日本政府はミャンマー国軍が市民を殺害し続けることを黙認するのか?!

4月9日、インターネットメディアのMyanmar Now によると、ミャンマー(ビルマ)で国軍によるクーデターが発生してから二ヵ月の間に死者が600人を超え、悪化する一方のミャンマー(ビルマ)情勢を受け、韓国を含む15の国と地域の駐ミャンマー大使らが、「暴力の停止、政治囚の釈放、民主主義の回復」を求めて署名した共同声明を発表した。驚いたことに、そこには日本の駐ミャンマー大使は含まれていない。絶句した。ありえないと思ったが、Japan はない。

署名したのは Australia, Canada, European Union & members of EU with presence in Myanmar(Czech Republic, Denmark, Finland, France, Germany, Italy, Netherland, Spain, Sweden, Switzerland), New Zealand, Korea, U.S. and UK.( https://twitter.com/Myanmar_Now_Eng/status/1380447564781223941)

確かに、外務省は茂木外務大臣名で3月27日にクーデター政権による無抵抗の市民の殺戮を非難し、止めるように要請した独自の声明を発表している。しかし、韓国も含まれるこの共同声明に参加していないのは一体どうしたことだろう?とりわけ、日本がミャンマー(ビルマ)に対し、政府開発援助(ODA)最大の供与国であるならば、尚のこと、影響力行使が求められるのは当然だ。ちなみに、有償無償資金協力と技術協力を合わせたODAの総額はこれまでに約1兆5600億円というずば抜けた金額だ。

(山本注:日本のODAが軍事転用されてきた事実が明るみででたのは1988年の軍事クーデターの際だ。民主化を求める市民に対する国軍の武力弾圧で約3000人が殺されたと指摘されるが、その際に明らかになったのが、工業化支援として民生用だった日野トラック(現HINO)が国軍用のトラックに化け、民生用だった東洋工業(現マツダ)の軽車両が国軍のジープに軍事転用されていた事実が明るみで出て大きな問題となった。私自身も89年にヤンゴン市内でカーキ色の日野トラックが国軍に活用され、市民に恐怖感を与えている現場を撮影している)

SNSでは、クーデター政権に抗議するデモに対して残忍としか形容できない国軍と治安部隊による軍事的弾圧による市民の死者が毎日毎日増えるばかりで、国軍による虐殺が止まる気配はない。そうしたニュースの中で、最近一際ショックを受けたのが、以下に日本語訳(Twitterアカウントの三毛猫の母さんの訳による)で転載する、22歳の学生が残忍な攻撃で両手両足に銃弾を受け、失明寸前にまでなった経緯を詳細に報じる記事。どうか、最後まで読んでほしい。

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Myanmar Now からの日本語訳

ミャンマー国軍の残忍な攻撃によって一生涯の傷を負ったエンジニアの卵は、同世代の象徴となる

・22歳のHlyan Phyo Aung(フラヤンピョーアウン=仮表記)の運命は、ミャンマーが比較的自由であった短い時代に生まれてきた人々の最悪の恐怖を物語る。

2週間前、22歳のHlyan Phyo Aungは、土木技師として将来を嘱望される活発な若者だった。しかし、同世代の人々と同様に、軍が政権を握ってから2カ月も経たないうちに、彼の将来は劇的に悪化してしまった。政権が維持されれば大きな損失を被る者として、彼はそうならないようにしたいと考えていた。

だからこそ、3月27日の朝、彼は軍事政権の終結を求めて集まった全国の何十万人もの若者の一人となった。彼の場合は、故郷のマグウェイでの抗議活動に参加していたのだが、その日の残忍な弾圧は、Hlyan Phyo Aungの人生を永遠に変えてしまうことになった。

軍の攻撃は朝早くから始まった。午前6時頃、政府軍は街のアウンミッター・ロータリー付近に集まったデモ参加者に催涙ガスや閃光弾を投げつけ始め、彼らを四方八方から包囲した。

Hlyan Phyo Aungは、他の参加者たちと同じように、攻撃されているように見えない方向に走って猛攻撃から逃れようとした。その時、近くで爆発音がして、彼は地面に倒れた。数秒後、彼は重装備の兵士に囲まれ、そのうちの一人が手を挙げるようにと命令した。そのとき、Hlyan Phyo Aungは自分の右腕から血が流れ落ちていることに気づき、その瞬間、彼は爆発で手の一部が引き裂かれていると知った。

「それで 、お前の「お母さん」 は今どこにいるんだ?」と兵士は嘲笑し、追放された文民政府の指導者アウンサンスーチーに言及した。

そして、一瞬のためらいもなく、兵士はHlyan Phyo Aungの手を直接撃ち、完全に吹き飛ばしたと、少し離れた場所でこの惨状を目撃した別のデモ参加者は語る。

「ひざまずいていた彼の手を至近距離から撃ったのです。そして、その手はすぐに飛ばされ地面に落ちました」と、その抗議者は匿名を条件にMyanmar Nowに語った。

しかし、Hlyan Phyo Aungの試練は終わりではなかった。別の兵士が彼に近づき、彼の残りの手にゴム弾を数発撃ち込んだのだ。Hlyan Phyo Aungは体を支えることができずに前のめりに倒れると、数名の兵士が彼の顔を繰り返し蹴飛ばした、と目撃者は言った。

