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『金属の箱とソファー』

 私はソファーに横になって、グラスいっぱいに注いだウイスキーを飲みながら、本を読んでいた。これが私の休日の楽しみなのだ。この上等なソファーに体を預けて、好きなことをする。心休まる時であり、至福の時でもある。
 ソファーの質はピンからキリまでさまざまだ。そして世の中にはハイレベルのソファーはあまり出回っていない。しかし私の持っているソファーは文句なく一流品だ。過去に知人から譲り受けたものだが、彼もまた私と同じように、世間にはびこっている造りの悪いソファーを嘆いていた。良いソファーを持っていれば、それだけ人間的に完成しているということなのだ。たぶん。
私が完璧にリラックスして、休日の静かな安らぎに心を浸していた(ひた)時、突然アパートのドアが開く音が聞こえた。
 私はページを操る手を止めて、玄関の方向を見た。もちろん鍵はしておいたはずだ。誰かが入ってこられるはずがない。
 すると外から、数人の作業服を着た男たちが入ってきた。彼らはそれぞれ、四角い金属片のようなものを持っていた。それはちょうど漬物石程度の大きさで、表面はピカピカに磨き上げられていた。
 彼らはそれを持ち入れ、部屋の真ん中に置いて、それぞれを組み立てていった。金属片の片面には、穴や突起があり、お互いをくっつけることによって、カチリ、と音を立てて繋がった。
 男たちは全部で五人いた。携えている金属片は見るからに重そうで、男が両手でしっかり持たないと運ぶことは出来なさそうだった。
 五人のうち二人が組み立てを担当し、残りはまた外に出て別の金属片を持ってきた。それらの行動は洗練されていて、一つの狂いや躊躇すらもなかった。まるできわめて統率の取れた軍隊のようだった。
「あの」
 私は思い切って組み立て担当の二人に話しかけてみた。しかし彼らは私の言葉を無視して、熱心に金属を繋ぎ合わせていった。
 私はどうしていいものか分からず、ソファーに腰かけて、茫然とした表情で彼らの作業を眺めた。彼らは水色の作業服と水色の帽子を被っていた。私は今まで生きてきて、水色の作業服というのを見たことがなかった。おそらく特注なのだろう。黙々と無表情に仕事をこなしていく彼らは、水色と相まって、私に水槽の中でせっせと泳ぐ魚を連想させた。どうやら引っ越し屋とかそういった業者でもないようだ。なぜなら、アパートの私の部屋に土足で入り込み、こんなわけのわからない作業をするのは、引っ越し業者の業務ではないからだ。許可もなければ譲歩もない。
 やがて金属のかけらは塊となって出来上がった。五分もしなかったと思う。完成したものは完璧な立方体で、繋ぎ目が見あたらないほど精緻に造り上げられていた。高さは私のみぞおち辺りだ。それはダイニングルームのど真ん中にそびえ立ち、異様なほどの存在感を放って不気味に鎮座していた。
 私が半ば感心したように金属の塊を見ていると、作業員たちは次々と部屋から出ていった。彼らは最後まで一言もしゃべらなかった。そして二十代前半くらいの青年一人だけが残った。彼は金属の塊の横に立っていた。
「木島章文さま」と青年は言った。
「はい」と私は気の抜けた返事をした。
「これを見て下さい」
 彼は真横にある金属の塊を指さした。どうやら私の見ている面ではなく、その側面を見てほしいらしい。
 私はソファーから立ち上がり、青年の隣に向かった。
 金属の塊の側面、上の縁近くに小さなディスプレイが埋め込まれていた。そこには赤い文字で数字が表示されていた。
 3:00:00
「あと三時間でこれは爆発します」と青年は説明した。「それは空前絶後の爆発です。致命的であり、壊滅的でもあります。逃げることはできないし、一度爆発してしまえば、もう取り返しはつきません。世界の終りです」
 私は言うこともなく、ただディスプレイを睨んでいた。
