バンドとファッションを切り離そうとしたその後の話

音楽をファッションで語らないほうがいいと3万回くらい言って結局皆さんには伝わらなかったのでその話は置いといて、その延長として最近服飾という意味でのファッションについてめちゃくちゃ考えてる。服を着るという行為ってめちゃくちゃ面白いなと思うし音楽以外のことでこんなに考え込んだことがないから練習の気休めだと思ってとりあえず書いてみる。

最近思ってるファッションについてっていうのは、つまりなぜ人は服を着るのか?とかなぜファッションについてそんなにも考えるのか?ってことなんだけど、これを考えたきっかけが就活の「服装自由」だったんだよな。そこからそもそもスーツ指定が多い理由とか、服装自由に学生が戸惑う理由とかも考えてみた。
結論、服を着るという行為は「防御」と「攻撃」のどちらのニーズも一度に叶える行為だと考えた。

防御から話すと、そもそも原初には服は防御防寒としてのみ機能していた。防御という価値観は今でも失われていないし、なんなら物理的防御という意味合いから離れても服を着ることで「社会から認められる」という意味合いの防御としても機能する。
服を着ることが人を社会的存在たらしめるようになったのは人がヒトとそれ以外の動物を区別するようになってからとも言えるだろうし、更にミクロで見れば職業ができてから、組織ができてから、会社ができてから、スーツができてからと色々な分岐点があっただろう。人はそうやってどこかの強大な社会に属していることをあらゆるコンフリクトからの防御としてアピールするためにファッションとして服を着るようになった。

また、そうやって防御としての服が体系化されると同時に防御の対極である攻撃としてのファッションもまた色濃く社会に表れていったのだろうと思う。物事とはやっぱりすべて二極化されているもので、いくら防御防御といって規律ある服装を作り続けても、そうすればするほど逆に人間の攻撃性を表現することが容易になる。そもそも防御というのが誰かからの攻撃を想定しているものだから、やはりファッションの二極化とは避けられないものだと思う。

ここで就活の例を出してみると、「服装は自由」とする面接があったとする。この時自分が私服を選ぶまでの道筋を考えてみる。
まずスーツで行くか私服で行くかの2択を選ぶ。この時自分はスーツを「規律だって息苦しいもの」、私服を「自分らしく快適なもの」として認識している。しかしスーツvs私服の二項対立によりスーツにある「規律」という属性が私服に対して「規律立っていない」という印象を追加してしまう。そうして服装自由であるのにも関わらず私服で面接に行くことは「攻撃」になってしまう。
ここで快適さを優先して私服を選んだとする。ここで本当の私服を着るなら自分はミリタリージャケットを着るしモッズコートを着ていくと思う。しかし誰もそうはしない。それはなぜか?やはりファッションという行為が攻撃的すぎるからだろう。ミリタリーにせよモッズにせよ誰かが着ていたファッションにせよ、俺はそういうファッションは「虎の威を借る」状態だと思っている。強い者、輝いている者の持つ攻撃性を自分に転嫁している。憧れとはつまり模倣欲だし、服によって何を模倣するかという点はもう攻撃性ということで一纏めにしてもいいと思う。
そうして自分は社会からはみ出ない程度(チー牛だと思われない程度)の服装で社会からの攻撃から自分を防御することだけを考え、面接にはオフィスカジュアルで行くだろう。そうしてもしなぜ私服で来たかを面接官に問われた時には「快適性を重視したから」と堂々と答えられるだろう。

俺は他人からナメられたくないとか、自分らしさで場を支配したいとか、女にモテたいとかそういう人の奥底にある攻撃性がわりと低いんだと思う。ファッションに無頓着と言ってしまえばそれまでだけど、人生の長いこと、服で人を不快にさせないことしか考えてこなかった。俺が気に入る服はだいたい無機質で安いものとミリタリーで、ミリタリーに関してはもうバキバキの攻撃性をもって着ているからやっぱり俺の考察は間違ってないなと自分で思う。

ちなみにこんだけ動物愛護言われててもやっぱり革は本革が高いし、毛皮はリアルファーが人気で、そういうところからもファッションって攻撃なんだな〜と思う。そういう自分の攻撃性をちゃんと認識して服着たいなと思った。就活生


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