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時事無斎雑話(4) エレバン放送から学問・芸術と政治についての特集をお送りします(前編)

 視聴者の皆さん、今日は。エレバン放送第37日本支局から、時事無斎こと村 正(むら ただし)がお送りします。
 前回紹介したアネクドートのジャンルの一つに、指導者たちの無知・無教養・下品さを風刺するものがあります。

 クレムリンで政府高官の晩餐会が開かれた。がさつなフルシチョフは手でステーキをちぎって食べている。見かねたスターリンが声をかけた。「ニキータ、ナイフを使うのだ。」
 フルシチョフはナイフを手に椅子を蹴立てて立ち上がりながら言った。「で、どいつですか、同志スターリン!」

 モスクワの美術館で国際的な芸術展が開かれた。ゲストとして招かれたピカソが会場に入ろうとしたが、入館許可証をホテルに忘れてきてしまったことに気付いた。
 ピカソは受付の館員たちの前で手早くスケッチを描いてみせ、自分がピカソであることを認めさせて中に入れてもらった。
 しばらくして、書記長のフルシチョフが会場にやってきた。彼も入館許可証を家に忘れてきていた。受付の館員が言った。「何か本人確認ができるものをお示し下さい。先ほどピカソ氏も同じようにして入館を許可されました。」
 フルシチョフは言った。「ピカソとは誰だ?」
 館員は言った。「これは書記長閣下。今のお言葉で本人確認ができました。お入り下さい。」

 ノヴォトニー(チェコスロバキア大統領)夫妻の寝室での会話。
 「今日はどこにも出かけなかったのか。」
 「ええ。『フィガロの結婚』に誘われたけど断ったわ。」
 「どうしてだ。」
 「知らない人の結婚式に顔を出して、出しゃばりだと思われたくないから。」
 「お前はそれだから、いつまでも大統領夫人らしくないと言われるんだ。そういう場合は、ちゃんと祝電を打っておくようにしろ。」

 念のため言っておくと、ピカソや『フィガロの結婚』を知らないこと自体が悪いわけでは決してありません。特に、当時のソ連や東側諸国の指導部には一兵卒や現場労働者から叩き上げた経歴の持ち主も多かったため(そういう経歴こそが理想とされていた時代でもありました)、若いころに十分な教育を受けられなかった人間も少なくなかったのです。
 しかし、そうした権力者が(知性・教養の有無にかかわらず)、学問や文化の重要性を軽視したり、専門家の助言を無視したり、あまつさえ、自分に批判的な学者や文化人を排除したり、自分に迎合する人間ばかりを厚遇したりとなると、話は全く違ってきます。アネクドートには、そういう政治家に振り回される学者や芸術家を題材にしたものも多く見られます。

 写実主義の芸術家は見たままに描く。
 印象派の芸術家は感じたままに描く。
 シュールレアリズムの芸術家は空想したままに描く。
 ソ連の芸術家は命令されたままに描く。

 ソ連の政治家が科学者たちを集めて、極秘の国家プロジェクトへの協力を要求した。「アメリカは世界で初めて人間を月に着陸させたが、ソ連は世界で初めて人間を太陽に着陸させることを考えている。」
 学者たちは困惑して言った。「しかし、太陽に近づけば宇宙船もろとも焼けてしまいます。」
 政治家は言った。「心配いらない。夜の間に着陸すれば良いのだ。」

 これは単にジョークですが、現実に行われた政治による学問への介入が悲劇的な結果を招いた例として、前回少し触れた「ルイセンコ学説」があります。
 スターリン独裁下の1930年代、正統的な科学教育を受けないまま現場の育種家から農学の研究者となったトロフィム=ルイセンコが唱える「適切な栽培法によって作物の遺伝的な性質を後天的に変化させることができる」「それによって農業生産を飛躍的に高めることが可能である」「にもかかわらず、正統派の学者たちはそれを認めず、ブルジョワ的なメンデル遺伝学を信奉することでソ連農業の発展を阻害している」という主張がソ連で台頭してきます。科学的には全く意味のない理論だったにも拘わらず、ルイセンコの主張は当時の公認イデオロギーに都合の良いものだったため、彼はスターリンの後ろ盾を得て、対立する学者たちを排除・投獄さえできるようになります。