「私がこの部屋から出たら数字は減り始めます。そうなったら止める術はございません」
「ちょっと待って」と私は慌てて言った。「爆発? これが? そもそもあなたたちは何なんです? 勝手に家に上がり込んで、何の権限があって――」
「木島章文さま」と青年は私の言葉を遮った。「質問にお答えすることはできません。そしてあなたには質問する権利もありません。それがルールなのです。ご了承ください」
 彼は深々と頭を下げた。
「それでは残りのお時間を、有意義にお過ごしくださいませ」
 青年は背筋を伸ばし、毅然とした足取りでまっすぐ部屋を出ていった。そして一呼吸ほど置いた後、ばたんと扉が閉まる音が私の耳に届いた。

 2:59:58

 数字が減り始めた。
 
 私はまず、金属の塊の周りをぐるぐると回って、全体像を把握した。単純な立方体だった。表面を覗くと私の顔が映った。造形物としてこの上なく精密かつ美しく出来ていた。先ほどまで男たちが運んできた金属片とは全然思えなかった。繋ぎ目も見えないし、いささかのズレも見当たらなかった。
 私は二週ほど回った後、再びディスプレイの埋め込まれた面の前に立った。
 2:56:43
 私は青年の言った言葉を思い出した。
「あと三時間でこれは爆発します」
 その時はあまりにも現実味を帯びてない言葉だったが、今こうして減り続けているディスプレイの数字を眺めていると、急に青年の言ったことが重量を持ったみたいに、ひしひしとした緊張感を持ち始めた。
 爆発、と私は思う。ここ数年は使ったことのない言葉だ。ばくはつ。
「爆発する」と私は試しに声に出して言ってみた。だが私が口にするとただただ馬鹿馬鹿しく、どうも馴染みがなかった。
 私は人差し指で金属塊の表面をノックするように叩いてみた。コッコッ、とやや鈍い音が帰ってきた。次は手のひらで張り手するように強く叩いた。べちべち。次は拳で。グッグッ。
 最後に私は叫び声をあげながら、その金属塊を力の限り押してみた。全身の筋肉を総動員して、その馬鹿げた塊を移動させようとした。しかし私の意に反してそれは微動だにせず、私の足がフローリングの床に空回りするだけだった。
 やがて私は諦め、疲労を癒すためにソファーに腰を下ろした。そして改めて金属の塊を眺めた。
 しかし何度眺めても、それは現代技術の結晶としか思えないほどの出来だった。あまりにも完成度が高いので、形而上的にさえとらえられるほどだった。つまり、神からの贈り物。
 私はウイスキーを思い出し、ソファーの肘掛けの横にある小さな正方形のテーブルから、グラスを取って口に含んだ。口内に広がるアルコールが私に冷静さを取り戻させてくれた。
落ち着いた私は意を決すると、部屋の固定電話で110通報した。
「事件ですか? 事故ですか?」と相手の男は言った。
「事件です」と私は答えた。そしてことの一部始終を説明した。鍵をかけておいたはずのドアを勝手に開けて、得体の知らないわけのわからぬ男たちが金属片を持ち運び、それを組み立て始めた。彼らは作業を終えると一人を残して部屋を出ていき、その一人が私に金属塊の説明をした。
「これが爆発する、と彼は言っていました」
「爆発する?」と電話の相手は聞き返した。
「ええ。確かにそう言っていました。確か『空前絶後の爆発』だとかなんとか。そしてその男が出ていった後、ディスプレイの数字が減り始めたのです」
「五人の男たち……金属の塊……ディスプレイの数字……爆発……」
 電話の相手はそれらの言葉をうわ言のように呟いた。言い終えると、私と相手との間に突然沈黙が舞い降りた。どちらも言葉を発さず、ただ急きょ出現した静寂に耳を傾けていた。私は相手の指示をじっと待った。しかしいくら待っても相手は何も言わなかった。息遣いは聞こえた。だから何かを確認しているとか、受話器を押さえて誰かと会話しているようでもなさそうだった。しかし世界の終りみたいな静けさは、唐突に姿を消した。
 相手が電話を切ったのだ。
