とおりのながめ

 旦那が撮ったのであろうか。小さい女の子と百々目鬼さんが手を繋ぐ写真を観、七郎太は「ウォーターパーク、よしの、ウォーターパァ、」とパァのごときになった。七郎太が口から漏らす言葉・彼の現状撒き散らす雰囲気は、端的に言って気持ちの悪いものであった。しかし、自室でマウスを痛打する彼が、そうした容姿・風体への客観的批評を受け入れる必要は今、全く、無かった。
 七郎太はあまり人好きのする人間でなく、人付き合いも悪い。仕事から帰って来て、飯を食いながらネットサーフィンでもしよう、といつもの様にPCを立ち上げたところ、受信したメールの中に「30歳を記念して同窓会をしよう」というフェイスブックの呼び掛けを見つけた。
 この「フェイスブック」というヤツの良さが七郎太にはよく分からない。概して七郎太にはSNSというものの魅力が分からず、何故仕事で人間に触れ合い、更にネット上でも人と関わろうとするのか。特に実際的繋がりを前提としたこのフェイスブック、職場でほぼ強制的に加入させられたものだが、あれよあれよと言う間に中高の同級生が「友達」の項に追加されてしまった。何故一時を同じ教室で過ごしたというだけで結婚式を突如訳知り顔でいいね!したり、人んちの子の成長を見ていいね!すんのか分かんない。なんで?
 まぁフェイスブックの良さが分かんないのはとりあえずとして、同窓会なんて。最初は無視しようとした。頑張って行ってみたところで、たとえば地元有力企業の幹部候補、チェーン店で修行して洒落たカフェバーを始めた店主、幸せげなお嫁さん、なぞを見て、学生時分のバイトからなし崩し的に社員になったレンタルビデオ屋の社員・独身童貞である自分がどんな雰囲気で評価を受けるか・どんな風に見られるかなんて考えたくも無かった。(大手のレンタルチェーンは「レンタル」一本は危険だと考え、既にコミックレンタル・カフェ・中古家電売買などに進出しているようだが、県内有数のチェーンとはいえ、七郎太の所属する一代で築き上げられた会社は、業績悪化にもめげずよりよい品揃え・より良い接客を標榜しており、どうにもネガティヴなシンキングを抱えた七郎太にとってそれは死出の道行きのような思いがあった)
 地元で暮らす割に、高校の同級生などとほとんど付き合いもなく、休みの日は一人暮らしの部屋に籠って、社割で借りて来た新作の映画を観る・購入してきたゲームをする、などして職場の外の人間と関わりを持たず生活する七郎太にとって、同窓会とは面倒臭さばかりのイベントであった。が、そのフェイスブックのイベントページには日時・場所・概要の他に「ディスカッション」なる項があり、参加者達が「やったー!開催ありがとう♡」「皆さまに久々にお会い出来るのを楽しみにしております!」「おっしゃ、3組全員集合!もち全員来れるよな!」「子ども連れてってだいじょぶ〜?」「おー、久々にハメを外せます」「お前別にいっつも外してんだろ」「おけー」といった多量の書き込みで津波を引き起こしていた。七郎太の感覚的にはそのリアクションの全てが総体として苦手な空気に感じられ、ウッ、と思った。しかし、その中にある名前を見つけた。
 ''Ichiko Dodomeki'' 百々目鬼一子。この顔。バスケ部でマネージャーをやっていた。将棋部であった七郎太とは「クラスメイト」ということ以外での関わりは無かったが、活発な雰囲気の割に何と無しにクラスの女子生徒から距離を置かれ(「バスケ部の顧問と出来ている」という噂があったせいだろうか)、何と無しに話し相手があまりいなかったせいか、隣の席の七郎太とよく喋っていた。それはテレビ番組やニュース、テストや学校行事といった、何でもない日常的な会話だったが、他の女生徒とほぼ関わりの無い七郎太にとって、些細な会話の端々の、彼女の顔の移り変わり・首を回す時にショートカットの髪からふわ、と香る好い匂い・手の表情・同年代の女性ならではの空気感・周囲に無秩序にばら撒かれる生命力、それらは確実に「学校に行くこと」の楽しみの一つであり、流石にそこまで楽観的には育って来なかったので、彼女が自分のことを好いている、なんてことは思わなかったけれども、まぁ年頃の男なのでネタにするとまでは行かずともちょっぴり性的な目で見たりいや絶対にネタにしなかったと言い切るものではないけどもそれはともかく、母親・教師以外の、「日常空間の中に居る意識出来る女性」が、唯一彼女だったのだ。
 彼女はもう結婚したのだろうか。少し昂りながら、名前をクリックしてみる。
 ケーキを口に頬張る瞬間の自身の写真がアイコン画像になっている。その下に、ご丁寧に出身校・出身地が記載されている。その下にハートマーク、既婚、とも。ご丁寧だ。