思わぬ救出劇

もし、他の15人のデモ参加者がHlyan Phyo Aungを守るために駆けつけていなければ、この事件がHlyan Phyo Aungの死につながっていたことは間違いないだろう。彼らは、自分たちが逮捕されるか、それ以上のことをされると確信していたにもかかわらず、このような行動をとったのである。

兵士が無力な被害者を殴り続けている間、デモ参加者の何人かが、意識を失っていたHlyan Phyo Aungの体の上に身を投げ出し、殴打を止めさせた。

「兵士たちはHlyan Phyo Aungの顔や足を蹴ったり殴ったりしていましたが、デモ参加者が彼の体に覆いかぶさってきました。兵士たちは、Hlyan Phyo Aungに覆いかぶさったデモ参加者の体からはみ出た彼の足も撃ったのです。やめてくれと言った男の人が、銃床で頭を殴られていました」。

結果的に、Hlyan Phyo Aungを助けに来た人たちは全員逮捕されたが、この思わぬ救出劇のきっかけは、この凶暴な襲撃が始まったときに近くにいた女性が(抵抗を意味する)三本指を立て、クーデター反対のスローガンを唱え始めたからだと目撃者は語っている。

この日、逮捕された他の重傷のデモ参加者と同様に、Hlyan Phyo Aungは軍の病院に搬送された。彼を助けようとした参加者のおかげで、彼の傷は命を奪うようなものではなかったが、彼の輝かしいと思われた将来に暗雲がたちこめるようになった。

親しい友人によると、Hlyan Phyo Aungnの右手は手首から切断され、左手もおそらく永久に使えなくなるだろうという。8発も撃たれた左足は切断しなければならなくなるだろうという。さらに、右大腿部には2発の銃創があり、顔にも重傷を負った。

この友人が4月4日にMyanmar Nowに語ったところによると、顔の近くで武器が発射されたことによってHlyan Phyo Aungの両目に生じた損傷を、軍病院の医師たちが治療することができなかったと述べ、私立病院で治療を受ける許可も得られなかったと付け加えた。

政権の犯罪

Hlyan Phyo Aungが軍病院から解放されないのは、彼に生涯にわたる障害を負わせた軍政の目に、彼は犯罪者だからだ。彼は刑法505条a違反の扇動罪で起訴され、軍の支配に抵抗した罪として最高で懲役3年の刑を受けることになる。

一方、友人によると、健康体の彼に軍が与えたダメージを修復するためには、今後数ヶ月の間に何度も手術を受ける必要があるという。しかし、国の発展に貢献することを夢見ていた土木工学を学ぶ3年生の彼が学業を続けるためには、手術だけでは十分ではないようだ。

Hein Htetという名前を使ってFacebookに投稿している父親は、「(息子の)意識が戻ったとき、右手がないのにどうやって線を描くのかと聞かれた」と書いた。「(息子が)左目だけでどうやって文字を読めますか?前歯全部がないのにどうやって会話できますか?」 

「息子は、軍によって破壊された手にはめていた、母親から誕生日プレゼントとしてもらった指輪を取り戻すと誓いました」と父親は続けた。「友人たちが以前のように自分を愛してくれるかどうかも尋ねました」

「私たちの息子は、私たちにとって常に非のうちどころがなく、いつも正義の味方でいてくれました。彼が全快するには随分と時間がかかるでしょう。もしこの後、刑務所に送られたら、彼はとても孤独になるでしょう」と、父親は3月29日に書いている。

家族はメディアに対し、Hlyan Phyo Aungの容態や彼に対する容疑について話すことを拒んでいる。

2月1日のクーデター以降、少なくとも46人の子どもを含む600人以上の人々を殺害してきた政権の広報担当から、この件に関るMyanmar Nowの問い合わせに対してはコメントを得られていない。

(日本語の文責、掲載責任は山本宗補にあります)

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かつての戦争中、日本は英領だったビルマを3年半占領した。戦後は一貫して政府開発援助(ODA)最大の供与国となってきた経緯がある。かつて、民生用が国軍用のトラックに化け、民生用の軽車両が国軍のジープに軍事転用されていたことも事実だ。

ミャンマーのクーデター軍政に対し、国際社会に向け、日本政府は本気で怒り悲しみ、非暴力の市民に対する暴力的弾圧と殺害を即時に停止することを首相声明で出す責任がある。ODAが国軍の資金源になることをストップする責任が日本政府にはある。

国軍による残忍極まるこのニュースが、まるで傍観者のような態度を取り続ける日本政府に対して国民の怒りを伝える一助となることを願い、涙と怒りなしには読めないこの記事を公開し、広く拡散をされることを期待します。

以下はオリジナルの英文記事冒頭です。リンクを貼っておきます。

Two weeks ago, 22-year-old Hlyan Phyo Aung was an active young man with a promising future as a civil engineer. That was despite the fact that, like others of his generation, his prospects had taken a dramatic turn for the worse when the military seized power less than two months earlier. As someone with a great deal to lose if the regime held onto power, he was determined to make sure that didn’t happen.

That’s why, on the morning of March 27, he was one of hundreds of thousands of young people around the country who had turned out to demand an end to military rule. In his case, he had joined a protest in his hometown of Magway, where a brutal crackdown that day that would change Hlyan Phyo Aung’s life forever.

https://www.myanmar-now.org/en/news/aspiring-engineer-maimed-in-sadistic-attack-becomes-an-emblem-of-his-generation

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