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平家物語と、弱者救済


 見たいと思っていたが、チャンスを逃していたアニメ「平家物語」をやっと見ることができた。

 うちの息子が、いまNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にハマっているので、源氏と平氏の両面から、平安末期から鎌倉時代にかけての動きを把握することができて、面白いようだ。

 余談だが「平家」というのは「平氏のうち、清盛らのグループを示す」ものだと思っておけば間違いない。平家は壇ノ浦で滅びたが、平氏は全然滅びてはいないし、源氏政権ができた鎌倉時代以降も、バリバリ頼朝らの下で御家人として生き残っている。

 これを言っちゃあ興ざめなのだが、ぶっちゃけ北条氏は平氏の末裔らしい。なのでなおさら、「鎌倉殿の13人」の中で、平氏と平家の違いについて解説しようとすると、変な感じになってしまうというわけだ。


 さて、アニメ平家物語は噂に違わずよい出来であった。高畑勲が「竹取物語」を描いた延長線上にあるような雰囲気で、絵やグラフィックも、演出もすばらしかった。

 アニメ独自の物語として、「びわ」という未来を見通せる少女が登場する。もちろん、原作にはいない人物であり、一種の狂言回しのようでいて、なおかつ傍観者として作用するこの「びわ」は、本質的にはストーリーには不要な人物である。

 誰もが知っているとおり、平家は壇ノ浦で滅ぶ。そこに至るまでは紆余曲折あるものの、基本は「奢れるもの久しからず」であり「栄枯盛衰」「諸行無常」である。古典の授業で習ったとおりである。

 だから「びわ」の存在は、平家物語を見ている私たちそのものでもあるわけだが、私たちは未来を知っていて、「びわ」も未来を見ることができる。


 ところが、この物語を貫く、もうひとつの”本質”というか”芯”のようなものがあって、それは

「未来を知っていても、未来が見えていても、何もできない」

という点であろう。

 これを描くか描かないかでは、僕たち私たちの生き様や人間の本質というものは大きく違ってくるように思う。

 びわは未来を見ることができるから、平家の行く末も断片的ながら予言することが可能だ。なので、当然、傍観者ではありながら「何とかしたい」という希望や思いを持っていて、なおかつ、各所で登場人物たちに関わろうともする。しかし、物語が進むうちに、「未来が見えても何もできないのではないか?」ということに気づきはじめ、途中では「もう未来を見るのが嫌だ」という感情にも襲われる。


 これは、現代を生きる我々にも、当てはまるかもしれない。未来を見通せたり、あるいは何か強い力や、超自然的な能力を持っていれば、この苦難の時代を乗り越えられるのではないか?と人は思うだろう。

 しかし、どんな力を持っていても、どんな霊力や超能力を持っていても、実は「無力」であり「何もできない」ことに気づかされる。

 それはどういうことかというと、たとえばウクライナで起きている戦争を想像してみればわかるだろう。

「未来を見ることができたり、何か超自然的な力を持っていれば、戦争を防げたり、人々を守ることができるだろうか」

と推測してみればいい。 

 すぐに「あの時、未来にウクライナで何が起きるかを予言できたとして、何人の人を救えただろうか」と思ったとしても、

「いや、それでも多くの命を救えないかもしれない」

と思い直してしまうのではないだろうか。

(事実、そうだ。未来が見えるくらいではウクライナ政府を動かすことや、戦争を止めることはできないだろう)

 あるいは新型コロナウイルスの誕生を予見して、何ができただろう。おそらく「何もできない」のがオチなのではないだろうか。


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 未来を見通す力ではなく、誰かを呪い殺したり、倒す力で想像してみよう。

 何も起きていないのに、某国の大統領を事前に殺したり、某国の首相を権力の座から引きずりおろすのが良かったのだろうか。あるいは、恨みを募らせたある個人が銃を作成するのを止めればよかったのだろうか。

