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うちの前にはバス停がある
うちの前にはバス停がある。低いポールに頭がついた、小さなバス停看板が置かれているだけで、本当にバスが止まるのか不安になるような作りではあるけれど、ある。
最寄り駅までは徒歩18分の住宅街だ。建物はひしめきあっているというわけではなく、お互いに適度な距離を保ち、そのあいまあいまに充分な量以上の緑や木々が茂っている。そういう場所ではあるけれど、駅まで歩けない距離ではない。事実、アパートの他の住人がバス停に立っているのを見たことはないから、きっと歩いているのだろうと思う。
私もここに来たばかりのころはそうしていた。けれど負けた。一度知ったら抗えなくなってしまった。徒歩30秒の、バス停の誘惑に。そうしてほとんど毎日、私はバスに乗る。
平日、とくに朝は、だいたいおなじ顔ぶれが乗るバスに乗るために、休日は休日のみ運行しているショッピングモールの送迎バスに乗るために、低いポールに頭がついただけの小さなバス停にお世話になっている。
そんなバス停で今朝、おばあさんに会った。
部屋を出てすぐ、そこにおばあさんが居ることに気が付いた。見たことのないおばあさんだった。おばあさんは小さなバス停の低いポールのすぐ脇に立ち、右側に首を伸ばすようにして、道路の様子を伺っている。
私が歩いていくと、おばあさんは、あきらかに「安心した」とわかる顔をして言った。
「お買い物バスの乗り場はここでだいじょうぶでしょうか?」
「だいじょうぶです。ここです」
「よかった。初めてなのです。お買い物をしてみようかな、と思って。わたくし越して来たばかりで。福岡から」
おばあさんは嬉しそうな声で話す。
「そうですか、福岡から」
こんな、本当にバスが止まるのか不安になるような小さなバス停を初めて使うのだったら、そりゃあ、心配だっただろう。引っ越して来たばかりならなおさらだろうな、と思う。
「はい、福岡から。ひとりでは危ないだろうからって、息子夫婦といっしょに暮らすことになって。うふふ、わたくしもう82歳のおばあちゃんなのよ」
「そうなんですか」
可愛らしく笑うおばあさんにつられて、私もほほえむ。
おばあさんだ、とは認識したけれど、まさかそんなにご高齢とは思わなかった。82歳で、知らない街で、小さなバス停で、どう考えても不安だろう。私だったら出掛けようなんて考えられないかもしれない。
「いいですね、お買い物バスで連れて行ってもらえるなんて。いっしょに暮らすっていっても、若い人には若い人の時間がありますからね、どんなことでもひとりでもできる方法があるっていうのは、ありがたいことですね」
やさしく笑っているような雰囲気で、おばあさんは話をする。
おばあさんは私の想像する82歳とはちがっていた。ずっと若々しく、可愛らしかった。よく見てみると、白く柔らかそうなシャツに淡いベージュのパンツを穿き、上品なピンクのリュックを背負い、靴は白いスニーカーを履き、シンプルでありながらも行動的な服装をしている。
「あ、バスが来たわ。あのバスですか?」
「そうです、あれです」
嬉しそうに到着を見守っていたおばあさんだったけれど、バスが扉を開くとポールのかげに身を引くようにして言った。
「わたくし足が悪いのでお先にどうぞ」
「急がなくても平気ですので、おばあさんからお先に」
言葉がするりと出てきて、私はおばあさんが乗車するのを待った。いざというときには後ろでおばあさんを支えることができるし。自然にそんなことを考えていた。
バスはまあまあ混んでいた。なんとかセールの日にあたらなければだいたいほどよい乗車率で、ポツポツと空いている席に座るか、座れないときでも店までの乗車時間20分のどこかで、空席ができる。
運転席近くの優先席におばあさんは座った。私は後輪の上の、膝を抱えるような態勢になってしまう、あまり人気のない席に座った。
まわりにはなんとなく見覚えのある乗客が座っている。休日、あまり遅くない時間に用事を済ませてしまおう。そういうタイプの、どこか似た人たちなのかな、と、毎度のことながらぼんやり考えてバス時間を過ごす。
しばらくして、さっきのおばあさんの声が聞こえてきた。
「福岡から引っ越してきたばかりなのです」
誰かに説明しているみたいだ。ちょっと首を伸ばしてみると、おばあさんは隣に座ったおばあさんと話をしているようだった。
「福岡と千葉じゃあ、勝手がちがってたいへんだろうね」
「そうですね、まだいろいろ慣れないことばかりで」
穏やかな口調で話しているのが聞こえたけれど、それはすぐに止んだ。
「あら、あんたも買い物?」
声の大きなおばさんが数人乗って来て、バスの前方は混み合った。
「できるだけうしろの空いている席にお座りください」
運転手さんがアナウンスしたけれど、
「もう少しで着くのだからいいじゃないの、早く出発して!」
おばさんの一人が怒鳴るように言い返し、何人かがワハハっと笑うと、そのままおしゃべりを始めてしまった。
こういうのもよくあることだったから、私は「またか」と思っただけだったけれど、さっきのおばあさんは驚いたのだろう。俯いて座っている。隣に座るおばあさんが数人のおばさん軍団のおしゃべりに加わると、あいだに挟まれてしまったおばあさんの姿はとても小さく見えた。
