本はなんで買うのか、底には更に底がある、物語は誰かを救う、という話
あるお客様から「何のために本を買うか」という話を聞いた時のこと。2月くらいだったか。
どんな本・漫画を読むのか、という話になった時に、そのお客様が仰られたラインナップが凶悪で、山野一・安達哲・蛭子能収・山田花子・丸尾末広・早見純、とまぁー漫画ばかり出て来る上に、目を背けたくなる様な暗さを感じさせる漫画家さんばかり挙げられるんですよね。
・・・まぁ俺も大好きなラインなので話が非常に合ったんですけど。
で、なんでそんなイヤな気持ちになるようなものを読むか、ということなんですが、俺は「自分の中に無いものが見てみたい」という臆病者の恐いもの見たさ精神がグジリグジリと滲み出した結果で、お化け屋敷とか見世物小屋とか、そんな感じで「自分では作り出せないもの、想像の外側にあるものが見たい」というゲスい思考な訳です。それが如実に反映されるのが、人の意表を突いて恐怖させるホラーであったり、倫理観というルールを取っ払って展開される自由なグランギニョルであったり、会話と会話・文章と文章の偶発的な組み合わせから不定形を見出そうとするシュールであったり、なので、上記の漫画家の漫画の様なヤツを読むのです。
と思っていたら、そのお客様の観点は俺とは違って、
「人生にはものっすごい不幸な瞬間というものがあって、一旦そこにタイミングが上手くというか悪くハマってしまうと、想像も出来ないくらい普段の生活とは違う『底』に落ちていったのが自分の人生なのだけど、でもそこが『底』だと思っていたら、まだそこから落ちていく所があって、で、そこで止まったと思ったらまだ更に落ちていくところがあって、でまだその更に底があって、」
という話を語調を強めて語られるんです。冗談ではなく。俺には想像のつかない『底』。一度の会話で何度「底」って出て来るんだなんてバカバカしい突っ込みが出来ない本気さがあって、とても恐ろしかった。
「だから、お涙頂戴みたいな感動するような話は、もう全部嘘くさくて、全然読めない。誰かが作った残酷な話を読むことで、自分はまだ想像力の範囲内なんだ、まだ大丈夫なんだって思えるから、救われるような気持ちになるから、読みたいんです。」
と。どんな生活して来たんだよ。
自分の方向としては真逆な様な気もするのですが、でも、だから物語に触れるんだよなあと共感し、この一年のココに至るまでで一番印象的だった方。怖さもありました。が、このお客様との関わり合いで改めて「フィクション(物語)はどんな形であっても、必ず誰か(筆者含む)を救う手だてになる」という何となくの自分の思考が、明確化されたイベントでした。
その初回時の衝撃を機に、今でも仲良くさせて頂いてます。