 チャンスがあったとも思えないが、少し気持ちが盛り上がった分、引き戻されるゴムの様に気持ちが暗いところへ落ちた。ハァ。やっぱり俺には何のチャンスも無い。いや、チャンスなんて厚かましい、百々目鬼さんが結婚していなかったら何なのか、20年近く会っても無いただ同じクラスだったというだけの俺が、どんなキッカケで「百々目鬼さんとのチャンス」を望めるのか。滅茶苦茶面倒臭い気持ちになって来た、女と関係を持つチャンスなんて俺の人生には無い、このまま、童貞のまま俺は死ぬ、それが俺の人生の道程というものなのだろう、とどんよりした顔をモニターに向けると、「在住」という項目まである。ちょっと不用心過ぎはしないか、と他人事ながら心配になる。
 「徳島県阿波市」。在住の項目にはそう書かれていた。えっ。不可思議を通り越して、不可解な気持ちすら湧いてくる。青森県十和田市。現代美術館がある。青森から出て来た訳では無いけど、草間彌生の水玉のカボチャみたいなのが置いてある。この青森の町から、徳島。
 勿論、日本にそういう県があるのは知ってる。阿波っていうと、阿波踊りなのか。七郎太が行ったことのある一番南の都市が、東京であった。社員研修の一環で初めて訪れた。行ったことは無いが大阪があるのは分かる、京都もあろうし、えー、広島?も何か戦争とかカープとか。九州、はよく分かんないけど、福岡がでっかくてラーメン。も分かる。が、四国とは。坂本龍馬?ぜよ?あれはえー、こうち、高知か。坊ちゃん、えー、夏目漱石。中学校の時やった?あれはー、愛媛。みかん。で、うどんが香川か。となると徳島、なんだろう。阿波踊りの阿波って徳島だったのか。その位、これまでの人生において「徳島」について考える瞬間が無かった。四十七都道府県、勿論全部言われれば「県名」だと理解は出来る。が、具体的なイメージを結び付けるには、余りに七郎太は青森から出た事が無かった。まるで、百々目鬼さんが今住もうて居るのは、全く自分の埒外の、外国にでも住んで居るような感覚だ。フェイスブックの横にもう一つタブを開き、検索欄に「ぐーぐるまっぷ」と打ち込む。マップが出て来るので、更に「徳島県阿波市」と打ち込んで、出て来た画面を拡大してみる、観る。
 なるほどな、という感想しか出て来なかった。土地勘が無いのでどのポイントを拡大すれば自分にとって面白いのか、も分からないし、まして百々目鬼さんがフェイスブックに記して居るのは「市」まで。別段Google マップから相手の家がどこにあるのか分かる訳じゃ無いしな、という所まで考えて、七郎太はストーカー地味て来た自分の思考に苦笑いと共に気色の悪さを覚えた。幾ら相手が目の前に居ないからって、昔ちょっと気になった女の子をネットストーキング、とは。やれやれ。変に熱中している間に、レンジの中ですっかり冷めてしまったであろうコンビニ弁当の存在を思い出し(いつもは一応野菜を気にしてみたりするが、明日は休みだ、と思って今日は500mlの缶チューハイ2本と焼肉弁当、ポテチを一袋だ)、再加熱するか、と立ち上がりかけたところで、モニターの中に、写真を見つけた。プールを背景にピースをする写真だ。
 旦那が撮ったのであろうか。「姪っ子のいとちゃんと来ました!」と、7歳くらいの女の子と百々目鬼さんが手を繋ぎ、笑顔の二人が眩しいピースをこちらに見せている。まぁポーズは何でも良いし、いとちゃんとやらもどうでも良い。問題は百々目鬼さんの格好であった。一見するとスクール水着のようにも見える、青い競泳水着。水着の隠していない、腕の付け根。水着が覆い隠す、巨大では無いけれども確実に其処に在るということを主張はしている、胸。清い水が流れたようにスラっと美しい曲線を描く身体のライン。下半身の布はまた切れ込みが強く、脚の側面は全て露出している。あの頃表面的にはおクビにも出さなかった(出さない様に気を付けていた)彼女への欲望が、自分への苦笑で落ち着いた感覚が、急速に鎌首をもたげた。だって、だって。頭で思い描いた彼女の裸体が、厳密には裸体では無かったが、七郎太にとって彼女の水着姿は裸体も同然であった。裸体だった。「阿波市 プール」と入力すると、「吉野ウォーターパーク」という施設が現れた。写真の遠景に映るウォータースライダーは、正にその施設の其れであった。
「よし、よしの!よしのウォー、ウォーター、パーク!ウォーター!」
かちかちぱたぱたと、クリックと入力を繰り返す七郎太の口から零れる、元は意味のあった、今は七郎太によって意味をバラバラに解体された、固有名詞。
 七郎太が画面をクリックしまくっていると、マップからストリートビューへ遷移した。ストリートビューはGoogleが撮影した路上のパノラマ写真を、移動・拡大・縮小しながら閲覧することが出来る機能だ。吉野ウォーターパーク内に立ち入ることは出来ないが、周囲の道路の様子を見ることは可能である。