ショッピングモールに着くと、おばさん軍団は我先にバスを降り、私も周囲の流れに続いた。おばあさんがゆっくり立ち上がるのが視界の隅に見えた。
テナント店がたくさん入った大型ショッピングモールにはなんでもある。なんでもは言い過ぎだとしても、たいていのものはある。こういうときに便利ななにかがあったら、なんていう曖昧な状態で訪れても、ちょうどいい製品が見つかることがほとんどだ。
買おうか、どうしようか、考えて考えてやっと決断した西洋皿を買うと決めて、今日はここにやって来た。それなのに、西洋皿はなかった。輸入食器のコーナーがまるごと消えていた。
大型ショッピングモールにはなんでもあるけれど、悲しいかな、あるはずのものが急になくなることもある。シーズンごとの棚替えや商品のリニューアルに際する入れ替えが突如実行されて、前に来たときにはここらへんにあった、と思うものが、まるっと姿を消していたりする。
がっくりきた。しょんぼりした。けれど仕方がない。そういう流れだったのだ。考えてもどうにもならないことがある。また次の出会いに期待しよう。諦めきれない想いをなだめつつ、ブラブラと店を眺め、帰路に就く。
帰りのバスは、ショッピングモールを出て目の前の、大きな駐車場の端から出ている。毎時5分の発車だ。一本を逃すと次のバスまで一時間、待たなければならない。腕時計を見れば乗れるかどうか、ギリギリのタイミングだったけれど、小走りに急いでいくとまに合った。
乗車と同時に発車のアナウンスがされる。ちょっぴり悪いことがあったあとだから、いいこともある。きっとそう。こういうのも流れだ、と思ったりする。
帰りのバスのほうが混んでいた。乗り込んだ扉に向き直るかたちで外を見て帰る。買い物をしたという充実感はなく、ただ少し疲れていた。少しだるく、少しさびしい帰り道。ドアが開き、新しい乗客が現れたら詰めて空間を作らなければならないと思うと、少し憂鬱でもある。幸い、うちの前のバス停まで、乗り込んでくる人はいなかった。
「あら」
バスを降りたところで声をかけられて気が付いた。朝のおばあさんが、おなじバスに乗り合わせていたようだ。おばあさんも収穫がなかったらしい。私たちはお互いに手ぶらだった。
「もしご存知だったら教えてくれるかしら。このあたりに100円コーヒーのお店があると思うのだけれど。もう少し時間をつぶしてから帰りたくって」
小さく首をかしげながら遠慮がちに、おばあさんが訊いた。
「100円コーヒーですか」
つぶやきながらしばし考える。このあたりにカフェはない。ファミレスも駅のそばまで行かなければならないから、このあたりとはいわないだろう。100円コーヒー……。あ、コンビニのコーヒーか。たしか100円だった。うーん。あそこはちょっと奥まっていて説明が難しいな、と思う。
「あっちへ5分くらい歩いたところにあるコンビニのコーヒーが100円だったと思います。コンビニの場所、わかりますか?」
もしかしたらクセなのかもしれない。おばあさんはふたたび小さく首をかしげた。
「コンビニだったら見ればわかるだろうから、行ってみます」
やさしく笑っているような、それでいて少しさびしそうな声だった。
「よかったらご一緒しましょうか」
またしても言葉がするりと出てきた。
「いいのですか? ありがとう」
おばあさんはほほえんだ。
コンビニまでゆっくりと、ふたり並んで歩く。途中、
「こっちです」
「その先を左折します」
そんなふうにちょっと道案内の言葉を口にしたけれど、とくに会話はなかった。それでも、無言は苦にはならず、むしろ心地よいくらいだから不思議だ。
「レジで注文して、あっちのテーブルで飲めると思いますよ、コーヒー」
あっというまに到着したコンビニの前で、自動ドアが開かないくらいの位置に立ち止まって説明する。
「どうもありがとう」
おばあさんが優しい笑顔を見せた。そして少しも躊躇うことなく言葉を続けた。
「もしよかったらお友だちになりましょう」
やさしく、それでいてきっぱりと、気持ちのいい声で、おばあさんは言った。そして私は、考えることもなく、頷いていた。
こんなことを言われたのはいつ以来だろう。仕事で出会ったのでも、SNSで知り合ったのでもなく、自然に言葉を交わし、友だちができた。
わいてきた疑問に答えを見つけられずにいる私に、おばあさんは言った。
「じゃあまた、バス停でね」
そうして、ふわふわと柔らかく手を振って、コンビニの中へと歩いていく。
じゃあ、また。なんだかグッときた。もうすっかり忘れてしまっていた。こんなふうに友だちができることを。
うちの前にはバス停がある。そこで友だちができた。「わたくしもう、82歳のおばあちゃんなのよ」と笑う、可愛らしい、おばあさんの友だちが。
<このお話はフィクションです>
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嶋津亮太さんの「第三回教養のエチュード賞」に応募させていただこうと思い、書いた作品です。どなたか、この小説を好きだと思ってくださる方のところに届くと嬉しいです。
また、ステキなコンテストとの出会いにも感謝いたしております。
嬉しい創作の機会をありがとうございます!
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