 私は受話器を持ったまま、しばらく立ち尽くした。いったい何が起こったのだろう、と私は思った。受話器を戻し、どっかりとソファーに座った。私はもちろん税金だって払っているし、前科は一つもない。確かに社会とはいささか隔てを持ち、協調性に関してはくそ食らえという立場だが、一般市民による通報が一方的に断ち切られるなんて予想すらできなかった。
 2:26:54
 私は再び110通報したが今度は繋がりすらしなかった。延々と呼びかけ音が鳴っているだけだ。十五回その音を数えた私は、諦めて受話器を置いた。
 
 私は何となく、この金属塊が爆発する様子を想像してみた。ちょうどNHK辺りの番組で、巨大な隕石が地球に衝突する際のCGのシミュレートみたいに、世界が一気に爆炎に包まれる。あらゆるものを吹き飛ばす強大なエネルギーは世界に広がり、すべての生命をなぎ払う。木々は燃え、海は干上がり、地形は形を変える。地球の終わり。審判の日。
「ふん」と私は一人で笑った。何を妄想しているのだ。たかだかこんなもので、何億年と続いているこの星を破壊できるのか。
 だがそこで私はハッと気づく。さっきまで私はこの金属塊が爆発すらしないと決め込んでいたのに、今ではうすうすそうなるのではないかと思いはじめ、しまいには世界の終りまで想像している。つまり私はだんだんとこの金属の爆発を信じてきているということなのだ。
 それに自覚した私はいよいよ不安やら恐怖やらを感じ始めた。座ってさえいられなくなったので、私はソファーから立ち上がり、ディスプレイを覗いた。
1:39:10
 数字は規則的に減り続け、一切休むことなく前進している。それが仮に爆発の残り時間だとして、あと一時間以上猶予があるというわけだ。私は腕を組んで、どうするべきか考えた。私は一応119番で電話をかけてみたが、やはり繋がらなかった。
 どうして繋がらないのだろうか。ここだけは実に非現実的だ。国が管理している組織なのだからこうなるなんてことがあるのか? 私は何だか腹が立ってきた。非現実的な農家が非現実的な野菜を作り、非現実的な業者に売りつけ、非現実的なスーパーに陳列された野菜は非現実的な消費者に買い取られていく。
「だめだ」と私はひとり言を言った。興奮してしまうとわけのわからないことを考え出してしまう。とにかく電話が司法機関に繋がらないのは事実なのだ。
 しかし電話がどこにも繋がらないというわけではない。一応回線は生きているのだ。だから私の知人だとか友人に電話をかけることはできる。私はとにかく、誰かに今の状況を知って一緒に悩んでもらいたいのだ。
 私は電話帳を開き、記述されている電話番号を一通り見てみた。並んだ無数の番号を見つめていると、数字が何だか虫の死骸のように見えてきた。私は一つ一つ人差し指の先で数字の羅列を追っていった。
 衝撃的なことに気付いたのだが、私は友人と呼べるべき人物をほとんど持っていなかった。大部分が仕事で知り合った者ばかりで、あとは酒屋だとか実家の番号だけが書かれていた。私がどれだけ閉鎖的な人間なのかをうかがえた。
 ページをめくり続けると、私はある名前に目が留まり、ふと手を休めた。私はその番号と名前を何度か交互に確認し、最後にその人物と会ったのはいつだったかを思い出そうとした。しかしいくら頭を捻っても記憶を掘り起こすことはできなかった。
 私は藁(わら)にもすがる思いで、その番号で電話をしてみた。
 呼び出し音四回で相手は電話に出た。
「もしもし?」と相手は不機嫌な声で言った。
「もしもし」と私は言った。「養田はるかさんですか?」
「そうですけど」
「木島章文だけど」
 彼女は五秒ほど口を閉じた。
「ふみ君?」
 彼女の一声で、私はようやく一息つくことができた。
「久しぶりだね。ええと、二年ぶり?」と私は言った。
「ぜんぜん違う。もう三年顔を見てない」と彼女は指摘した。どうやら機嫌は良くなったようだ。「商品説明会でばったり会って以来。ふみ君また連絡してくれるって言ったのに、全然してくれなかったじゃない」