問:メンデル遺伝学とルイセンコ学説の違いを教えて下さい。
答:どこかの家で生まれた赤ん坊が父親に似ていればメンデル遺伝学的で、隣のご主人に似ていればルイセンコ学説的なのです。

 こうしてソ連の農学会を支配したルイセンコは、自身の擬似科学的な理論を農業の現場に強制していきます。もちろん、政権にとっては都合が良くても科学的に間違っている理論が有効な結果を生むはずがありません。ソ連の農業は大混乱に陥り、それによって起こった食料不足は、最終的にソ連崩壊の大きな原因の一つになりました。

 ソ連の某共和国で発生した飢饉を取材に来た西側のジャーナリストが地元のレストランに入り、スープを注文したところ、なんとハエが3匹も入っていた。怒ったジャーナリストはウェイターを呼びつけて怒鳴った。「何だ、このスープは! ハエが3匹も入っているぞ!」
 ウェイターが小声で言った。「大きな声を出さないで下さい。あなただけ特別なのです。他のお客さんはみんな1匹しか入っていないんですよ。」

 エジプト映画を見た親子が映画館から出てきた。子供が父親に尋ねた。「お父さん、どうしてイスラム教徒は豚肉を食べないの?」
 父親が答えた。「我々だって食べてないじゃないか。」

 肉屋で客が店員に言った。「ソーセージを500グラム計って下さい。」
 店員が答えた。「計りますからソーセージを持ってきて下さい。」

 モスクワの街角で、西側からの観光客が通行人に尋ねた。「この近くで、美味い料理が食べられるレストランはありますか。」
 通行人は答えた。「ヘルシンキにあります。」

 こうした話を「日本は共産主義国家じゃないから」と他人事のように言ってのける人も少なくありませんが、同じようなことは、政治(あるいは宗教)が学問を支配し統制するような体制のもとではどんな国・社会でも起こりうるのです。例えば現在問題になっている菅首相による日本学術会議の任命拒否問題など、方向性としてはソ連が科学者や芸術家に対してやっていたことと変わりありません。

問:スガ首相が自分たちに批判的な学者に対する日本学術会議への任命拒否を行ったのは前例踏襲の見直しでしょうか? それとも学問に対する政治の介入でしょうか?
答:前例を踏襲せずに行われた、学問に対する政治の介入です。

 私自身は、本業が研究職で、さらにアマチュアのクリエイターとして小説や音楽も書いている手前、科学を初めとする学問、さらに芸術などの文化活動を、政権(そして政権に迎合する人たち)が自分たちに従属させようとする動きに無関心ではいられません。そうした圧力は学問や文化の発展にはマイナスでしかありませんし、政治や社会そのものに対しても、それこそルイセンコのニセ科学のように、最終的には害毒しかもたらさないのです。
 気になるのは、最近のメディアやネットの論調が、そうした圧力から学問や表現の自由を守ろうとするのではなく、むしろ「体制に反抗的なインテリどもをみんなで叩いて屈服させてやれ」のような雰囲気になってきていることです。科学的事実の軽視や論理的・実証的な議論の放棄など反知性主義的な姿勢を露骨に見せている米国・トランプ大統領を支持する人が、他の先進国に比べ日本で異常なほど多いのも、こうした社会の空気と無関係ではないでしょう。(例えば米国の大統領選を報じるニュースサイトのコメント欄などを見ていると、「トランプを落選させるため大規模な不正が行われている」「トランプ批判は中国・ロシアに操られたメディアが流すフェイクニュース」という陰謀論そのもののコメントと、それに対する「いいね」で溢れていて背筋が寒くなります。)
 残念ながら日本社会の現状は、インテリ層が潜在的な危険分子と見なされて排除・投獄・虐殺されていったカンボジアのポル・ポト時代と、おそらく皆さんが思っているほど遠く離れてはいないはずです。

問:スガ首相とポル・ポトの違いは何でしょうか?
答:ポル・ポトはスガ首相より恰幅が良く、髪の毛も豊かでした。

 そして今の流れの行き着く先は、かつてソ連で起きたような大規模な頭脳流出と日本の国際的地位の凋落(ちょうらく)ではないかと思います。これについては次回詳しく述べる予定ですが、ここでCMを。

後編はこちら
時事無斎雑話(5) エレバン放送から学問・芸術と政治についての特別番組をお送りします(後編)|MURA Tadasi (村 正)|note

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