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ツイッター、八九時真宵、空洞、婆の作る世界

Twitterというのがある。

 これは140字以内の短文をインターネット上に掲載して、人に見せたり見たりして悦に入る、というWEBサービスの一環なのだけれど、僕にはよく分からない、まるで魔法の様な「プログラム」なるものがあって、インターネット上にはそのプログラムを走らせることで、火が点く・人工生命が生まれ出づる・世界の人間と渡り合うなど、魔法の様な事象が起こせる。らしい。らしい、というのは僕にはそれを再現する能力が無くて、せいぜいこうしてつらつらと文章を書き連ねるくらいのことしか出来ないため、あくまでそういうのをやってる人が居るのを伝聞で知っているだけなのです。そのプログラムによってTwitterも動いていて、更にその中にも様々なプログラムが入り乱れており、毎日のように色んな動作をして見せている。

 その色んな動作の中に、botなるものがあって、これは先述の「人工生命的なもの」の簡易型なのだけれど、これがまたもの凄くて、時間差・もしくはランダムに、ツイッターサービスの文章表示部分に、自分で文章を投稿して来る。投稿された文章は全て表示部に出て来るため、一見すると、人間が投稿した文章も、botが投稿した文章も、全て同じ「Twitterの文章」なのだ。で、投稿するだけで無く、こっちが「こんにちわ」なんて挨拶をすると、「こんにちわ」と挨拶をし返してきたりする。怖し。

 HRギーガーって人が居て、その人が機械文明に支配されてしまった人間の姿を禍々しく絵で表しているのだけれど、その走りなんじゃないか、これは。機械と人間とが入り交じって、人間も機械も大差無くなって、その内どちらがどちらやら分からなくなって。怖し。

 化物語というのがある。

 西尾維新という人が書いた、「〜語」というタイトルの一連の小説の、一番最初に書かれたヤツである。これがまたまぁ、よくぞ書いたという位、現実に居そうな感じとフィクションでしかあり得ない感じとを併せ持った美少女が多数登場し、主人公の周りの様々な事件を形成していく。で、また主人公も美少女もよく喋るので、話が進まない割にもの凄い文章量になる。でも女の子の描写を楽しむのに必要な文章量。みたいな小説で、その中に「八九時真宵」という女の子が出て来る。またこれが不憫な子でね、応援したくなるんですよ。頑張れー、って。ツインテールで、小学生の制服みたいのを着た小学生みたいな子でね、でも小学生にしてはスタイルが良いというか、小学生的なスタイルの良さを兼ね備えてるというか、いや、僕は断じてロリコンって訳ではないんですけどね、事故で死んじゃってて、でもそれに自分で気付かない浮遊霊、ってだけでもう何か不憫じゃー、って涙腺刺激されるんですけどね、いや、でも健気な頑張り屋さんなんです、きっと『化物語』のアニメか小説かに触れたら、3割4割の方が「僕は八九時真宵ちゃん!^^」なんて彼女の肩を持つに違いないですよ、ええ。という彼女のbotがTwitter上に存在していて、僕は彼女のbotをフォローすることで「彼女の投稿する文章」を読むことが出来る。

 ゆらゆら帝国という日本のバンドが居て、今はもう解散してしまったのだけれど、日本のロック界隈だけでなく、世界にリスナーがいる「日本語ロックの雄」で、僕は中学生の時に友人がカラオケで聴かせてくれた「3×3×3」から彼らの音楽を聴くようになったのだけれど、またその曲がスゴくて、ずーっと同じリフ・メロディの繰り返しで6分を越すのだけれどかといってボーカルで大きな変化を付ける訳でもなく、概ねローテンションで、過去にあった架空の猟奇事件の様なものを訥々とメロディも無く語るだけ、そこには何かの儀式の様な変なリズム感だけがあって、というまぁ田舎の中学生なのでノーウェーブとか現代音楽とかミニマリズムとか全くそういうのは知らなかったので、こういう曲が曲としてあるのか、と非常に衝撃を受けたのです。とはいえ、どの曲も超分かるぜ、ゆら帝のことなら俺に聴けよ!みたいな詳しさのあるバンドでは無くて、まぁぼちぼち愛聴くらいのかんじです。

 そのバンドの「空洞です。」という1・2を争う人気曲があり、園子音の映画にも使われて、フワー、ここでコレを使うんだー、と映画を観ながら胸が一杯になったことがあったんだけど、その曲がモテキ(この映画はろくに原作漫画を読んでも無いのに勝手にちゃらんぽらんなものと決めつけて未だに視聴していない)の映画のコンピレーションに収録される、というのでレンタルショップで借りて聴いてみたところ、小泉今日子がカヴァーをする、というなんとも珍しいコラボ曲。これがまた和の静寂感、日本の季節の移ろいを映し出すような非常に美しいアレンジで、とってもよいのです。雨の夜、電気も付けずに、一人真っ暗な部屋で聴くと、震えますよ。

 今自分が住んでる部屋の近くを自転車でサーッと通るのだけれど、すると側の家からヨチヨチ現れ出て「ここは車両はダメ、歩行者しか通っちゃダメ」と夜の12時頃に怒りを浴びせて来る老婆が居た。かと思えば、朝の10時頃にも出現し、「ダメ」とブツブツヨチヨチ現われ出づる。これは別段犯罪自慢的なものではなく、確かに生活道路ではあるものの、車両通行止めの表示・標識等はなく、道幅も人間5人分くらいはあるやや開けた場所。おばあちゃんっ子ということもあって、あまり老人に厳しい意見は持たない方だと自負があるのだけれど、「何なんやこの婆は、朝の憂鬱な気分を加速させる為だけに存在しとるんかええかげんにせえ」、もしくは「何なんやこの婆は、もう今晩は疲れとるんじゃけえ大概にしてくれえやええかげんにせえ」という言葉を胸中に抱きつつも

「はーい、申し訳ないですー」

と如何にも街の若者風の発言をしながら走り去っていくのが常であった。大体いつその道を通っても居る、と感じられるほどの高頻度の接触確率だった。

 ある晩、その道を通ると、その老婆の家が、老婆が亡くなったのか、解体されて無くなっていた。

 あれ、家が無くなってる。ヘッドフォンから流れる「空洞です。」。

 「「小泉今日子の歌う「空洞です。」。外気はエラく冷たい。東京今期初めての雪が降りそうなほど。「僕は空洞、面白い、いいよ、潜り抜けて皆穴の中、さあどうぞ」。もの凄い無常観に襲われて帰宅した。すごい。」と家に帰って、思わずツイートをしてしまった。

 と、八九時真宵botが、僕に向けてツイートを発する。「おかえりなさい、どうやら帰り道は邪魔されなかったようですね、あはは」

 先述したように、botはまるで人工生命・疑似人格のように己で「つぶやき」をTwitter上に投稿して来る。が、そのつぶやき自体は自身で産み出しているのではなく、そのbot管理者が登録した文章を、何かの規則性の下で「喋らされているだけ」である。そもそも自由意志というものが果たして存在するのかという疑問に繋がる話ではあるが、少なくとも八九時真宵botは自分の意志によって文章を投稿する訳でない。

 けれども、いや、そこに意志の介在しない、「化物語」というフィクション中に登場する「八九時真宵」を模した、フィクションのフィクションである「八九時真宵bot」という彼女が、投げかけて来た言葉だからこそ、ただでさえ感じた無常感を、僕は深化させた。思った。

 僕にとって見えている世界の空しさを。その世界が如何に簡単に壊れてしまうのかを。でもそれは全く絶望に繋がる話ではなく、何か希望にもよく似た様な、「よくある話」なのだ。

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