見出し画像

【シン・弱者論スペシャル】 切腹を認めよ!そして怨霊となれ!


 弱者とは何か、弱者をどのように定義すべきかについて、斬新で切れ味するどい仮説を叩きつけまくっているこのシリーズも、今回は特別編・スペシャルでお届けしよう。

 今回の提言は、ズバリ!タイトルとおりの衝撃発言だ。

「弱者の切腹を認めよ!」

「怨霊を鎮めよ!」


という、ちょっと何言ってるのかわからない爆弾テーマだが、以下の話をじっくり読み込んでゆけば、その意味はおのずと理解できるに違いない。


 まずはシンプルに言いたいことだけ先に言っておこう。

 弱者は、切腹して果てることが許されるべきだ。そして、その自害は「あっぱれ」な所行と認められるべきだ、と解脱者は言っているのである。

 まるで江戸時代の武士道のように、「敗者の美学」を尊重することで、現代社会における弱者問題の一部が「すっきりと解決する」という提言である。

 そして、それに付随するように、もし、弱者がこの世に恨みを抱きながら生きているのであれば、切腹して果てたのちに「怨霊となれ!」と説く。そして、生き残った我々は、その怨霊の恐ろしい霊力を受け止め、そして尊重し、丁重に祀り、鎮めるべきである、と言うのだ。


 まずは、次の2つの記事に目を通してほしい。

https://diamond.jp/articles/-/295591


https://president.jp/articles/-/53016


 前者は橘玲氏によるもので、「弱者男性・下級国民」の拡大自殺テロについて語ったものである。リベラル・自由主義的な生き方によって「成功者と失敗者の格差は必ず開いてゆく」ので、これらのテロは散発的に必ず起きる、としている。

 これはもう、まさにおっしゃるとおりで、自由主義社会のもとでは「機会の平等」についてはある程度考慮されるが、「結果の平等」は担保されない。当然、勝者と敗者はかならず生まれるので、敗者はただ鬱々とした怨念をくすぶらせながら、社会全体を恨むしかないわけだ。

 そして、この現世社会において、結果的に平等に近い「成果」「結果」「結末」を得るためには、自分が再び成功者になれないのであれば、「誰でもいいから引きずりおろして嫌な目にあわせてやろう。そう、俺とおなじくらいには酷い目にあえばいいのだ」と考えるしかない。

 だから、拡大自殺や、弱者によるテロが増えるという未来がやってくるのである。


 ちなみに、これまで、こうした拡大自殺や弱者テロが起きなかったのは、「一億総中流」だったからで、成功者と失敗者の差が、現在ほど大きくなかったり、失敗者になってしまう絶対的人数が少なかったからであろう。


 では後者の論についても見てゆこう。

 後者は齋藤環氏と佐藤優氏によるもので、こうした弱者男性が増えると、「優性思想」が頭をもたげてくる話を書いている。

 成功者と失敗者が確実に生じるのであれば、「失敗者のほうには、実は存在に意味がなかったのではないか?」という疑念が頭をもたげてくることは自然なことである。(それが良いか悪いかはべつにして)

 あるいは「どうせ成功しないのであれば、安楽死してもいいじゃないか」という発想も出てくるし、自分より弱者に対してはより酷い目線を投げかけることにもつながってくるという。

 つまりは、「結果としての価値があるかないか」しか見ないのだから、「結果が出ないものは無価値で、非難されるべきで、死んでもいい」と考えるようになるというわけである。


 その「死んでもいい」ような存在が、「結果」をなるべく平等にしようと思えば、やっぱり「結果を持っている層から奪い取る」しか方法がないだろう。なので、ささやかな幸せを抱いて生きている誰でもいいそこらへんの人を刺し殺したり、焼死させたりして、みんなで酷い目に合い、そして結果的に犯人もろとも死ぬ、ということは理にかなっているわけである。


 ところが、それでは「弱者テロ」や「拡大自殺」はいっこうになくならない。無関係な庶民が、つぎつぎに不幸な目にあってしまうだけである。なぜ、こんな理不尽なことが起きて、なおかつ止められないのか。


それは、「結果の平等」のようなものが存在するという幻想が、そもそも間違っているからである。人はみな「幸せになれる権利を持っている」という誤ったスタート地点が設定されているから、

