備忘録

私は私を構成する全てに一度は感謝し、そして一度はおそらく憎悪している。
実家、過去の同級生、他患者、医療従事者、その他。
感謝とはなんだろう、私は期待に似たものだと思う。
出会い、そしてそこに感謝するというのは、何某か自分に利益をもたらすと考えるからそうするのではないか。
生きていることに感謝する時、人生は絶望に満ちてはいない。幾許かであっても希望があり、そこにすがろうとしているまさにその瞬間なのではないか。

期待をするから絶望するのだというのはよく言ったもので、間違っているとは思わない。
ただ、付け加えるならば期待をしなくても絶望はし得るということか。
道に転がる小石があっても感謝はしないが、小石がごっそりとなくなっていたら、小さな絶望を覚える。そこに不安は生まれるだろう。
何が起きたのか想像することができなくても、理由なんかなしに、起きた出来事の結果のみ観測してそこに絶望することができる。
絶望はやすい。易々と手に入るし安安と転がっている。誰もが手にできるものだろう。

反対に希望は抱くことが難しくなる時もある。
繰り返し絶望をすると、期待することに大きなエネルギーが必要になる。
リスクを考えて、最初から期待しないという選択をするパターンは少なくない。
先ほど期待をしなくても絶望はし得ると申し上げたが、期待をした場合の絶望と期待をしなかった場合の絶望は大きさが異なる。
やはり絶望の大きさは元々期待をしていた時のほうが大きくなるであろう。

私の場合はそれが顕著に現れる。
楽しみにしていた行事は想像と少しでも違うと落胆してしまい、ちっとも楽しめない。
反対に楽しみにしていない行事というのは、楽しくはないが落胆することはない。
私の場合、楽しみにすること自体が無駄な期待なのである。
言い換えれば楽しみにすることで自ら絶望を生み出しているのだ。

だから生まれたことにも感謝せず、未来に期待などしない人は強いのではないかと思う。
人生を楽しめていないと揶揄する人がいたとしても気にすることはない。
その人らが費やす莫大なエネルギーを有意義に使うことができるのだから。

しかし当然、個人差があることは断っておかなければならないだろう。
私の場合について述べただけであり、観測者が異なればちがう見解が生まれる。
もしあなたの考える世界観が私と違えばぜひ教えていただきたい。