生の女性とも遊んでもらった。キャサリンは酔うとハグが強くなる。それに下心を出しこっちからもより強めのハグをしたら警戒され翌日からキャサリンには誘われなくなった。これはいつかひろきくんには謝らなければならない。

「Mr.佐藤の手作りおにぎり」

ミスター佐藤という日系アメリカ人のおじさんも紹介してくれた。彼はひろきくんの高校の同級生のお父さんで、ひろきの友達のためなら、なんでもしたいと、僕の学校の寮に、手作りのおにぎりとみそ汁を沢山届けてくれた。しかしまだそこまで知らないおじさんの握ったおにぎりはだいぶ抵抗はあったが、その夜、寮の隣の駐車場で乱闘騒ぎがあり、その日の真夜中におれは一生分の「fuck」という言葉を聞いた。警察官やヤンキーたちの英語での怒号と悲鳴が外から聞こえてくる中、僕は日本の友達に電話しようと思ったが日本はその時、時差でみんな寝ている。しかしひろきくんなら起きてくれるかもしれないが歳下のひろきくんに「こわい…朝まで電話してて」とも言えない。不安な気持ちでドキドキして寝れずヘッドフォンのボリュームをマックスで音楽を聴き恐怖に震えて布団にもぐってた。お腹が空いてきたが外には出れない、そんな時にミスター佐藤の手作りおにぎりとみそ汁を思い出しそれを頂いた。優しい日本の味付けに涙が溢れ出してきた。ヘッドフォンの外から漏れ入ってくる「fuck」の怒号に震えながら食べたミスター佐藤のおにぎりの味はおれの一番のオースティンの思い出の味になった。

「村本さん明後日出番予約しました」

話は少し戻るがオースティンに到着した日にひろきくんからメールがあり「村本さんオープンマイクでスタンドアップコメディできるコメディクラブ見つけました!5分のネタ時間です!明後日です、予約しときますね!ご準備お願いします!!」と言われた。

オープンマイクとは誰でもが自由に飛び込みでスタンドアップコメディや音楽、ポエムを読んだりすることができる場所。正直言えば、急過ぎてネタも心も準備不足だったので断ろうかと思ったけど、せっかく予約してくれたし、ウケることもスベることも必要な経験だと思ったので僕はその日に無理矢理ネタを作り、それを友人達に英語にしてもらい、練習し、僕はテキサスの小さなBARの40席ぐらいのステージでその作りたてのネタをやった。

少しばかりの手応えがあり、ひろきくんにメールで「ありがとうーみんな優しくてウケたよー」と送るとひろきくんから「マジですか!さすがです!あっ!ちなみに次は明後日にどこどこのコメディクラブに行ってください!次は8分です!よろしくお願いします!」と。え!!ひろきくん!少しペース早くない?!と思ったけど、せっかく用意してもらったから僕はまたそれに出演することにした。

そしてまたそのショーの終わりに彼から「明日はここのBARで予約が取れました!ちなみに明々後日はこことここで1日に2回あります」とメールが。少し悲鳴をあげながら、でもやるしかない、と朝はネタ作り、ネタの発音練習、外にコーヒーを買いに行く道中も独り言でネタ練習。それでもLやRの発音の壁は、絶望的に高く、なりふりかまわず目に映るアメリカ人はだれかれかまわず全員客で先生だ、と思いウーバードライバー、カフェ店員、カフェの隣の席の人、ヒッピー、ホームレス、ありとあらゆる出会う人、全てにネタを試しまくった。

その時やってたネタは「日本はアメリカに沢山の戦闘機や兵器を買わされている、おれはその支払った金を笑いで取り返しに来た」というネタ。オースティンの人は恐怖だったと思う。ただでさえテキサスには珍しい日本人がオースティンの街を独り言、しかも片言の英語で「アメリカから戦闘機を買わされた金を取り返しにきた」とブツブツ繰り返してるんだから。