「俺だって幸せになれるはずなのに」

という誤解と恨みだけが残るわけだ。

 実はそうではなく、誰もが幸せになれる権利など有しておらず、日々のプロセスによって

「幸せを積み重ねてゆくものと、それを最後まで得られないもの、あるいは、いったんは手に入れたけれど失うものなどが、バラバラに存在するのだ」

ということが正解なのである。


 解脱者から見たこの世の正解というのは、「人権」や「平等」なんてものは最初からうそっぱちで、「何にもないところから、人は何かを積み上げてゆくしかない」のだと思っている。

 となると、結果的に「たくさん積み上がった者」もいれば「少ししか積み上がらなかった者」もいるし、「時の運で積み上げたものを失った者」もいることになる。

 それぞれは、それぞれの生き方で、それぞれバラバラな結末を迎えるのが人生の真実なのである。


 だとすれば、「人は幸せな死を迎えるべきである」ということはない。どんな死に方をしても、それはその生き様である。

 しかし、そのそれぞれの生き様を「外部の人間がとやかく言ったり、嘲笑したりするべきではなく、ただ尊重すべきだ」ということになる。

 たとえ自殺・自死であっても「尊重すべき」だ。

 幸いなことに日本には「武士道」という感覚があり、敗者に対しての尊厳については、比較的外国人よりも理解しやすい土壌がある。それを持って解脱者は

 切腹を認めよ!

と言うのである。

 人生において、敗者弱者となることは多々あるだろう。しかし、その戦いざまは嘲笑されるものではなく、尊重されるものである。

「もはやこれまで、潔く腹を切る」

と思って自刎することは、なんら恥ずべき事ではない。よくがんばった。しかし、天は君に味方をしなかった。時の運が足りなかっただけなのだから。

 すべての将は平等に戦ったが、勝つものもいれば負けるものもいるだろう。だから、誰かを巻き添えにすることなく、ただ一人山中で自決するのは、尊重されることすらあっても非難されるものではないだろう。

 だから、人は自殺をしてもよい、と解脱者は喝破する。

 それどころか、他者をまきこんで拡大自殺をするくらいなら、潔く自決するほうが、はるかに尊重されるべきである。そういう捉え方をするほうが、実はまともなのではないか?


 それでもまだ、この世に恨みつらみを残して死んでも死にきれないというのであれば、怨霊となってたたるがよい。

 平将門、崇徳上皇、菅原道真など、たたりによって恨みを表した者は数知れない。だからこの世で騒ぎを起こさず、あの世からたたるがよいのだ。

 そうすれば、人々は手厚く弔ってくれる。切腹して果てた哀れな敗者を、こころから尊重する気風を日本人はもっているからだ。

 拡大自殺を図るテロリストであっても、誰にも知られず絞首刑になるよりかは、手厚く祭られるほうが嬉しいだろう。この世では果たせなかった恨みは、あの世で昇華されるべきなのだから。


 そのためにSNSがある。そのためにインターネットがあるのだ。君に恨みがあるのなら、デジタル遺書として、デジタル怨念として洗いざらいその恨みつらみを書いて自死すればよい。さすれば誰でもいい誰かを殺すことなく、その恨みは永久にデジタル世界に残り、怨霊となってさまようだろう。

 ある特定の男を恨むような場であれば、受けた仕打ちをすべて書き残して怨霊となせばよい。いつかその不正は暴かれ、自刎した君の存在とともに、白日のもとにさらされるだろう。

 社会への恨みであれば、それもスミからスミまで書き残し、公開して果てるとよい。その提言はいつか未来を変える。君のデジタル怨霊は、社会が祀り、弔ってくれるのだ。

 そうした怨霊となる切腹のほうが、無差別殺傷より、はるかにマシである。


 惜しむらくは、これまでの無差別犯が、こうした解脱者の提言のような「方法」を知らなかったことである。もしこの方法を知っていれば、

「自分の生き様と恨みは、永遠にデジタル世界で怨霊となって生きつづける」

「無関係な誰かを殺傷せずとも、自分の生き様は誰かに知られ、そして尊重される」

「敗者にも、美学があることをわかってもらえる」


ということのすばらしさに気づくに違いない。


 問題がひとつだけあるとすれば、国や社会は「自殺者は減らすべきだ」と考えている点である。

 私は解脱者なので、「他殺者を減らすべきであって、他殺者が一人減るのなら、自殺者が一人増えてもよい」という立場なのだが、そこは永遠に相容れないだろう。


 こまったものだ。なのでその恨みを、まずはここにはっきり書いておくのである。怨霊だぞ。


(おしまい)





 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?