映画館で見るもののけ姫について

2024年1月末で閉館してしまう映画館でもののけ姫を観ました。
映画館で観るのはコロナの間に打ってたキャンペーンぶりだろうか。

映画館で映画を観るということ


私は映画館が好きだ。テレビで見る映画もパソコンのモニターでだらだらと観る映画も良いが、映画はやっぱり映画館で観たい。
家で観るのでは聞き取れないような小さな音や画面の隅々までを眺められる幸せを噛み締めるために映画館で映画を観るのかもしれない。
スタジオジブリの初期あたりの作品が公開された当時は映画館で映画を観れるような年齢ではなかったため、記憶にあるジブリの作品の初見はほとんどテレビなのだが、それらを映画館で初めて観た時に記憶の中の作品よりも遥かに多くの音が聞こえて驚いたのだ。
映画というのは映画館で上映されるべく作成されたものである、という事をきちんと理解できたのはスタジオジブリのおかげといっても過言ではない。

「映画館で携帯電話の電源を切るのは、物語の世界へ飛び込むための切符なのだ。」
という言葉を胸に映画館で作品を楽しむことにしている。

改めて観たもののけ姫から推察するシシガミ様の姿

シシガミ様は生と死を司る象徴として表現され、最後は自らが破壊した森を再生して朝の光に消えていく。
作中で(シシガミ様の意図として)死を与えたのは後に祟り神となった乙事主とナゴの神の2人なのに対し、人間には生を与えている。

「神であろうとも死んだものを生き返らせることはできない」
これを前提として、”恨み”に着目してシシガミ様が与えた生と死について考えてみる。
シシガミ様が死を与えた二人はシシガミ様が関与できる時点ですでに祟り神になる一歩手前/なっている状態で祟り神になってしまったもので、彼らは多くの”恨み”をその身に多く溜め込んだ状態だった。祟り神から元の名のある神の状態にすることはできないがその命が終われば祟り神としての役目も終わるのだとすれば、シシガミ様は死を与えることで彼らに救いを与えたのだ。
一方、生を与えた人間側は”恨み”よりも何かを信じる気持ちの方が強く、強い呪いで死ぬ運命だった人間やハンセン病で苦しんだ人間もまとめて完治(?)させて彼らには生を与えたように思える。

ここから推察されるシシガミ様の姿はその地に生きる生命に対しての救いを提供するものとなる。
最後首だけになったモロがエボシ様の腕を噛み切る場面があるが、モロはずっとエボシに対して一矢報いたいと思っていたことを考えれば、事切れる寸前の命を少しだけ引き延ばしてその機会を与えたという意味で、それはモロに対する救いなのだと思う。


2月は紅の豚がシアタス調布で公開されるのでとても楽しみです。

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