しかしおかげで頭の中はお笑い一色になり気付いたら日頃のツイッター中毒から解放されていた。

前回の記事でも書いたけどネタがウケればチヤホヤされてレストランの金髪美女に「ライブいくから連絡先教えて」と言われたり、コメディをやってる友達ができ、お笑いからたくさんの繋がりができた。

前に高校生で日本からアメリカに留学したことがある友人が「そこは田舎町でクラスに日本人が僕だけで言葉も話せないから、友達全くできなかった。細い目をいじられることもあった、けど僕はスケボーが好きで、得意で、休み時間にひとりでスケボーをやっていたら、まわりに人が集まってきて友達ができた」と言っていた。カナダのトロントで知り合った日本人は音楽が好きで「わたしのコミュニティは日本人じゃなく音楽好きの人たち」と言っていた。そして、僕はいつしか人種や宗教言語を超えてたくさんの人とつながった。そのワードは「コメディ」と「なんか頑張ってる姿」

繋がることとは、生まれた場所や肌の色だけじゃなく趣味や家庭環境、政治的な考え方、自分を構築する数だけ存在する。悲しそうにしてる人は悲しそうな人に引き合わされ、嬉しそうにしてる人は嬉しそうにしてる人に引き合わされる。なにが言いたいかと言うと友達がいない人はまだここにはいないだけだと知ってほしい。何者かを知らせれば似たようなそれを持ってる人が向こうからやってくる。そんなことを僕はテキサスで実感した。

そして僕はいつしか自分からオープンマイクの予約を入れていた。

「18歳の青年に好きと言われた夜」

東京からオースティンに行く途中に僕はLAに立ち寄った。その理由の1つに、僕には60歳の親友がいる。名前は平松さん。愛知のテレビ局で働いてる人なんだけど、僕が大阪で活動してる10年ほど前、大阪の漫才番組で彼が番組のディレクターをしていて知り合った。平松さんは数年前に「癌になった」と僕に告げた。そこから彼は全国各地の僕の独演会に来てくれる。愛媛で独演会をやった時には、彼は車で7時間もかけて愛媛まできてくれた。「え!平松さん!なんでこんなとこいるんですか?!」「いつどうなるかわからないので、迷ったらやるって決めてるんです、行きたいと思ったら行く、毎日を後悔なく、昨日よりもいい一日にするためです」と。次の長野県の独演会も4時間かけてきた。大阪も、岡山も。いまでは「死ぬ死ぬ詐欺」の平松さんと呼んでいる。

そんな平松さんには18歳の息子がいる。彼は普段すごくおとなしい。だけど彼はボイスパーカッションをやっていて、それをやってるその時の彼は人が変わったかのようにカッコよくなる。

そんな彼は、ある日YouTubeでペンタトニックスという世界的に有名なアカペラグループをみて感動し彼らのようになりたいと彼らが主催してるライブのオーディションを受け合格し、年に一回LAに行き、世界中から集まったメンバーとアカペラコンサートをしてる。それを平松さんに「一緒に見に行きませんか?」と誘われたので僕はオースティンの前にLAに立ち寄って彼のコンサートを観た。その翌日3人でご飯を食べてる時、彼のコンサートに触発されたおれは「せっかくLAきたからおれもオープンマイクでスタンドアップコメディやっていこっかな」と自信なさげに呟いたら、彼が小さな声で「僕、村本さんのそういうとこ好きです、、」と返してきた。そして「僕も一緒にボイスパーカッションでオープンマイク…出ます」と言ってくれた。僕たち3人は会場があるLAのBARに行き僕はスタンドアップコメディ、彼はボイスパーカッションを20人ぐらいのアメリカ人の前で披露した。

もちろん彼のボイスパーカッションは大盛り上がり、しかし僕は発音が全く通じず、挙げ句の果てには、ネタ帳を司会者に見せて「このネタ帳、読んでくれ!!面白いから!」と言い強制終了させられた。その夜は平松親子に励まされながらホテルに帰った。