 私は頭を掻いた。「申し訳ない。すっかり忘れていたんだ」
「ふうん。まあいいや。ところで、何で電話くれたの?」
「今から僕の家に来られない?」
「家?」
 はるかはいくらか動揺したようだった。声が緊張しているのがわかる。
「そう。今すぐになんだ」
「……どういうこと?」 
「事情は電話では説明できない。なんていうか、僕もよく状況が呑みこめてなくて。とにかく大変なことになっているんだ」
 はるかは考え込むように沈黙した。彼女は私が変に冗談を言う人間ではないことを知っているのだ。
「ねえ、それって冗談じゃなくて?」
「冗談じゃないよ」と私はちょっとムキになって言った。「本当なんだよ。あまり時間がないし、君だってまったくの無関係っていうわけじゃない」
 私の声から緊迫感を感じ取ったのか、はるかはやっと理解してくれたようだった。
「ごめんなさい。ほら、ふみ君ってときどきよくわからないこと言うから」
 私は大きくため息をついた。自分でもそう思っているのだ。
「わかったよ。すぐに行くから、待ってて」
「忙しかった?」と私は一応訊ねた。
「ううん。今日は休日だから」と彼女は言って、電話を切った。
 
 それから二十分後、はるかは私のアパートにやって来た。
 彼女は薄手のコートを羽織って、下には緑色のセーターを着てジーンズをはいていた。前見た時よりも髪を短くしていた。急いで来たためか、化粧は薄目だったが、それでも十分見栄えは良かった。
 はるかは部屋に入ると、部屋の真ん中にどっしりと設置されている金属塊に目を見張り、言葉を失った。持っていたハンドバックを床に落とし、軽く口を半開きにした。
「すごいだろう? これ」と私は言って、金属の爆弾をペタペタと叩いた。
「ねえ、これって何が入ってるの?」とはるかは質問した。私は肩を落として首を振った。
「わからないんだ」
「わからないって……」
「変な奴らが土足で踏み込んで、勝手に置いていったんだ」
 私がそう言うと、はるかはじっと私の目を見つめた。彼女の澄んだ瞳は私をどきりとさせた。その汚れのない平坦な一対の目は、私の体を一直線に貫いた。
 やがて彼女は視線を落とし、右手で軽く金属塊に触れた。
「それはどうやら爆発するらしい」
 私は静かにそう言った。
「爆発?」と彼女は不思議そうに聞き返した。まるで上流階級の貴婦人がこじき(・・・)の汚い言葉使いをよく理解できなかったみたいに。
「そう。空前絶後の爆発らしい」
「でも、どれくらいの規模なの?」
「さあ。しかし置いていった奴は、世界が終わるとかなんとか言っていたよ」
 言い終えると、突然私は立っていられないくらいの疲労を感じた。肩が重く、力が出ない。呼吸さえまともにできないほどだった。よろよろとソファーに座り込んで、全体重を預けた。
「きっと何かのいたずらだよ」とはるかは慰めるように言った。「警察には通報した?」
 私は先ほどの出来事をゆっくりと説明した。
「電話が繋がらないの?」
「そうみたいだ。何度か努力したけど、全然だめだった。相手が受話器を取ってくれないんだ」
 はるかは真面目そうな顔でうつむき、考えるような顔をした。
「なぜ相手が応じてくれないかは別として」とはるかは言った。「どう見ても普通じゃないよ、こんなの。どこか安全なところに避難した方がいいよ、絶対」
「無駄だよ、その爆発は世界を焼いてしまう」
「どうしてそう思うの? ねえ、冷静に考えてよ。核ミサイルだって、そこまでひどくないでしょう? 世界中を一度に巻き込むなんて、ありえないよ」
「確かに普通に考えれば、そんなことあるわけない」私は二度うなずいた。「でも僕は、その金属の塊を見ているうちに、何だか必ず爆発するような気がしてきたよ。そもそも、爆発もしないのに、そんな完璧な立方体を作る意味なんてあるのかな。いや、そうする必要があったから、そんな馬鹿げた塊を作って、僕の部屋に置いたんだよ。どうしてそのような形をしているのか、僕は知らない。でもそうするだけの価値があるんだろう」
