小説「写真」

 行きつけのカフェのお気に入りの席から見える景色が好きだ。壁側の席から、ちらほらと行き交うお客様の背景にその景色を見る。誰のものか分からない家の隙間から緑が覗いて、その奥には海と空の青が混ざり合う。そんな取り止めもない景色が好きで、ずっと手元に置いておきたいと願った。

「それなら写真にでも撮って部屋に飾ればいいじゃないですか」

 ぼんやりとした様子で、何故そうしないのかという疑念を抱いた目で彼がこちらを見る。彼は友人の後輩で、初めは中々会話が続かなかったものの今では一緒に買い物に行けるような仲だ。彼はよく出来たやつで朝が苦手だというのにこんな早朝から自分の気まぐれな誘いに乗ってくれる。

「そういうわけにもいかないんだよ。奥の、空の色はまだ少しくらいだろう?これがお昼時になると綺麗なブルーになるし、夕方になると太陽の赤がキラキラとしたグラデーションを生んで凄く綺麗だし、夜は星空と夜景が拝めるんだ。その移り変わりが好きだからね、手元におきたくてもなかなか難しいんだ」

 自分は中々優柔不断なところがあるから、と言い訳がましく説明すれば彼はとろりとした目をゆっくりと瞬かせ言葉を返してきた。

「なるほど?」

 それだけ言って興味が失せたようにコーヒーを飲む。この言い方はまるで理解していない時の言い方だとわかるぐらいの付き合いになった。別にどうしても理解して欲しいわけじゃないし、と少し寂しい思いを抱きながらこちらもコーヒーカップに口をつけた。

「いつか見つかるといいですね。あんたのお気に入りの景色ってやつが。」

 後は時間帯だけなんでしょう?
 そう言って視線だけこちらに向けた彼は少し笑っていたような気がして、なんだか嬉しくなって、今度は昼間に来ないかと誘えば、彼はコーヒーを飲み干して奢りならいいですよ、と言った。

 二度目はお昼、その次は夕方、その次は夜、そしてまた早朝、と何度もその席に座っては景色を眺めた。たいした話は出来なかったが彼は静かに隣にいてくれた。自分のわがままから始まったそれが2人の習慣になるまであまり時間は掛からなかった。

「海外に行く事になったんすよ」

 彼は唐突にそう言った。

「先輩の補佐で、悪いようにはならないからって言われて、先輩もいい経験ができるぞって」

 本当に最近決まったんです、と彼は言った。少し俯きがちな視線の先でコーヒーを揺らしながら彼はゆっくりと経緯を話す。昔海外に憧れがあって日常会話に困らない程度には英語を勉強している事、行ってみたい場所がある事、してみたい事がたくさんあって先輩もそれをサポートしてくれるというから行くと決めた事。珍しくたくさん話した彼は小さく深呼吸をして再度口を開いた。

「すっごい急なんですけど来週には日本を出ます。」

 しばらく日本には帰れません。
 それだけ言い切って彼は口をつぐんだ。なにか言いたげに見えたが彼はそれ以上を言わなかった。

「良かったやん。おめでとう」

 どうか楽しんで、と言った言葉は間違いなく本心から出た。自分も海外に行ったことがある、と前置きして楽しかったことや注意点などを話す。彼は小さく相槌を打ちながら、時折質問を交えながら話をした。緩やかに時が流れて気付けばかなりの時間が経っていた。

「しばらくこうして一緒にお茶をすることもなくなるな」

 寂しくなる、と溢れた声は無意識で。隣にいた彼が小さく息を呑んだ音がした。なにか言おうとして口を開けるものの思いを音に出来ないらしい彼を見て少し笑ってしまう。

「カメラ持っていってさ、写真撮って帰ってきてよ。それで一枚一枚解説して、最後にお気に入りの景色を教えて、その写真ちょうだい。部屋に飾るから」

 楽しみにしてる。そう言えば彼は少し虚をつかれたような顔をしてふにゃりと顔を綻ばせて笑った。

「ならあんたもお気に入りの景色を俺にくださいよ。場所は決まってるんですから後は時間帯と季節ぐらいでしょ?時間はあるんだから最高の景色を決めて俺に教えてください。俺も部屋に飾ります。」

 俺も楽しみにしてます。そう言って悪戯っぽく笑う彼はいつも通りの笑みを浮かべていた。
 仕方ないから奢ってやる、なんてこっちも同じように笑って、お金を払って店を出た。じゃあ、と軽く手を振ってお別れをした。風が冷たい冬の日の事だった。

 あれから季節は巡り、3度目の冬がやってきた。見送りには行かなかったし、あれ以来連絡もとっていない。友人からのメールに添えられた写真に写っていたので無事なのはわかっている。予定より長くなったことも、今日が帰国日だと言うことも。
 いつものカフェのいつもの席に座る。隣にはこの3年で中々使い込まれたカメラがある。席からカメラを構えてみたもののやはり物足りない。

「やっぱり物足りないんだよなぁ…」

「なにがです?」

 不意にかけられた声に顔を上げる。そこにはキャリーケースを引いた懐かしい顔があった。

「隣、いいです?」

「いや、前がいいかな。座ってくれる?」

「奢ってくれるなら」

 仕方ないなぁ、と同意を示せば前の椅子が引かれ彼が座る。少し髪が伸びただろうか、着慣れているライダースーツはあの頃と変わりはしないもののあの頃よりもなんだか窮屈そうに見える。
 カメラを構える。ファインダー越しに俯きがちな彼が写り込む。
 カシャリ、と軽い音がして景色が切り取られる。程よい高揚が胸を鳴らす。

「お気にいりの写真、決まりました?」

「うん、たった今決まったよ」

 さて、何から話そうかとカメラを隣に置く。
 まずは想いのうちを明かして、そこから思い出話だろうか。時間はたっぷりとあった。

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