「面白かったから金は払う」

平松さんたちと解散してひとりでホテルかの近くのBARで少し飲もうと歩き出したとき路上のホームレスのおじいさんと目があった。財布に細かいお金が入っていたからそれをあげようと思い、どうせならひとつネタを聞いてもらおうと「僕はコメディアンだ、しかし英語がヘタくそだ、あなたにネタを聞いてもらいたい」と彼に声をかけネタを話した。そのおじいさんはケラケラ笑った。そして自分の空き缶の中からクシャクシャのお金を取り出し、おれに渡してきた。僕は「いやいやおれがチップを渡したい」と言うと彼はおれは笑った、だから君はプロだ、プロにはお金を払うのは当たり前だ」と一切引き下がってくれなかった。お金を握りしめながらBARに向かい複雑な感情で心がぐしゃぐしゃなままひとり真夜中までいろんなことを考えながらお酒を飲んだ。

「最後にニューヨークに現れたのは…」

ニューヨークで僕を待ち受けていたのは僕の「大麻合法化発言」で潰してしまった番組を制作してたディレクターだ。今回の経緯を知らない人のためにもう一度言うと「大麻合法化したほうがいい発言」で出演するはずの番組がなくなった。番組はテレビ局が作るものと制作会社が作ってテレビ局で流すものがある。

今回は制作会社が作ってテレビ局で放送するはずだった。しかも彼らは3年前から定期的におれの独演会にこそっときてたらしくずっと今回の番組を企画しており、それにともなって売り込み先のテレビ局を探しやっとのことでそれをオンエアしてくれるテレビ局まで決定した。彼らは事前にニューヨークに行き取材をし分厚い資料まで作って「さあ準備万端、あとは7月のロケ本番を待つのみ」だった。そんな時におれが「大麻合法化したほうがいい」発言をし放送してもらう予定だったテレビ局からNGがでてその番組がぶっ飛んだ。なので彼らはおれの発言による一番の被害者だ。だから普通の感覚で言うと二度と仕事はしたくないというのが人の感情だろう。しかしそのディレクターは「密着をさせてほしい、正直、次の番組を売りこむ先も決まってない。でも撮らせてほしい」と言ってきた。おれは恨みがあって二度と仕事したくないならわかるけど、番組の流す先も決まってないのに、ニューヨークまできて、正直、アメリカに挑戦する芸人は他にもいる。ピース綾部や渡辺直美、たくさんいる。おれは旬でもないし、数字も持ってない、そのくせリスクだけはめちゃくちゃ高い。しかもまた発言しないとは言いきれない。こんな事故物件を、なぜに?!と聞くと、現に彼らも自分たちの会社の偉い人たちから「なんで村本のそれをそんなに撮りたいの」と聞かれたらしい。しかし彼のチームのリーダーは一言「面白いからです!」と言い切ったらしい。そしてそのディレクターの彼はこう言った「僕は村本さんと同じ38歳の同い年なんです、だいたいの人がこの歳で生き方が決まってくる、安定に向かって準備していく。賢く手堅く生きていく。そんな中38歳ら40手前で、しかも村本さんは最近be動詞を覚えた、中学生の英語から始めてる。日本でやってれば普通に絶対食っていけるのに、アメリカでやりたいなんて、なぜかそんな生き方が魅力的なんですよね」と。

そして彼に「コメディクラブでオープンマイクの予約いれました、出演しますか?」と言われ、僕は「もちろん!」と返し、僕らはブルックリンのコメディクラブへ向かった。ブルックリンは黒人ばかりの街。テキサスは客席の9割は白人だったが、そのコメディクラブは客席の9割は黒人だった。しかもニューヨークのお客さんは世界で一番厳しいと言われていて、僕らがコメディクラブへ入った時、黒人の中にアジア人ふたりが店に入ってきて一瞬静まり返るような空気を感じだ。そしてなにより出演してる芸人もさすがの実力だった、ひとりの女性芸人は「ジェントリフィケーション」をネタにしていた。「ジェントリフィケーション」とは黒人ばかりの貧困街に白人の金持ちが引越し、街の家賃やレストランが高級化され、もともと住んでた人たちが住めなくなり追い出されていく世界的な問題。ネタの題材も、それについていく客もコメディ最高峰のニューヨークのオープンマイクでこのレベルなんだ。とビックリした。そのネタというのは黒人の彼女が朝起きたら下の陰毛から一本白い毛が生えてた、ジェントリフィケーションが起きてる!わたしも少し高級化したというネタ。コメディの基本「下ネタを賢く、難しいネタはバカバカしく」まさにそれだった。もちろん沸き上がる客席。