「ねえ、どうしたの?」とはるかは心配そうな声を出した。「具合でも悪いの?」
 私は何も言わず、目を閉じた。すると体の内側からじわじわと死の冷たさを感じることができた。それは私の手足といった末端まで及び、私という人間の根本まで侵した。
 この金属塊は間違いなく爆発し、地上の人間すべてを死に至らしめるだろう。私にはそれが分かった。今ではあの青年の言葉を全面的に信じられる。彼は嘘を一つとして言ってなかったのだ。すべて真実だけを述べ、自らの役目を負えたのだ。
 世界の終りは、私の部屋を中心に迎えられる。
 しかし最後まで疑問は残った。この爆弾を置いていった馬鹿どもはいったい何者で、そしてどうしてこれを私の部屋に残していったのか。私は考え方のおかしいひねくれ男であって、政府から命を狙われているレジスタンスのリーダーではないし、多くの債務者から金を取りたてているやくざの頭(かしら)でもない。しかも仮に青年の言葉を信じるならば、この爆弾は世界を終わらすという。ならば彼らがやろうとしていることは、半ば集団自殺と同じようなものではないか。つまりこの奇蹟(きせき)のような金属の立方体を努力して作り(きっと並大抵のことではないだろう)、私のようなちっぽけな男の部屋に勝手に設置して、最終的には人類と滅亡することを望んでいるのだ。下らない。アルコール中毒者だってもっとましな夢を語る。
 しかし現にそういうことが起ころうとしているのだ。連中は生命の終焉を求めている。私にどうすることもできない。ただソファーに座って、時を待つのみである。
 はるかがこちらに歩いてくるのが、音で分かった。彼女は私の横に座った。私は片目を開けてはるかを見た。はるかは座ったまま、両手でソファーの革をぎゅっと握り、真剣な目で爆弾を見続けていた。その真摯な瞳には一切の濁りがなかった。
「ねえ」
 彼女はふと口を開いた。
「もし、もしもだよ? 今から地球の反対側へ逃げられたとしたら、助かるかな?」
「無理だろうね」と私は即答した。「その爆発は万物を滅ぼすんだ」
「私ね、猫を飼ってるの」
「うん」
「家を出るとき、まだ餌をやってなかった。ちゃんとあげとけばよかったなあ」
「大丈夫だよ。どうせ――」
「せっかくならさ、お腹いっぱいのままで、死にたいじゃない?」
 私は黙った。唾を呑みこみ、肺に溜まった空気を一気に吐き出す。少し気持ちが軽くなった。
 はるかは立ち上がり、キッチンに行って、冷蔵庫からビールを二本持ってきた。「はい」
 はるかは私にビールを手渡し、またソファーに腰を下ろした。他にすることもないので、二人は黙ったままひたすらビールを飲み続けた。そしてただ金属塊を眺めた。ソファーからではディスプレイを見ることはできないので、残り時間があとどのくらいあるか、見当もつかなかった。
「ふみ君、お腹空いてる?」と彼女は尋ねた。
「いいや。まったく」
「私も。何だかこれ見てたら、空腹なんてどっか飛んでいっちゃった」
 私は顔を上げて天井に目を向けた。
「はるか。君は、僕となんかと一緒にいていいのか?」
 彼女は少し驚いた顔で私を見た。
「どういうこと?」
「ほら、残り時間も少ないし、それにここはまさに爆心地だろう? 爆発すれば跡形も残らないよ」
 はるかはいくらか微笑んでみせた。彼女が笑みをこぼすと、雲の間から陽が差し込むような気がした。
「ふみ君の方はどうなの?」とはるかは聞いた。「私となんかといて、いいの?」
「綺麗な女と死ぬのは悪くない」
「それ、本当に言ってるの?」
「本当さ。右手の親指と肝臓を賭けてもいい」
 彼女はくすくす笑った。
「私はもっといい男の方がよかったな」
「君は見る目がないんだ」と私は言って、ビールを口に含んだ。そして立ち上がり、ディスプレイの数字を覗いた。
1:13:31
 爆発は刻々と近づいている。

「逃げたほうがいいよ」
 私ははるかの横に座りながら言った。
