1,狭山茶ミステリーも不可解なこと
本日のnoteからしばらくの間「狭山茶ミステリー」というタイトルで書いていきます。その理由は日本茶の歴史が日本人に正しく伝わっているとは言えないからです。
温故知新、故きを温ねて新しきを知ることにより、日本はより魅力的になることでしょう。
noteは中学生に理解できるくらいに易しく書くほうが賢明であると言われることは承知していますが、「狭山茶ミステリー」シリーズは私個人の生きた記録であり、いつの日か内容の一部でも学校の教科書で紹介されること願っていますので難解な部分も含まれます。
総論としては、日本茶の歴史解明は始まったばかりであるということです。
なお、これまでのnoteと異なり「である調」でも書かせていただきます。
狭山茶のはなし - 埼玉県 (saitama.lg.jp)
歴史
日本で茶の木が育てられるようになったのは、今から800年ぐらい前のことです。中国へ行っていたお坊さんが、茶の木の種を持ちかえり畑に蒔いたのが、その始まりと言われています。
それからしばらく時がたって、今の川越(「河越」)に茶の木を植えたのが、もとになったと言われています。これが今の「狭山茶」の始まりです。
埼玉県で今のように盛んにお茶の栽培が行われるようになったのは江戸時代の中頃からで、地域の特産物として栽培が普及し、産地も拡大していきました。
1,狭山茶ミステリー 不可解なこと
本noteの最初に狭山茶ミステリー、つまり「不可解なこと、理解に苦しむこと」とは何かを整理しておきます。
「不可解なこと」とは、現在流通している狭山茶の発祥地が川越(河越)であると決めつけている理由です。そして、狭山茶の発祥地が川越ではないことを埼玉県が認めない姿勢を貫いていることです。
以下の一文を読みください。
「史料で読み解く 狭山茶の歴史」より
内容
中世に武蔵国の銘茶として名を馳せた「河越茶」・「慈光茶」がその名を消してから数百年、廃れていた茶作りの場を狭山丘陵の麓に開き、東日本で初の「宇治製法」の蒸し製煎茶として「狭山茶」が誕生しました。本書では、狭山茶が初取引された200年前を中心に、その「前」と「後」の時代を取り上げ、埼玉県における茶作りの「発祥」と「復興」の歴史を、古文書などの史料から再検証し、新しい狭山茶の歴史像を描き出します。
<引用終了>
史料で読み解く狭山茶の歴史|入間市博物館 アリット (city.iruma.saitama.jp)
麓(ふもと)とは、広辞苑には「山の下方の部分。山のすそ」記されています。「茶作りの場を狭山丘陵の麓」にと書かれていますが、狭山丘陵を分かりやすく説明すると「狭山湖、多摩湖、西武ドーム、トトロの森がある丘陵」です。北側の「麓」は所沢市と入間市(宮寺、二本木地区)ですが南側の「麓」は西は東京都西多摩郡瑞穂町、武蔵村山市、東大和市、東村山市へと続きます。
ウィキペディアより
狭山丘陵は、日本の関東平野西方、埼玉県と東京都の都県境に東西11km、南北4km、総面積約3,500haの規模で広がる丘陵である。最高地点の標高は194m。周囲は武蔵野台地となっている。 東京都では狭山丘陵を首都圏に浮かぶ「緑の島」と称して、官民合わせて保全に努めている。
<引用終了>
狭山丘陵 - Wikipedia
以上の事実から一文の前段は、「茶作りの場を狭山丘陵の麓に開き」とは、川越とは全く違う場所で茶作りの場を開き、(現在の)狭山茶が誕生したと読み取れるということです。確かに現在飲まれているお茶が庶民の飲料となったのは、中国から伝わった茶作りを進化させてきた先人たちの労苦の賜物でしょうが、狭山茶 = 河越茶であるという結論に結び付けるのは乱暴であると筆者には思えます。