そしておれの出番。僕はディレクターがカメラを回す中、この1ヶ月の集大成のネタをした、ネタ中、カメラを回すディレクターが祈るような顔でこっちをみていた。彼のためにもここでスベるわけにはいかない。ほどほどにウケていく客席、そしておれはネタの最後に一番言いたかったネタ「大麻合法化したほうがいいって言ったら日本の仕事なくなった、ふざけんな!お前ら、大麻吸ってリラックスしろや日本!」と言い、彼のカメラに向かって「ファッキンジャパニーズTV!」と叫んだ。

会場は大きな笑いと盛り上がりに包まれた。終わりでディレクターの元に駆け寄り「どうでしたっ?」と聞くと「いやー欲を言えばサクセスストーリーがみたかったから、すべってほしかったんですよねー」え!?「だから僕、ずっとスベれえええって祈ってたんですよーあはは笑」それで祈ってるような顔やったんかい、なんだこいつ。。

最終日に彼にこのドキュメンタリー番組で今回一番心震えたシーンどこですか?と聞いたら彼は「実は僕、ピンマイクを村本さんにつけっぱなしで、取り外すの忘れてて、村本さんのスタンドアップコメディ終わり、村本さんが独り言でポロっと言ったある一言が一番震えました」と言っていた。その言葉をおれは彼に聞いた、けどここでは話さない。いつか彼らによってどこかで番組として流される日のために。

最後に

子供の頃、自転車に乗る練習をしてたとき、最初は自転車の荷台を持ってくれていた父親が、いつのまにか手を離していた、そして僕はジグザグにおぼつかない走りで、まわりに「大丈夫大丈夫」と声をかけられながら少しずつ自転車が漕げるようになった。

最初は、ひろきくんが荷台を支えてくれていた、不安な顔をしてると友達の息子が「村本さんがそうやって挑戦しようとしてる姿が好きです、僕も一緒に自転車乗ります」といって一緒に横を走ってくれてた。自分でコメディクラブの予約を入れた時、ふと後ろをみたら、ひろきくんはすでに自転車の荷台から手を離していた。

そんなおれがプルプル震えながら自転車を漕いでる姿をたくさんの人が応援してくれた。そしてそれをディレクターがカメラで撮ってくれている。

心の中で「最初は、コケてくれえええええええええええ!」と祈りながら。

オースティンのコメディクラブに出演した時、劇場の支配人に呼ばれてこう言われた「君の友達のひろきはすごいね、毎日、何度も何度もメールをしてくる、こんな人はなかなかいない、どうしても村本を出してあげて欲しい、と。あまりのしつこさに負けたんだよ、しかも彼がメールを送ってくるのは、私たちがパソコンをさわる昼間だ、ということは日本は夜中のはずだ。いい友達がいるね」と。

前回の記事はI can be anything. (私は何にでもなれる)

今回はthank you for yourhelp(助けてくれてありがとう)

日本に帰ってきて数日が経ちあれは長い夢だったのかなと思うことがある。たくさんの人の優しさに触れ、たくさんの人に応援され僕はすっかり心が変わり、SNSの悪口をみてもなにも思わなくなり、ツイッターの更新度もすごく少なくなった。依存から抜け、自分で言うのもなんだけどすごく可愛い顔になった。

しかし、昨日沖縄でプールサイドで後輩とお酒を飲んでる時、目の前でカップルがいちゃつきまくり自撮りしまくってるのをみて「どーせ別れたらすぐに消すくせに!なぁ!」と後輩に言った時に、小さな村本が僕の耳元に現れ、優しい声で「おかえり」と囁いてくれた。

ただいま。

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