「もしかしたら、思いのほか爆発は小規模なのかもしれない。今から逃げれば、あるいは助かるかも」
「さっきと言ってることが矛盾しているけど?」はるかは私の顔を覗いた。「どうせそんな風には思ってないんでしょう? それにもし、爆発が大きくなくったって、こんな間近にいたらひとたまりもないはずだよね。ふみ君はずっとここにいるんでしょ」
 私は何も言わず、足を組んだ。
「昔から、結局自分のことしか考えてないよね、ふみ君って」
「そう?」
「うん。他人のことを気遣っているふりして、最終的には自分で何とかしようとしたり、自分を中心に物事を動かそうとしたりする。人のことを信用してない」
「信用してないわけじゃないよ」私はビールを一口で飲み干した。空になった缶の縁を指先でつまみ、しばらく手のひらで転がした。「そういうわけじゃない」
 だが最初彼女の言ったことは本当だ。私はとにかく自分一人で作業をするのが好きで、その最中に他者に邪魔されるのが大嫌いだった。私はその自分の性格について、高校生の頃よく分析したものだった。当時の結論では、私はチョークを持った偏屈者ということになっていた。自分で好きなところにスタートのしるしを付け、好きなところでゴールのラインを引く。それは私だけの道であり、私が愛した領域でもあった。私だけの線路。私だけの空間。
「結婚しないまま死んでいいの?」
 はるかは唐突にそう質問した。
「いいんだ。好きな人もいないから」
「本当に? 誰かを愛したことはないの?」
「ないよ」と私は答えた。一度もない。
 はるかは押し黙り、フローリングの床を凝視した。私が三日に一度は掃除機をかけているので、汚れはほとんどない。
「嫌いなものは一杯あった」私ははるかに、そして私の部屋にあるすべての物に対して言った。「学校、教師、要領の悪いホームセンターの店員、部屋に侵入してくる虫。他には、よく話しかけてくる美容師、感謝されたいくせに他人には感謝しない連中。あとナメクジ。かたつむりは好きだけどね」
「私は、彼が好きだった」
 はるかはぽつりとそう呟いた。そして彼女は寒さに耐えるみたいに両腕を抱え込み、やや前屈みになった。
「相手も私のことが好きだったんだと思う。きっと今でもね。でも、ちょっとしたきっかけがあって、あっという間にどっかに行っちゃったんだ。誰も行方を知らない。親も、会社の同僚も。私にも一言も言わずに。まるで神隠しに遭ったみたいに」
「警察に捜索願は出したの?」と私は訊ねた。
「うん。でも全然ダメ。反応なし。音沙汰なし。警察は、きっと仕事疲れが原因で、ふらっとどこか遠いところにでも出かけて行ったんだろう、って言っていた。でも彼の家には財布やらパスポートが置いたままだったんだよ? でもそれを警察に言っても相手してもらえなかった」
「気の毒に」
「ねえ、何だか私たち、このまま爆弾に吹き飛ばされてもいいような気がしてこない?」
 私はそれについて考えてみた。愛した男が失踪してしまった女。社会を斜に構え、自由気ままに生きる男。明らかに変な組み合わせだ。オズの魔法使いだってもう少しまともな配役をしていたはずだ。
「そうかもしれない」と私は認めた。「ちょっと考えてみると、僕たちはいささかでこぼこな人生を歩んできたみたいだ」そして私は軽く笑みをこぼした。「爆心地にふさわしい人間だ」  
「ねえ、爆死って痛いかな?」はるかは幼い子供のように、甘える声で聞いてきた。彼女の顔は無垢な少女みたいだった。私は彼女の髪を手ですくい取った。その滑らかな肌触りは、私の心に爽やかな風を吹かした。
「痛いわけがないさ。一瞬だよ。それも世界を吹っ飛ばす爆弾だぜ。あくびをしているうちにあの世だよ」
「ねえ、私たち天国に行けるかな?」
「きっと行ける」
 私ははるかを優しく抱いた。彼女からは学生時代の懐かしいにおいがした。
「行けないわけがない」


