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父が遺したガラケー


先月、実家の父を見送りました。1年半ほど前に脳梗塞で倒れて左半身に麻痺が残り、入院生活の後は施設でお世話になり、家に帰らずにまた病院での最期でした。

当然、コロナによる面会制限があるため、母も一緒に暮らす兄家族や私たちも会えるのは時々。私は、1年半前の秋、倒れる2日前に会ったきりのお別れとなってしまいました。その点については、本当に無念です。

その代わりと言ってはなんですが、葬祭場が混んでいて、葬儀まで自宅で一緒に過ごす時間がゆっくり取れたことはありがたく、家族で慣れないことに戸惑いつつ、遺影の写真を選びながら昔の写真を見返したり、もうすっかり大きくなった孫世代もそろって父のことを話したり、という時間が持てたことは、きっと父からのギフトだったのだと思います。

父は、若いころからあちこち病気をしてきており、胃は40歳すぎで2/3なくなり、肺がんや何度かの脳梗塞、何度かの腸閉塞、と、入院や手術を繰り返していたので、その経緯を考えるとよくここまで長生きしてくれたね、大往生だね。なんて話をしていました。

最期は腎臓が悪くなり、人工透析が不可欠な状況になったのですが、年齢や体力を考えると、その治療は本人にとっても辛いだろうということで、自然の流れにまかせていただくことにしました。母にとってもつらかったと思います。

父は、一見こわもてで無口、典型的な不器用な男でしたが、きっと母のことは大好きなのだろうな、というのはよくわかりました。

面会できない入院生活・施設での生活では、年季の入ったガラケーが、家族(母)とつながるライフラインのような存在で、一日に何度も母へのコールが入っていたそうな。
母が出ないと、兄やほかの人にもかけるものだから家族も困り、電話帳から家族以外のデータを削除したりして…そのぶん、一層母への電話が集中していたのかもしれませんが。

今年2月になって、「そういえば最近電話がないのよ」という時期がありました。後から思うと、そのころに腎炎が発症していて、だるさや認知への影響が出ていたのだと思いますが、遺品となったガラケーの履歴を見てみると、その様子がわかります。

おそらく、電話帳から母や兄の登録を探してかけることがわからなくなり、番号を押して電話したかったのだと思いますが、自宅と、家業の事務所の電話番号がミックスされて「惜しい!」番号での発信履歴がたくさんあったのでした。

惜しい!数字が2個足りない~


惜しすぎる!数字が1個多かった~


何度もチャレンジしている様子がわかりました。
それを見たとたんに、切なくなって思わず涙。

数少ない写真もほとんどが母の写真です。
(有吉くんの「おばショット」のリアル版^^)


ちなみに。遺影の写真が27年も前のものだということは内緒です(笑)
若いころから老け顔だったのでまぁいいかと、家族全員一致。それに、病院からとても穏やかで若々しい顔で帰ってきました。あの深く刻まれたしわはどこへ行った?と思ったら、うまく隠してくれていて。エンバーミングの技術、素晴らしい(笑)

そんなわけで、みんなの思い出の中の父の姿と、父の最後の穏やかな顔、結構イケメンでした。


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