クソみたいなことを書いてクソみたいな気分になった

僕は幸せな人間だ。家族から愛されて育ち、多くはないかもしれないけれど、素晴らしい友人たちに恵まれている。時には辛いこともあった。けれどもそれはこの軟弱な肉体ですら耐えられる程度のものであって、不幸の自慢をするにはあまりにも心許ない。そもそも自分は自分が不幸でないことを憂いたりするくらいだし、不幸でないが故に不幸だなどと時に言葉の遊戯めいたものを口走ったりするけれども、それが切実なものでない以上、その貧困な言葉には貧困以外の何物も含まれてはいまい。

それなのに自分はどうしようもなく怠惰で、怠惰ゆえに寝苦しくなる。寝苦しくなるから日中に惰眠を貪り、その反動で怠惰が必然的に去来する。これは不幸の連鎖であろうか。否。これは怠惰の連鎖である。それはかつての怠惰でなかった自分が憧れた怠惰であるけれども、夢の中で見た怠惰はもっと明るく、楽しそうで、キラキラと輝いていた。だから明日こそは怠惰からおさらばしようと思う。

しかし白い壁に宿命のように染み付いたカビのように、怠惰はわずかな期間でその刻印を永遠に残し続けるのだ。僕は幸せな人間だ。怠惰なのに生きている。怠惰だから夢見がちになり、遠い先にある輝かしい未来を想像してほくそ笑んだりする。しかしそれはあくまで怠惰の代物だ。堕落した先に何やら芸術が浮かび上がってくるような気がするのは、人並み程度に文学にかぶれた人間が陥るどうしようもない錯覚である。僕はそれが錯覚であることを知っている。だから怠惰とおさらばして真っ当に生きて行くか、怠惰を背負った上で夢見がちな自分を肯定するのか、それを選択しなければならない。しかし本当に怠惰が染みついてしまった人間は、選択することを極度に恐れてしまう。選択肢の選ばなかった方が正解であったときのことを想像して、選択を放棄するという選択肢を選ぶ。それは既存の枠組みから逸脱しようとする、一見革新的で肯定的な何かであるように見えるけれど、そのように見えるのは、ただ自分の選択を肯定したいという浅はかな欲望がそのように錯覚させているからに過ぎない。

僕は錯覚をし続けている。錯覚を錯覚であると確信した上で、錯覚の上に築かれた絢爛豪華な屋敷とやらに、どんと腰を据えてだらしなく生きている。僕にはそれが虚像であることがわかっている。そこに住み続けることはできない。いつか煙のように消えてしまうその屋敷は、それでも僕の唯一のよりどころなのだから。

何かを決意したような気になって、それでいい気になって、他人とは違うんだと自分を肯定したところで、それはあくまで自分の怠惰がもたらした虚像にすぎない。そんなことはわかっている、けれども怠惰は僕の理解を無理解に変貌させ、夢見がちな自分という多くの人間に肯定されうる主人公へと自分を屈折させ、好きな人間も、自分を好いてくれる人間も、誰しもを裏切って、誰しもに失望され、近い将来にひとり孤独に陥るだろうけれど、それを感じているくせにどこか自分に期待してしまい、今の不幸をも将来への糧だとか適当な言い訳をつけて理解し、怠惰をいつまでも肯定してしまうのだ。こんな誰にも読まれない、読まれたくない文章ですら、自分ですら到底理解できないプライドとやらに触発され、何度も推敲したりなどして、それで自分の自尊心を保っているのがなんとも憎らしいのだけれど、そんな自分を美意識などという造花で飾り立て、いつまでも自分を肯定し続けている。否定されたくないからせめて自分で自分を肯定する。それは未来永劫怠惰であり続けたいという怠惰の極地であるはずなのに、そのことを自分では痛いほど理解しているつもりなのに、その軛から逃れられずに苦しんでいるふりをしている。


喉から手が出ちゃう