 私がはるかのセーターを脱がせようとした時、部屋の扉が開いて、知らない男が一人入ってきた。彼は最初の五人の男たちとほとんど同じ格好をしていた。作業服を着て、帽子を被っている。ただ一つだけ、五人の男たちと違っている部分があった。それは色だった。最初の男たちの作業服は確か水色だったはずだ。しかし今入ってきた男の着ている服は水色ではなく、赤だった。
「爆弾処理員です」と男は無表情で、平坦な声で自己紹介した。
 私たちは凍りつき、ソファーの上で固まった。
 男はそんな私たちに意を介さず、爆弾のところへ向かった。そして両手を爆弾の上に置いて、池の魚を覗く庭師みたいに、入念に金属の上の面を観察した。そして探していたポイントを見つけたのか、男は一点を一分ほど凝視した。しかしさっき私が見た時には、どの面にも一点の汚れや曇りもなかったはずだ。どうやら彼にしか見えない何かがあるらしかった。
 男はそのポイントを、私がさっきやったみたいに、コンコンコン、と三回ノックした。確かに三回だった。回数が重要なのか、リズムよく、確実にノックした。
 するとその部分が、手前にパカッと開いた。部屋の間取り図によくある扉の絵みたいに、あるいは厨房のダストシュートみたいに。それ自体は小さく、名刺ほどの大きさだった。
 そこにはコードをつなげる穴がついていた。男は作業着のポケットから機械のようなものを取出し、そこから赤いコードを伸ばして、先の方を穴に差し入れた。そして機械のツマミをくるくると回し、時折カチカチとボタンを押した。まるで金庫破りをする泥棒のようだった。
 その作業を一分ほど続けた後、男の持っている機械から、甲高く警告的な音が私の部屋中に鳴り響き、最後は断末魔のように激しく音を出した。すると爆弾から、プシュー、というガスの抜けるような噴出音が耳に届いた。
 男はその音をしっかりと聞き届けると、一度うなずいて、機械をポケットに戻し、部屋の出口に向かった。そして何事もなかったかのように、まるで新しくできた飲食店の内装を確認するサラリーマンのように、さらっと私の部屋から出ていった。
 私たちは顔を見合わせた。何が起こったのか、よく理解できなかった。
 私ははるかの服から手を離し、立ち上がって、ディスプレイを覗きに行った。
 0:20:14
 数字は止まっていた。
 残り二十分で。
「爆弾が止まっている」と私は茫然自失の声で言った。
「うそ」とはるかも同じように言った。
「本当だよ。確かに止まっている」私は興奮気味に叫んだ。「すごい」
 はるかはソファーから飛び降りて、私の横に並んだ。そして時の止まった数字の羅列を見て、驚きと喜びの混じった悲鳴を上げた。
「ふみ君!」
 はるかはそう言って、私の首に腕を回し、飛びついた。私は彼女を落とさないようにしっかりと支えた。
「ねえ、私たち生きているんだよ」はるかは笑顔を浮かべて言った。
「そうみたいだ」
「やったあ!」
 私は半ばあきれたように笑い、役目を果たすことのできなかった哀れな機械を見下ろした。あの威厳たっぷりだった爆弾は、今では過去の栄光を失った弱々しい老人のようだった。
 結局、すべてが一切の傷を負わずに済んでしまったのだ。これを作った阿呆(あほう)どもが何のために、どうして私の部屋に置いて行ったのか、そして最後に爆弾を解除してくれたあの赤色の作業服を着た男が何者なのか、まったくもって推測すらできないわけだが、今となってはそんなことはどうでもいい。とにかく生きている喜びをこの瞬間に味わうのだ。
「わけがわからないけど、とにかく助かってよかった」と私は言って、心の底からため息をついた。腰まで抜けてしまいそうだった。
「ねえ、私たち、また最初からやり直せるかも」
はるかは世界の人間に報告するように、部屋中に響く声で言った。彼女の声は明るく、生きる喜びを表していた。それは朝に歌う小鳥や、大地を駆け巡る狼のように素晴らしいものだった。

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