7,狭山茶ミステリ― 大化の改新と大和
狭山茶ミステリ―を解明するためには日本史を再認識することが大切です。前回「狭山茶の発祥地は河越ではなく入間市に存在した元狭山村」という新説を述べました。今回からその根拠を示していきます。
流れは、大化の改新→高句麗からの渡来人→平城京遷都→鎌倉幕府と「茶禅一味」→天領地元狭山村へと進んでいきます。
話は今から2500年ほど前にさかのぼります。
紀元後500年頃、日本に移り住んだ朝鮮民族も日本民族も相変わらずの中国からの干渉に困り果て、日朝共同プロジェクトで「和」の国、つまり「日本民族」+「朝鮮民族」の「和の国」をつくることになり、中国から「和の国」を守るための「府」を設営することになりました。
「府」とは、現在の内閣府の「府」です。
「府」の中心が「府中」であり、現在も東京と広島の交通の拠点に地名が残っています。ちなみに小田原に鎌倉幕府の「国府」が設けられ、今でも「国府本郷」という地名が見受けられます。
そして、聖徳太子の登場です。聖徳太子が実在したという見方と実在しなかったという見方がありますが、どちらでも良いことです。歴史を知る上で必要なのは、その時に「国家」として民族が生き延びるためのシステムがはじめて構築されたという事実を知ることです。集団を構成する人々がしてはいけないことやしなくてはいけないことが決められ、天皇を中心とした政治体制が築き上げられたことです。「和をもって尊しとなす」とは「波風を立てずに妥協し調和すること」ではなく、「異見を尊重し調和すること」であり、算数の「和」と同じ、足し算をすることなのです。これを今のことばで表すと、「WIN―WIN」するということになります。
さらに年月は流れ、「オリジナルの日本人」「中国からの渡来人」「朝鮮からの渡来人」の交配が進み、言葉や文化も一体化してきたところで、時のリーダーたちは「和の国」から、さらに一体化を進める「大きな和」つまり「大和」の国づくりを国策として実行に移すことになったのです。それが現在の奈良の大和です。
ウィキペディアより
大和(やまと)は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。
ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)[1]に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ[2]、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた[3][4]。
<引用終了>
そして、大化の改新という大改革が行われます。ここで理解しておかなくてはならないのは改新と改革の違いです。改善と改新は、過去の延長線上で新しくしたり、良くしたりすることです。一方の改革は、過去を否定して(スクラップして)全く新しいことを始めるということです。
歴史を知るには、改革したり倒幕したりした人たちの思想を知ることが極めて重要です。なぜならば、全ての改革は変える決定権のある人々の思想からなされるのですから。
※繰り返しになりますが、NHKの大河ドラマがそうであるように、「そうかな、と思います」ではストーリーを展開していていけません。故に、断定的な書き回しになることをご理解いただきたいと思います。
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