セックスワークって何だ


セックスワークそのものを無くすべきもの(=搾取構造そのもの)として否定する藤田氏と、無くすべきはセックスワークではなくそこにある搾取構造であり、藤田氏の言説は職業差別であると主張する要氏の対立があった。

藤田氏の意見にいささか疑問があるのは、ソーシャルワーカーである藤田氏は、クライアントに支援を押し付けてはいけないと考えるからだ。

もちろん「搾取されている」と感じているセックスワーカーがいたら、労働環境を調整するのがソーシャルワーカーの仕事だと思う。

だけど、セックスワーカーが労働環境に納得しているのなら、それに対して「あなたたちは搾取されているんです。助けてあげますから別の仕事をしてください」というのは、あまり福祉的じゃない。

わたしの狭い世界のなかだけにも、風俗をやめたいのにやめられない子(いわゆる”落ちた”子)と、自分で納得してセックスワークをしている子の両方がいる。

福祉は個人のニーズに合わせて提供されるべきであるから、後者に対して支援を押し付けてはならない。

ただ、難しいのは、明らかに搾取されているのに「大丈夫です」というセックスワーカーがいたら「それはマズいんです」と何らかの形で助け舟を送るのも福祉の仕事だということ。

その”明らかな搾取”が何に当たるのか、というのが非常に難しい線引きで、藤田氏からしたら、風俗そのものが”明らかな搾取”なのだということなんだろう。

わたし個人(福祉職としてではなく、あくまで個人のわたし)は、じつはセックスワークに懐疑的である。

”普通の男性”がセックスワーカーに侮蔑的な言葉を投げる姿を何度も見てきたし、実の父がまあまあの風俗狂いであった(父もまた、社会的には”普通の男性”であるわけだけれど)ことも、その価値観に影響していると思う。

お金を払って人の体を買うということが、それが仕事になるということが、感覚としてはどうしても理解できないのだ。

でも、わたし個人が納得できないということは、セックスワークを否定していい理由にはならない。ソーシャルワーカーとしてのわたしは、セックスワーカーをただ一人の社会人として尊重するし、それ以上でも以下でもない。

感覚は分からないけど、セックスワークも、その仕事にプライドを持っている人も、確かに存在しているのだから。

ただ、藤田氏の以下のツイートについては、自分の中で納得する答えが浮かんでいない。


慰安婦を好きでやっている人がいたとが、奴隷であることに納得していた人がいたとか、搾取していた側の最低な開き直りは、歴史に散見する。

セックスワークが同じだとは思わないけど、まともな人権感覚と世間に対する耳目の欲がある人なら、セックスワーカーから搾取することを正当化している人を見たことがあるはずだ(ナイナイの人とかね)。


たぶん必要なのは、冷静かつ平等に(これが難しいわけだけれど)、当事者の意見を聞くことだ。

わたしは当事者の話を聞く術を持たないから、当事者の話を吸い上げている人の情報発信を、できるだけさぼらずにキャッチしようと思う。


それだけ。情けないですが、もうすこし考えます。