「よしのぉ、よしのウォーター、よしのぉ」
七郎太は画面のアチコチをクリックしていた。まるでインターネット黎明期のHP上で、隠しリンクを探す人のように。けれどもストリートビューはあくまで「撮影した画像を閲覧・操作出来る」機能に過ぎない。Googleが撮影していない通路・場所を表示することは出来ない。しかし七郎太の思考は一時の恐慌に陥り、「画面を操作して百々目鬼さんに会う」という、不合理・不条理、狂人の論理で以って動いていた。人差し指と中指の非常識な連打を喰らうマウスは今にも潰えそうだし、時折押されるキーボードの十字キーへのタッチはネッチリとしている。ばちんだんがちかちかちかちかち、かちっかちかち。何度も吉野ウォーターパークの周りを行く、七郎太の動きを代替する黄色い人型のアイコンは、グルグルと同じ所を周り過ぎて、今にもバターになってしまいそう。ぐる、かち。ぐるぐるかちかち。ぐるぐるかちかちぐるぐるかちかちぐるぐるかちかちぐるぐるかちかちぐるぐるかちかちぐるぐるかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち
 執念・執念さのためであろうか。七郎太が目ざめたとき、自分がマップの上で一体の黄色い人型のアイコンに変わってしまっているのに気がついた。
 思いは次元の壁を超えて、七郎太をGoogleマップの上に召喚してしまったのだった。異世界転生。少し自分の境遇を不安に思ったが、そんな事より百々目鬼さんだ。
 広いグラウンドを保有する吉野スポーツセンター。その南側に位置するのが吉野ウォーターパークだ。夏季のみ解放されているが、市民でなくとも料金を払えば利用することが出来る。この中に百々目鬼さんが。七郎太は一歩踏み出す。横断歩道を渡って入ろうとした。前に進めなかった。障壁などではなく、「世界が作られていない」のだった。当然だった。黄色い人型のアイコンが進入出来るのは「Googleが撮影した場所」のみだ。いや、そもそも今この目の前にある吉野スポーツセンターは「Googleが撮影しに来た日の吉野スポーツセンター」であり、決して「百々目鬼さんが遊びに来た日の吉野スポーツセンター」では無い。更にいやいや、仮に求める日の吉野スポーツセンターだったとして、ストリートビュー上に現れる人影は肖像権を保護するために顔がボカしてある。まるでエドヴァルド・ムンクの「叫び」の、橋の向こうに居る人のように、それは人であるかどうかすら定かで無い。
 小一時間周囲を歩き、七郎太は少し冷静になって、自身の現状を把握した。そして、百々目鬼さんがどうとかってレベルでは無い、ボケた顔の人間だかなんだか分かんないオブジェクトは話し掛けても何の反応もない、仮にこの状態から、ストリートビューから抜け出せないとすれば、自分はもう誰とも関わることが出来ないのだ、と理解した。七郎太はあまり人好きのする人間でなく、人付き合いも悪い。それでも誰とも関わることが出来ないのだと思うと、人と関わりたい・誰かと交わりたい気持ちが滲んで来たことを感じた。でも関われない。地獄。
 とはいえよく分からんオブジェクト同様、七郎太は自身も人間でないものに、「ストリートビューの人型のアイコン」に、なっていることを理解しつつあった。生物的な疲労・空腹を感じない、不思議な肉体。いや、今の自分に肉体は無く、もしかするとこれは意識だけ、幽霊のような状態で、もしかすると今でも自分の肉体はあの部屋でネットサーフィンしてるんじゃないか。
 眠る必要もなく、食う必要もない。となると、歩くしかない。俺は「ストリートビューの黄色いやつ」なんだ。誰とも関われない。肉体的・精神的な欲望を満たすことも出来ない。それでもグーグルが用意した「道」がある。自分の意志で以って、どこに行くかを選べる。無限に続く地獄とも言えるかもしれない、けど今までの生活にどれほどの意味があったか。今までの人生が、この地獄に対比出来るほどの天国だなんて言えるのか。歩くしかないなら歩け。現状を抜け出せるかどうかじゃない、「グーグルが撮影した場所」しか歩けないかもしれない、でも今のたった一人の、いや、前から俺は一人だったのか。一人の俺にとってはそれでも無限ほどの場所が、歩ける場所なのかもしれない。ならば寝てる場合じゃ、絶望してる場合じゃない、歩け。歩け。
 七郎太はなし崩し的に流れて来た人生に、なし崩し的に現れてしまった現状に見切りを付けて、もしかすると初めてかもしれない自分の意志で踏み出す足を、改めて県道137号、徳島・鳴門方面へ向かう道路へ、乗せた。



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