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あたらしい概念をとりいれてしなやかに生きる・分人

久しぶりに越後妻有へ。
その前に駅で「私とは何か 個人から分人へ」(平野啓一郎)を購入。

ざっくりと解釈。

個人という概念こそが私たちを苦しめている。個人すなわちindividual、それ以上分節できないもの。そこに私たちは、統一された、一貫した自己を夢見る。自分にはひとつの核みたいなものがあると想像する。しかし、相手やコミュニティに応じて自分の思考や態度が変わってしまう。それは「ウソの自分」なのではないか、本当の自分はどこにあるのか、葛藤する。でもそれは「個人」という概念をこれ以上文節できないものとして捉えることによるものであり、さらにそれより小さな単位「分人」として、自己が持つ、場面に応じたそれぞれの性格を捉えることができれば、何らおかしなことではない。そのどれもが自分なのである。

なるほど。

私が年を取るにつれ恐怖を感じていたのは、まさにこの「本当の自分/ウソの自分」という極端な二分化から抜け出せなかったことに原因があると感じた。

仕事上はそつなく振る舞い、根拠なき直感や甘い考えを隠す、否定的な話はしない。こういう自分(これは私の1つの分人である)、これは無理をしているウソの自分だ。だからいつか、ウソの自分は耐えきれずに肉体からハシゴを外して去っていき、ウソの自分の抜け殻だけが社会に残り、いつか、気持ちが弱くて人の目が気になり、ものぐさで、行動は行き当たりばったりで発散的で、ひとり静かに考えるのが好きな自分が代わりを務めざるを得ないのではないか?そういう恐怖だったと思う。

そこに分人という概念を取り込むと、うまく切り抜けられる可能性がある。自然に出てきた社会的な自己は、じつはウソの自分ではなく、1つの側面である。

年齢を重ね、自分の新しい関心ごとや、思いの外に際限なく広く深くなっていく感受性を知り、様々な態度を取る自分を知り、趣味だけで繋がる友人を得たりして、あまりにたくさんの自分との出会ってしまった。そして、いつどの自分が他の自分を苦しめるかと怖くて怖くてたまらなかったのだ。

これは誰にでも起こりうることで、大切なのは、どれが本当の自分だと決めつけないことのようだ。無意識に人にいい顔をし、無理をしてしまうのも1つの分人であり、それはその時の私はそうしたくてそうしているのだ、ということを、きちんと認めること。ウソの自分が本当の自分を苦しめているという感覚を持たない。私はただピアノのように存在していて、それ自体はなんの音楽も奏でない。そして誰かがこの私に立ち寄り、束の間、私と他者はコミュニケーションという音色の上で適当なリズムを探り合い、溶け合う。他者が知る私は個人としての私のようで、実は私と他者の間にある何か、私が持つ1つの分人を見ているにすぎず、そしてそのことを他者も私も理解することが、確かに今の時代に必要なことなのかもしれない。

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