 はたまたあるいは、ある巨大な宗教組織を離散させていれば、日本の未来は平和だったのだろうか。何も起きていないあの日に。 

 そうしたことを想像すると、すべての事件を未然に防ぐ力、つまり「この世をずっと平らげておく力」でもないかぎり、それら一つひとつの事象への対応は、とても処理しきれるものではないことがわかるだろう。

 「探偵が早すぎる」のように、事件を未然に防がなくてはいけないことが、どれほど不可能なことか、想像してみればすぐにわかる。

 年間自殺者が3万人いるとして、1日80人を救わなくてはいけない。力を持っているあなた一人で。年間の交通事故は4万件だ。一日100件を未然に防がなくてはいけない。あなた一人で。

 ・・・そんなことを考えてゆけば、結論は自ずと出るだろう。

「ああ、わたしに力があっても、ほとんど何もできない」

という無力を知る以外にないのだ。


 未来を見通せれば、馬券を的中させることくらいはできるだろう。それでも救われるのはあなた自身(の財布)とせいぜいその周辺のわずかな人たちだけだ。超能力があったとしても、あなたの身の回りの人のほんの小さな役に立てるくらいのことだ。

 それを毎日馬車馬のように積み重ねても、どんどんそこからこぼれ落ちる人たちが出てきて、あなたは鬱になってしまうかもしれない。能力者なのに、である。


 ましてや、ふりだしに戻るが、

「僕たち、わたしたちには、何の力もないし、最初からほとんど何もできない」

のである。

 だから「平家物語」の本質がおのずと浮かび上がってくる。

 それは、「見たことを語り継ぐ」ことと「菩提を弔って祈る」ことだ。

 「びわ」しかり、「徳子」しかり、できることは「語り」「思い」「しのび」「祈る」ことのみである。

 権力の座にあっても、能力があっても、できることはそれだけなのだ。

 それくらいしかできない、というオチ、すなわち事実こそが

「諸行無常」

なのである。


 このnoteでも、何度か「弱者とは何か」とか「どのように救うことができるか」「どうすれば救われるか」などについて考えてきたが、結論はおそらく、

「何もできず、祈り、菩提を弔う」

ことのみなのだろうな、と思う。人であるから、あがく。人であるから抗ってはみるが、それでもオチは同じだ。

 弱者であれ、誰であれ、私やあなた自身であれ、いろいろ「良かれ」と思って選択をして、生きているが、それはうまくいくかどうかはわからない。うまくいかないことも多いだろう。

 それを矯正して、修正して、変更して、救って助けられるかは、わからない。できることなら、何がしかの助けをしたい、とは思うけれど、それでもうまくいかないことだってあるだろう。

 だとすれば、あとは「菩提を弔う」しかないのだ。南無南無する以外に、どうしようもないからだ。


 これは消極的な気持ちで「どうしようもない」と諦めているわけではない。むしろ、最大限の尊重を持って、「お疲れ様でございました」と礼を尽くすということである。

 弱者や敗者を馬鹿にするのではなく、敬意を持ってその滅びとその敗北を弔うのである。その昔、敗者が怨霊とならぬために、手厚く祀ったように、最後まで礼節を尽くすのである。

 以前に武士道について書いたことがあるが、それにも似ている。勝者は敗者を討つが、そこには武士としての誠意が根底にある、ということだ。


 平家物語原作の本意は、「奢れる者も塵も同じである」という諸行無常にあるが、読み誤ってはいけないのは

「おごり高ぶっていたから、ゆえに滅んだ」

ということではない。つまり、因果応報を説くものではないということである。

 つまり、これは自己責任論ではないのだ。そうではなく、弱者も強者も、いずれも塵である、ということに重点がある。

 だからこそ「びわ」の視点と存在は、その本意にさらなる深みを与えている。あなたもわたしも、誰も彼もが良いときも悪いときもあるのだから、万人がある意味平等であるからこそ、その最期は祈り、語り、菩提を弔う以外にない、ということなのだ。


 南無南無、アーメン。



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